7月5日 晴れ~曇り~雨~
昨晩の雨で少し涼しい朝
加納城 岐阜市加納丸の内
加納城は関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)、大坂方への備えのため
本多忠勝を普請奉行として、中山道沿いで東海道の通路でもあるこの地に、中世加納城の
跡地を利用し、築上されたといわれている。
本丸は東に突出する凸字型で、出枡形と呼ばれる防御施設を設けたもの。
北西角に天守台が備えられていたとされる。
櫓は、本丸に4棟、二の丸に4棟、三の丸・厩曲輪に各1棟の計10棟が
土塁の上に建てられていた。
南北約550m、東西400mの範囲を川と堀に囲まれた平城。
今の加納城は、すべての堀が埋められており、わずかに本丸とごく一部の土塁・石垣が残っている。
初代城主は、徳川家康の長女亀姫の婿、奥平信昌。
加納城の北には清水川、東と南に荒田川と三方を川に囲まれていた。
西には、長刀堀が掘られ、水に浮かぶ城のようだった。
中山道 加納宿
参勤交代!!!
本陣跡
このお店で お昼を食べた
旧加納町役場
フラフラと歩きまわる、、、、
昨晩の雨で少し涼しい朝
加納城 岐阜市加納丸の内
加納城は関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)、大坂方への備えのため
本多忠勝を普請奉行として、中山道沿いで東海道の通路でもあるこの地に、中世加納城の
跡地を利用し、築上されたといわれている。
本丸は東に突出する凸字型で、出枡形と呼ばれる防御施設を設けたもの。
北西角に天守台が備えられていたとされる。
櫓は、本丸に4棟、二の丸に4棟、三の丸・厩曲輪に各1棟の計10棟が
土塁の上に建てられていた。
南北約550m、東西400mの範囲を川と堀に囲まれた平城。
今の加納城は、すべての堀が埋められており、わずかに本丸とごく一部の土塁・石垣が残っている。
初代城主は、徳川家康の長女亀姫の婿、奥平信昌。
加納城の北には清水川、東と南に荒田川と三方を川に囲まれていた。
西には、長刀堀が掘られ、水に浮かぶ城のようだった。
中山道 加納宿
参勤交代!!!
本陣跡
このお店で お昼を食べた
旧加納町役場
フラフラと歩きまわる、、、、