ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

NHK 「病名推理エンタメ!」

2012-06-29 21:29:14 | テレビを見て
昨日の夜10時からのこの番組。とても面白かった。

三人の研修医が問診することや、その患者の映像を見て、

その病名を推理するというもの。

MRIとかCTとかの機械は使わない。

昨日の患者はパーキンソン病が正解だった。

パーキンソン病の人と会ったことがあったり、

義父の慢性硬膜下出血の症状をを見てたりで、

これはパーキンソン病かなと私も推理してみたら、当たりだった。

私にはそれ以外の選択肢を知らないというのが当たった理由だけどね~

問診というのも凄いものだなぁと思った。

何を患者に問うか、それがネックだ。

この患者に昨夜何を食べたかなんて問うのはアホなんだろう。

最初患者から様子を聞いて、こーいう病気かなと仮定して、

それに当てはまる症状があるかないか問診する。

それについての患者の話を聞いて、

その病気の症状以外のものがあれば、その仮定は消える。

次に、じゃあ、アレかなと仮定して問診する。

問診を続けることで、いろいろな病気の中から可能性が絞られてくる。

問診から病気が現われてくる、感じがした。

パーキンソン病はMRIという機械では発見できないという。

昨日のテレビでは、かなりな時間の問診と患者の様子を目で見る観察で、

機械に頼らず、病気が見えてきた。

問診はその時の患者の様子だけではなく、日常の身体の状態を細かく問う。

具合はどうですか、なんて問診じゃ、患者はなにをどう言っていいのかわからないだろう。

機械のMRIで検査するのも身体の観察だけれど、

それはその一瞬の脳だか、身体の状態がわかるだけなんだろうと思う。

そ一瞬だけの観察じゃなくて、問診はその患者の発症時から今までの身体のその時々の様子を問う。

今日という部分だけでなく、身体の動きの変化を問う。

機械に頼ると、時間経過的な全体を見なくなるということが起こるのかもしれないなと思った。

それに機械がないと、機械が無くともなんとか患者の様子を知りたいという意欲は増すというのもあると思う。

去年の震災後、各地の医師が被災地に駆け付けたそうだけど、

津波で医療器具・機械がみな流され、聴診器と問診だけで、

診察するという経験を初めてしたという若い医師が、

医師として本当にいい経験が出来たというような感想が新聞に載っていたのを読んだことがある。

それにしても、こういう番組が生まれたということに驚きを感じる。

本当に刻一刻とすべては流れているのだなぁと思うよ。




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「今日はいいお天気ですね~」

2012-06-29 10:01:36 | 言葉
昨日夜BS放送を見ていたら、ドイツ人が東北に魅せられて、

そこに住んで、村づくりのようなのをやっているというような番組をやっていた。

編み物をしながら、なんとなく見ていた。

最後のほうで、日本の挨拶の話をしていた。

「今日はいいお天気ですね~」「あいにくの雨ですね~」

「雪がよく降りますね~」・・・・こんな言葉を交し合うって。

私もここに住み、そんなふうな挨拶を自然にする。

「ええ天気やなぁ」「よぉ降るなぁ」「晴れてきたなぁ」・・・

多分外国ではこんな挨拶はしないのかもしれない。

英語では「ご機嫌如何ですか」中学で習った。

そして返事はI’m fine thank you.

それに比べ日本ではお天気。それに、おはよう。こんにちは。こんばんは。

それって、お早よう。 今日は。 今晩は。

それがどうした!?って外国人なら言うのかもしれない

それに、前に書いた「さようなら」もある。(2/25 burogu)

日本の挨拶って、今、いいなぁと思う。深い。

こういう日本の挨拶用語に対してもいろんな研究があるんだろうなぁ。

そういう専門的なこと、何も知らないけど、

今日のお天気はこうです。こんにちは(今日は)こんばんは(今晩は)お早よう。

誰も傷つく可能性が無い。

そのとき、機嫌がいいか悪いか、そんなことに関心を向けないというのもいい感じ。

誰にとっても空は青い。誰にとっても雪が降ってる。誰にとっても今日は今日。

否定のしようが無い。

自然と共に在る。

 








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「池上彰の新聞ななめ読み」

2012-06-29 08:57:13 | 新聞を読んで
今朝の朝日新聞に、こういうのがあった。

「『その瞬間』再現は難しい」の見出し。

オウム真理教の高橋容疑者が逮捕された時の報道記事について、

夕刊と朝刊、朝日と読売、みな、その瞬間についての文章が違う。

「」で表現されている高橋容疑者の言葉も異なる。

比較して読むと、いろいろ辻褄が合わない部分が出てくる。

部分を表現した文章が幾つかあって、それを合わせて、時間の経緯で見ようとすると、

矛盾が出てきてしまう。全体でぴったりはまらないみたい。

一つのジグソーパズルに、関係ない他のピースが入ってるみたいだ。

こういうことは当然起こることだと本当に思う。

そこに悪意だの黙殺だの捏造などは無いと思う。

言葉は意識なので、在った事実を描写しているつもりでも、

その人の捉えたことが言葉になる。

起こった現象をフィルムを巻き戻して見ることが出来れば、

起こった現象をその通り言語化できるのかもしれないけれど、

映画じゃないから、誰もその日にカメラを回してない。

まぁ、それも絶対じゃないとも思う。

相対的に物事を見てしまう人間というものの在りようがあるから。

みな、各人の記憶に頼っている。

記憶は思い出した時に新たに作られる。

夕刊では「高橋克也か?」と聞くと「はい」と答えた・・というもの。

朝刊では「・・・捜査に協力してください」と声をかけた。

男は「はい。私が高橋克也です」と言った・・というもの。

違うのが悪いと云ってるんじゃない。

面白いと感じている。そういうふうになるんだなぁと感心してる。

新聞社が夕刊では省略して記事にした・・のかもしれない?

でも事実を報道してるって云ってるんだから、そういうことはないか・・?

認識が言葉になる。事実が言葉になるわけじゃない。

その現象を無意識のうちにどう捉えているのか、

どう観測しているのか、

その人の関心の行き所で現象が一つの言葉になってそこに現われる。

簡単な例で言えば、或る男が私の夫なら、私は「男は・・」と認識しないだろう。

「夫は・・」と認識する。赤の他人や警察官ならその男を「男は・・」と認識する。

或る男の子供なら、その男を「父親は・・」と認識する。

どれも当然だ。

現象の一瞬一瞬を一人一人がその人仕様で捉えている。

この記事の最後のほうに、

「夕刊と朝刊で内容が異なっています。まるで芥川龍之介の『藪の中』のようではありませんか。

事実関係を正確に取材して記事に再現することが、いかにむずかしいかわかります。

と同時に、新聞を読み比べ、『本当は何が起きていたのか』

を推理することもまた楽しいのです。」とあった。

正確に取材して記事に再現することがむずかしい、

と、池上さんはわかっている。

でも、再現なんてあり得ない。

この事件に限らず、日常の暮らしの中でこんなことは山のようにあるだろう。

松本サリン事件で誤認逮捕された河野さんが言ってた、

「人間は間違うもの」という認識を持っているか、持って居ないかでずいぶん違うんじゃないかと思う。

起こっている現象を、在りのままに認識する、なんてことはかなり高度なことかと思う。

それには深い智慧がいるようにも思う。

自分の口から出る音、言葉は全部自分の捉えだということを自覚できたら、

批判がひとに向かうことはないのかなぁと思う。


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