写真は「おきなわの塔」に向かって「追悼のことば」を述べる遺族代表・富本裕英氏。
以下に富本氏の「追悼のことば」を紹介したい。録音状態が悪くて聞き取れなかったところは(一部不明)としている。
追悼の言葉。本日は平成21年、第40回南洋群島戦没者追悼式に沖縄県遺族連合会、並びに沖縄県の主催により、ここ沖縄の塔の慰霊碑に、総勢264名という近年にない多数の遺族の方々がご出席のもと、厳かに執り行われる運びとなりました。今年は1968年6月に第一回慰霊墓参団が来島してから40年、第40回目の記念すべき節目の年にあたり、私は遺族を代表して御霊に対し衷心より哀悼の誠を捧げます。
思い起こせば、昭和19年6月11日、米軍機グラマンが突如としてこの小さな島を襲い、日ならずして海からはすさまじい艦砲射撃に見舞われました。米軍の上陸開始にともない、民間人を巻き込んだ熾烈な戦闘がくり広げられて、平和な島はにわかに地獄の島と化したのです。米軍の圧倒的な物量と兵力の前に、日本軍は壊滅的状態に陥って、島の北部に追いやられ、民間人も追われるようにここマッピやバナデルをめざして、苦しい避難生活が始まったのであります。行く先々で砲弾に倒れたおびただしい数の死者の姿を目にしまして、ご遺族の皆様も様々な形で肉親を亡くしたかと思います。
実は私の兄も艦砲の犠牲者になったのであります。ちょうど私たちがカナデラ付近にさしかかった頃、兄が父の制止を聞かずに家族の食料調達に出かけて行ったきり、戻りませんでした。のちに(一部不明)の岩場で艦砲射撃を受けて亡くなったと、知人が知らせてくれました。兄はまだ17歳の少年でした。わが子の死に目にもあえず、亡骸を葬ることすらかなわなかった父母の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものでした。その父母もとうに亡くなってしまいました。
私たちは飢えと乾きに苦しみながらも、やっとの思いでこの「おきなわの塔」の背後の岩場にたどり着きました。そこには多くの避難民が木陰や岩陰に身を潜めて、友軍の救援を待ちわびていました。しかし、やがて米軍が尾根に迫ってくると、もうダメだという絶望感から、手榴弾で自決をする者、切り立った断崖絶壁から身を投げる者、父親が愛するわが子や妻を殺めて、自らの命を絶つという、この世のものとは思えぬ痛ましい出来事が起こったのです。
岬の方では、多くの民間人が断崖から海に身を投げました。当時、付近一帯の海には、身を投げた人々の遺体が累々と波間に漂い、顔をそむけたくなるような悲惨な光景だったと言われています。どこにこんな悲劇があるでしょうか。思うだに切なく胸が痛くなって致し方ありません。
去る大戦では200万余の尊い命が失われました。ここサイパン島でも1万数千人の民間人が犠牲となられました。前途洋々たる若者たちが、志半ばにして無惨にも散っていったのです。また、豊かな生活を夢見て、はるばる沖縄から渡ってきた県民たちが、流汗辛苦、苦労を重ねて築いた財産も、すべて灰燼に帰してしまいました。これが敵を知らず、己の力をも知らない、思い上がった一部指導者たちによって引き起こされた、凄惨な無謀な戦争の結末でありました。
洋の東西を問わず、戦争で常に犠牲になるのは、戦争に関わりのない無辜の民であります。サイパンやテニアン、そして沖縄戦において然りであります。私が最も残念に思うことは、当時戦争を指揮した軍部が、敗色濃厚であるにも関わらず、民間人や非戦闘員に対して、何らの手も打たなかったことであります。安全な所へ避難せよとも言わず、米軍の庇護を求めよとも言わぬ。挙げ句の果ては民間人を壕から追い出して、自らの安全を図ろうした卑劣で無責任極まりない態度をとり続けたことであります。米軍の捕虜となるのはお国の恥と教え込まれ、あまつさえ男は戦車でひき殺し、子女は弄んだあげく銃殺されるなどと、まことしやかに吹聴されました。これらが多くの犠牲者を出すにいたった大きな原因ではなかったでしょうか。
戦争には正義などあり得ません。そこにあるのは無惨な殺りくと残虐な死、そして国家の滅亡であります。今でも地球上のあちこちでこのような悲劇がくり返されています。さいわい我が国は去る大戦の反省から、戦後六十四年、一度も戦争に関わったことはありません。平和に徹し、平和国家を国是として国民と共に歩んでまいりました。
