渦巻き

どこかいった記録など

東海フラワーショウ2014

2014-01-26 09:40:42 | フラワー
        1月25日   東海フラワーショウ2014      

   東海市民体育館  1/25~1/26    






    金山から名鉄で太田川

      初めて降りたよ太田川駅。
        まだ新しい。   3層構造の駅ということだ。

          シャトルバスで会場へ。約20分間隔で運行。無料。       


        東海市民体育館 

       


          奥は即売会場でとても賑わっている。


          



       

      


        



        


   



      

    鉢植えの花を買っている方が多い。
    


 

          


 生け花展示もあり。




     



   

     今回思ったけど花を撮るって難しい、、、。



晩御飯~

2014-01-22 11:32:15 | 晩御飯
12月28日  雪もちらつく寒い日。


  今日の晩御飯は ばーさんと私だけ。

   まあいい加減。

  
      キャベツ中心なパスタと黒鯛の刺身とイカと里芋の煮物。




              鬼饅頭と。 
  (この鬼饅頭はあっさりしておいしかった、芋周りは蒸しパンだった)              


               

 むらさきいもの団子。
 


          赤ワインをボトル1/3ほど飲んだ。





         

                  

横山城~

2014-01-17 14:11:00 | 城-関西
12月1日    晴れ時々曇り



   滋賀県長浜市   JRで行くハイキング  
  「石田三成の出生地と横山城跡を訪ねる」


    8時2分の米原行。
     米原乗り換え~長浜行。


     
      米原駅で 蒸気機関車に出会った。
      ほかの車両に乗っていたのだが、蒸気の煙がシルエットとなって映り
      なんだろうと振り向いて気が付いた。
 

    
  
    長浜駅

石田三成
   近江坂田郡石田村に生まれる。
   長浜城主秀吉に見出され、近侍として仕える。その際の逸話は有名。
    

   三成の頭蓋骨とされる写真があり、またそれを元に生前の顔を復元して作られた肖像画がある。


   

家康との決戦に破れ逃走中、古橋村(滋賀県、長浜市)で捕らえられ、
          小西、安国寺らと共に京都六条河原で処刑された

          
          三成が刑場に向かう途中、黒田長政は馬を下りて三成に自分の羽織をかけてやったという。


       
今回、長浜城へは行かなかった。



  
     
        八幡神社。この日は神社のお祭り。




  

   裏に石田神社。


        
            奥の塀の前に石田家のお墓が埋められていたそうです。
            小高い山状態だったそうです。



    日吉神社。


    日吉神社脇~ここから横山城へ登る。


   京極氏の支城であった横山城は、永正14年(1517年)に浅井亮政(あざいすけまさ)に攻め落とされ、
   浅井氏の所有になってからは、小谷城を守るための出城の役目がありました。  
   

 登りやすい道。
      





    ボランティアガイドの方が細かく教えてくださいます。




     山城のことがよくわかりました。










   落ち葉がいっぱいですが、戦国時代は火を放たれたら終わりだということで

   落ち葉はきれいに掃き清められていたのでは?    というガイドさんのお話でした。






 ここで秀吉が、指揮をとっていたのかな。


    











                             深い堀も経年で自然に埋められていったそう。


              
 頂上で昼ごはん。
    京都、大阪からいらしている方が多い。  


        天気もよくて頂上から伊吹山が...ぼんやり見える~~~。



      
     


休憩したら下山開始。帰りのバスの時間が決まっているので。



 降りてきました。




                      三成が修行をしていたとされる観音寺。
             鷹狩の帰りに、のどが渇いた秀吉は観音寺に立ち寄った。

             対応に出た寺小姓が三成だった。(三献茶)



             だいぶ古くて痛んでいるようの見える、、、。
             雰囲気のあるよいお寺ですので修復してほしい、、。



  ここから少し先のバス停まで歩く。


   

   三成の長男、重家は大坂城にいたが三成敗北の知らせで石田家の菩提寺で出家。
   家康の家臣で京都所司代の奥平信昌を通じて助命嘆願し許されている。

   次男、重成は津軽まで落ち延び、やがて杉山源吾と名を変えて津軽藩の家臣となった。


 

