8月31日
金毘羅神社 岐阜県恵那市山岡町原字大西682番
主祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
すごい石段がある。
仁王像?
手水舎
立派なしめ縄
しめ縄~
神を祭る神聖な場所を他の場所と 区別するために張る縄。
また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの。
左捻(よ)りのわらに適当な間隔を置いて紙四手(かみしで)などを下げる。
恵那市岩村町~
大円寺 棚田
棚田とは、山や丘などの斜面に階段状につくられた小さな田んぼを言う。
地域によっては「千枚田(せんまいだ)」「谷津田(やつだ)」とも呼ばれている。
一般的には、傾斜度が20分の1(水平距離を20メートル進んで1メートル高くなる傾斜)
以上の田んぼを表す。
緑がとてもきれいだ~。この日は、ダムでも見かけたが、雑草を刈る日だったのか蒸し暑い中、
地元の人たちが草刈りをしていた。
こうやって人が手を入れてるから美しいんだ。
稲穂も見事に実っている。
スカイツリーには行ったことないけど。
標高634mからの景色
垂松瀑(すいしょうばく)(かつて 不動様を祀ることで不動滝とも云う)
滝の音が涼やか。
岩村ダム
恵那市岩村町富田
この一 帯は窪地・湿地で、ハナノキの自生に適している。
杉・桧と竹林の中で競って育ったためか、その径90cmの大木は、
地上6mまでまったく枝がなく、樹高約 30mに及び、他に抜きんでている。
大圓寺(だいえんじ、大円寺)は、美濃国遠山荘の地頭であった遠山氏の菩提寺で、
南北朝時代の建武2年(1335年)から戦国時代の末期の
元亀3年(1572年)まで美濃国恵那郡(現在の岐阜県恵那市)に存在した臨済宗妙心寺派の大寺院。
武田信玄の家臣の秋山信友が岩村城の遠山氏を攻撃した際に
大圓寺を焼討ちしたため消失した。
寺跡は恵那市指定史跡となっている
大円寺跡
東濃三大名刹の一つと言われ、約15haもの広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た
大圓寺の建物群は、武田勢に焼かれて、貴重な文化財や記録もろとも全て消失し、歴史の幕を下ろした。
同時期に大圓寺のみならず周辺地域の寺院も武田勢により焼き払われて消失している。
長益神社(ちょうえきじんじゃ) 岐阜県恵那市岩村町富田
主祭神 長益大神(ちょうえきおおかみ)
ちょっとした鬱蒼。なんだか蛇が出そうなので上まで行かなかった。
マンホール蓋のデザインは町章と稲穂とわらじ、傘、水田ということです。
岩村城址。
岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の
松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。
城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、
高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、
霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれている。
(財)日本城郭協会が認定する「日本百名城」に選定された山城。
(岐阜県内では岐阜城と岩村城跡の2ヶ所のみが選定)。
本丸周辺の石垣は“東洋のマチュピチュ”と呼んでも相応しいほど、
遺跡をもイメージさせる壮大なつくりである。
山城と山麓の居館からなる中世の構成。 天守はなく、追手の三十櫓で代用。
マチュピチュは行ったことないけど。
現在見られる石垣造りの近世城郭は、徳川譜代の
松平家乗の整備によるもの、ということだ。
岩村城は小高い山の頂にありながら、他の山城に比べて圧倒的に多い17箇所もの井戸があった。
帰り道に寄った。
金毘羅神社 岐阜県恵那市山岡町原字大西682番
主祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
すごい石段がある。
仁王像?
手水舎
立派なしめ縄
しめ縄~
神を祭る神聖な場所を他の場所と 区別するために張る縄。
また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの。
左捻(よ)りのわらに適当な間隔を置いて紙四手(かみしで)などを下げる。
恵那市岩村町~
大円寺 棚田
棚田とは、山や丘などの斜面に階段状につくられた小さな田んぼを言う。
地域によっては「千枚田(せんまいだ)」「谷津田(やつだ)」とも呼ばれている。
一般的には、傾斜度が20分の1(水平距離を20メートル進んで1メートル高くなる傾斜)
以上の田んぼを表す。
緑がとてもきれいだ~。この日は、ダムでも見かけたが、雑草を刈る日だったのか蒸し暑い中、
地元の人たちが草刈りをしていた。
こうやって人が手を入れてるから美しいんだ。
稲穂も見事に実っている。
スカイツリーには行ったことないけど。
標高634mからの景色
垂松瀑(すいしょうばく)(かつて 不動様を祀ることで不動滝とも云う)
滝の音が涼やか。
岩村ダム
恵那市岩村町富田
この一 帯は窪地・湿地で、ハナノキの自生に適している。
杉・桧と竹林の中で競って育ったためか、その径90cmの大木は、
地上6mまでまったく枝がなく、樹高約 30mに及び、他に抜きんでている。
大圓寺(だいえんじ、大円寺)は、美濃国遠山荘の地頭であった遠山氏の菩提寺で、
南北朝時代の建武2年(1335年)から戦国時代の末期の
元亀3年(1572年)まで美濃国恵那郡(現在の岐阜県恵那市)に存在した臨済宗妙心寺派の大寺院。
武田信玄の家臣の秋山信友が岩村城の遠山氏を攻撃した際に
大圓寺を焼討ちしたため消失した。
寺跡は恵那市指定史跡となっている
大円寺跡
東濃三大名刹の一つと言われ、約15haもの広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た
大圓寺の建物群は、武田勢に焼かれて、貴重な文化財や記録もろとも全て消失し、歴史の幕を下ろした。
同時期に大圓寺のみならず周辺地域の寺院も武田勢により焼き払われて消失している。
長益神社(ちょうえきじんじゃ) 岐阜県恵那市岩村町富田
主祭神 長益大神(ちょうえきおおかみ)
ちょっとした鬱蒼。なんだか蛇が出そうなので上まで行かなかった。
マンホール蓋のデザインは町章と稲穂とわらじ、傘、水田ということです。
岩村城址。
岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の
松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。
城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、
高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、
霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれている。
(財)日本城郭協会が認定する「日本百名城」に選定された山城。
(岐阜県内では岐阜城と岩村城跡の2ヶ所のみが選定)。
本丸周辺の石垣は“東洋のマチュピチュ”と呼んでも相応しいほど、
遺跡をもイメージさせる壮大なつくりである。
山城と山麓の居館からなる中世の構成。 天守はなく、追手の三十櫓で代用。
マチュピチュは行ったことないけど。
現在見られる石垣造りの近世城郭は、徳川譜代の
松平家乗の整備によるもの、ということだ。
岩村城は小高い山の頂にありながら、他の山城に比べて圧倒的に多い17箇所もの井戸があった。
帰り道に寄った。
ひっそりとしたキャンプ場。夏休みも終わりか。