また、国民の不断の努力によって、世界に冠たる経済大国として繁栄を誇ってまいりました。この繁栄と平和は御霊の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは片時も忘れてはなりますまい。
この島は当時、地形を変えるほどの凄まじい激戦地でありました。しかし、半世紀以上も経ってしまうと、当時を偲ぶよすがとなるものはほとんど残っておりません。かつて南の島の楽園と謳われたように、今ではのどかな観光の島として、東南アジアや日本からの観光客で賑わいをみせ、若者たちはハバセーリングやダイビング等のマリンスポーツに興じ、平和を満喫しております。これぞ真の平和の姿でありましょう。
私たちは過ぐる大戦から、戦争の悲惨さや平和の尊さを学びました。戦争のもたらす苦しみや悲しみを二度と再び子や孫たちに味合わせてはなりません。いかなる戦争へも反対を唱えることこそが、御霊に対する務めであると固く私は信じています。この聖なる地に眠る御霊らよ、平和の守り神として郷土沖縄の、そして祖国日本の行く末を見守ってください。今後とも私たちの身の上にご加護たまわらんことを。どうか永久(とわ)に安らかにお眠りください。
終わりになりましたが、このあと人間国宝、照喜名朝一先生の琉球古典音楽の歌、サンシン。琉球古典舞踊の重鎮、玉城節子先生ほかによる琉球古典舞踊の奉納を執り行います。御霊らにとって、優れた精進、古典芸能に触れ、しばし故郷沖縄を思い、至福の時となりましょう。われわれもまさに諸先生方に対し、心から厚く御礼申し上げます。
また、北マリアナ連邦政府が、毎年沖縄県慰霊一団をあたたかく迎えていただき、この「おきなわの塔」の維持管理と霊園の美化、清掃にご尽力くださっていることに対しまして、心から敬意を表し、感謝を申し上げます。
サイパンとテニアンのさらなる発展を願いつつ、私たち遺族代表としての追悼の言葉といたします。
平成21年5月27日。
富本裕英。
以下に富本氏の「追悼のことば」を紹介したい。録音状態が悪くて聞き取れなかったところは(一部不明)としている。
追悼の言葉。本日は平成21年、第40回南洋群島戦没者追悼式に沖縄県遺族連合会、並びに沖縄県の主催により、ここ沖縄の塔の慰霊碑に、総勢264名という近年にない多数の遺族の方々がご出席のもと、厳かに執り行われる運びとなりました。今年は1968年6月に第一回慰霊墓参団が来島してから40年、第40回目の記念すべき節目の年にあたり、私は遺族を代表して御霊に対し衷心より哀悼の誠を捧げます。
思い起こせば、昭和19年6月11日、米軍機グラマンが突如としてこの小さな島を襲い、日ならずして海からはすさまじい艦砲射撃に見舞われました。米軍の上陸開始にともない、民間人を巻き込んだ熾烈な戦闘がくり広げられて、平和な島はにわかに地獄の島と化したのです。米軍の圧倒的な物量と兵力の前に、日本軍は壊滅的状態に陥って、島の北部に追いやられ、民間人も追われるようにここマッピやバナデルをめざして、苦しい避難生活が始まったのであります。行く先々で砲弾に倒れたおびただしい数の死者の姿を目にしまして、ご遺族の皆様も様々な形で肉親を亡くしたかと思います。
実は私の兄も艦砲の犠牲者になったのであります。ちょうど私たちがカナデラ付近にさしかかった頃、兄が父の制止を聞かずに家族の食料調達に出かけて行ったきり、戻りませんでした。のちに(一部不明)の岩場で艦砲射撃を受けて亡くなったと、知人が知らせてくれました。兄はまだ17歳の少年でした。わが子の死に目にもあえず、亡骸を葬ることすらかなわなかった父母の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものでした。その父母もとうに亡くなってしまいました。
私たちは飢えと乾きに苦しみながらも、やっとの思いでこの「おきなわの塔」の背後の岩場にたどり着きました。そこには多くの避難民が木陰や岩陰に身を潜めて、友軍の救援を待ちわびていました。しかし、やがて米軍が尾根に迫ってくると、もうダメだという絶望感から、手榴弾で自決をする者、切り立った断崖絶壁から身を投げる者、父親が愛するわが子や妻を殺めて、自らの命を絶つという、この世のものとは思えぬ痛ましい出来事が起こったのです。