   長浜駅の平和堂でお土産を買って、、、。

 今日は時間がないので米原から新幹線で帰った。     









御器所西城址~沓掛城址~桶狭間古戦場跡

2014-01-11 17:45:40 | 城 -東海
11月9日   

    南山大学の講座終了後、放送大学のある中京大学へ。

    お昼は中京大学学食で、ごくごくふつう味カレーを。

    
    


    御器所西城址     名古屋市昭和区御器所


     
      御器所西城  1440年頃、佐久間家勝によって築かれたといわれる。

      佐久間氏は名古屋台地の南東部に勢力を持つ小豪族で、この城のほかにも
      御器所南城・川名城などを築いていた。


     

      御三家筆頭である尾張徳川家初代の義直は、関ヶ原合戦のあった慶長5年(1600)家康の第九子として
      側室お亀の方との間に生まれました。慶長12年には8歳にして尾張国主に封じられ、ここに尾張藩は始まりました。
      

      
        御器所の名は、このあたりが熱田神宮の領地であって、その祭りに使う土器をつくっていたことから
        起こったのだろうと言われています。村雲学区辺りには、多くの寺や神社あります。
        これらは武士が栄えた時代に建てられたものばかりで、住宅地となった今日までの時の変遷を感じさせます。
     


        十四代慶勝(1824~83)は、藩内闘争の末に実現した分家出身の藩主で、
        その期待に応えた政治を行いますが、井伊直弼と対立して失脚します。
        弟の茂徳(1831~84)が十五代となるものの、卓越した政治力を買われて慶勝は復権し、
        茂徳が退いた後、実子の十六代義宜(1858~75)を後見して、激動の幕末、明治維新を乗り切ります。


           


         




            沓掛城址~    愛知県豊明市沓掛町          
          
          今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発
           した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
     


     鎌倉街道が二村山を越える丘陵の端に築城されたもの

     
         小学生の男子数人が走り回るでもなくゲームをしていた。


           



         
        1560年5月19日 織田信長、尾張桶狭間で今川義元を討つ。

        1567年      信長、稲葉山城に攻め破り稲葉山城へ入る。

        1570年      姉川の戦い。織田・徳川-浅井・朝倉。

        1573年      武田信玄死去。

              信長、越前一乗谷城に朝倉義景を攻め、義景は越前大野賢松寺で自刃。
              8日後、小谷城、浅井長政を攻め、長政自刃。

        1578年      上杉謙信死去。

        1582年      本能寺の変。
        
        1583年      賤ヶ岳の戦い。秀吉は柴田勝家を破る。

        1590年      秀吉、小田原城を攻め、北条氏滅亡。

        1598年      秀吉、死去。

        1600年9月15日 徳川家康、関が原の戦いで石田三成を破る。

      

             堀跡~
                  
       

          本丸~


          
           


     
   
   同じ豊明市にある桶狭間古戦場跡            11月30日

     1560年(永禄3年)、約2万5千人と圧倒的な大軍を引き連れた駿河・遠江(静岡)を中心として
     巨大な勢力を誇っていた今川義元に対し、その約10分の1程ともいわれる寡兵(かへい)で立ち向かった
     尾張を統一したばかりの小大名織田信長が、今川義元を討ち取り見ごと勝利した。
      
        小さな公園になっている。


      
 
      デジカメを持ったお兄さん方が訪れている。

     
 
                 


   高徳院の開基は智泉大徳(弘法大師の高弟)です。弘仁元年(810年)開創以来高野山上にあり、
   明治27年(1884年)桶狭間古戦場に移転しました。
                  
       

          桶狭間の戦いの時、今川義元は42歳であった。
           海道一の弓の名手ともいわれた。

         
         


       
        

          鷺之森碑(新栄町六丁目220 はざま公園内)
          
           子どもたちの遊び場。

          

           信長が桶狭間に進軍途中、熱田神宮で戦勝祈願をしたところ、
           白鷺二羽が社殿より飛び立ち、信長軍の進路を導き、石塚の森の大木で羽を休めた。
           明治9年、山口正義がこの伝承に基づき記念碑を建立した。
            


          公園内のどこのあるのかわからないくらい、、、でした。