岬の方では、多くの民間人が断崖から海に身を投げました。当時、付近一帯の海には、身を投げた人々の遺体が累々と波間に漂い、顔をそむけたくなるような悲惨な光景だったと言われています。どこにこんな悲劇があるでしょうか。思うだに切なく胸が痛くなって致し方ありません。
去る大戦では200万余の尊い命が失われました。ここサイパン島でも1万数千人の民間人が犠牲となられました。前途洋々たる若者たちが、志半ばにして無惨にも散っていったのです。また、豊かな生活を夢見て、はるばる沖縄から渡ってきた県民たちが、流汗辛苦、苦労を重ねて築いた財産も、すべて灰燼に帰してしまいました。これが敵を知らず、己の力をも知らない、思い上がった一部指導者たちによって引き起こされた、凄惨な無謀な戦争の結末でありました。
洋の東西を問わず、戦争で常に犠牲になるのは、戦争に関わりのない無辜の民であります。サイパンやテニアン、そして沖縄戦において然りであります。私が最も残念に思うことは、当時戦争を指揮した軍部が、敗色濃厚であるにも関わらず、民間人や非戦闘員に対して、何らの手も打たなかったことであります。安全な所へ避難せよとも言わず、米軍の庇護を求めよとも言わぬ。挙げ句の果ては民間人を壕から追い出して、自らの安全を図ろうした卑劣で無責任極まりない態度をとり続けたことであります。米軍の捕虜となるのはお国の恥と教え込まれ、あまつさえ男は戦車でひき殺し、子女は弄んだあげく銃殺されるなどと、まことしやかに吹聴されました。これらが多くの犠牲者を出すにいたった大きな原因ではなかったでしょうか。
戦争には正義などあり得ません。そこにあるのは無惨な殺りくと残虐な死、そして国家の滅亡であります。今でも地球上のあちこちでこのような悲劇がくり返されています。さいわい我が国は去る大戦の反省から、戦後六十四年、一度も戦争に関わったことはありません。平和に徹し、平和国家を国是として国民と共に歩んでまいりました。
また、国民の不断の努力によって、世界に冠たる経済大国として繁栄を誇ってまいりました。この繁栄と平和は御霊の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは片時も忘れてはなりますまい。
この島は当時、地形を変えるほどの凄まじい激戦地でありました。しかし、半世紀以上も経ってしまうと、当時を偲ぶよすがとなるものはほとんど残っておりません。かつて南の島の楽園と謳われたように、今ではのどかな観光の島として、東南アジアや日本からの観光客で賑わいをみせ、若者たちはハバセーリングやダイビング等のマリンスポーツに興じ、平和を満喫しております。これぞ真の平和の姿でありましょう。
私たちは過ぐる大戦から、戦争の悲惨さや平和の尊さを学びました。戦争のもたらす苦しみや悲しみを二度と再び子や孫たちに味合わせてはなりません。いかなる戦争へも反対を唱えることこそが、御霊に対する務めであると固く私は信じています。この聖なる地に眠る御霊らよ、平和の守り神として郷土沖縄の、そして祖国日本の行く末を見守ってください。今後とも私たちの身の上にご加護たまわらんことを。どうか永久(とわ)に安らかにお眠りください。
終わりになりましたが、このあと人間国宝、照喜名朝一先生の琉球古典音楽の歌、サンシン。琉球古典舞踊の重鎮、玉城節子先生ほかによる琉球古典舞踊の奉納を執り行います。御霊らにとって、優れた精進、古典芸能に触れ、しばし故郷沖縄を思い、至福の時となりましょう。われわれもまさに諸先生方に対し、心から厚く御礼申し上げます。
また、北マリアナ連邦政府が、毎年沖縄県慰霊一団をあたたかく迎えていただき、この「おきなわの塔」の維持管理と霊園の美化、清掃にご尽力くださっていることに対しまして、心から敬意を表し、感謝を申し上げます。
サイパンとテニアンのさらなる発展を願いつつ、私たち遺族代表としての追悼の言葉といたします。
平成21年5月27日。
富本裕英。
一連の南洋群島訪問のエッセイ・写真に心
打たれています。戦争の悲惨さは南洋諸島
サイパンやテニアンも沖縄島と変わらない
状況に追い込まれた事、崖から飛び降りる
住民の姿など写真や映像で観たことはあり
ますが、富本さんのこの追悼のことばは今
まさに沖縄内外で問題になっている集団自
決の実相と重なっています。
作家の目がまた歴史の痕跡を、記憶を伝え
ること、ことばの力が信じられます。
ご健闘をいつも念じています。