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写真は南洋群島帰還者会副会長・平良善一氏が、宜野座会長の「追悼のことば」を代読しているところ。
配布された冊子の式次第には「代読」が抜けているが、宜野座会長が体調不良のため、副会長の平良善一氏が代読していた。宜野座会長は「おきなわの塔」の向かって左手、司会のマイクの近くで車椅子に座り、式典の様子を見つめていた。
以下に当日読み上げられた宜野座会長の「追悼のことば」を紹介したい。発言をテープ起こししたものだが、録音状態が悪くて聞き取れなかったところは(一部不明)としている。
司会:続きましてここで南洋群島帰還者会会長挨拶でございます。宜野座会長は先に体調を崩されまして、会場に出席でございますけれども、挨拶の方は副会長の平良善一が行います。
平良:ただいま紹介ありました通り、うちの帰還者会の宜野座会長が、いま車椅子ではありますが、そこに気力を振り絞って(一部不明)されているかと思います。それでは私副会長が、会長の追悼文を代読いたします。
追悼の言葉。
本日ここに北マリアナ政府観光局長ペリー・ジョン・P・テノリオ様。サイパン市長ファン・B・トゥデラ様はじめ現地代表の皆様。日本政府代表樋口勉領事及び日本人会の皆様。ふるさと沖縄より130万県民を代表し、県知事の名代として沖縄県福祉保健部の上与那原美和子福祉企画統括官、沖縄県遺族連合会を代表して新門竹一副会長、並びに南洋群島帰還者会遺族関係のご参列のもと、盛大にかつ厳かに第40回沖縄県出身戦没者並びに開拓者、物故者追悼式が行われるにあたり、謹んで次の言葉を述べます。
南洋群島には大正の中期に県出身者が、先人たちが渡航して開拓の道筋を開け、サトウキビ農業、製糖業が始まり、多くの県民がこの南洋群島に渡り、厳しい諸条件と闘いながら開発に励み、2万5000人といわれた県出身者が、農漁業、商業などあらゆる分野で活躍。南洋群島の発展に貢献し、日々仕事に厳しくはあっても、恵まれた平和な生活を送ってまいりました。
しかし、昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争の戦況は、次第に守勢となり、南洋群島全域が戦場となりました。昭和19年6月15日、ついにこのサイパン島に米軍が上陸し、私たち民間人を巻き込み、地上戦が行われ、さらに同年7月にはテニアン島、9月にはパラオ地域に、ペリリュー、アンガウル島に戦火が広がり、サイパン、テニアンにおいては軍と共に行動、玉砕し、南洋群島全域で実に1万2004柱の県出身者が国難に殉じ、散華されたことは、九死に一生を得て生還した私たちにとって、片時も忘れることのできない悲しみであり、痛恨の極みであります。
この慰霊碑、沖縄の塔は、最も戦闘が激しく、一般住民を巻き込んだ、玉砕したこのサイパン島に、1968年、当時の琉球政府主席・松岡政保氏のご尽力により建立し、爾来41年、40回にわたり沖縄県や沖縄県議会、沖縄県遺族連合会とともに、現地官民の皆さまのご協力を得て、御霊の供養を行ってまいりました。
私たち生存者も戦後、ふるさと沖縄へ帰りましたが、同じように沖縄でも地上戦が行われて、焦土と化していました。しかし、私たちは荒廃した沖縄において幾多の苦難を乗り越え、復興に邁進し、今では家族も増えて、平和に暮らしております。これもひとえに戦争の犠牲になられた戦没者の御霊が見守ってくださったおかげだと感謝し、改めて平和の尊さを噛みしめております。
今、世界各地においてテロや紛争が絶えませんが、私たちは戦争体験者として子や孫たちに対し、平和の尊さを語り継いでいくことを日々続けております。日頃この霊地をきれいに管理されている北マリアナ政府や、市民の皆様に深く感謝申し上げる次第であります。
ところで、私たち帰還者の方々も高齢になって、年々減少を続けており、このような形での大規模な現地慰霊祭を続けることが、困難になってきております。しかしながら、戦没者の御霊を供養することは私たちの務めであり、これからも何らかの方法で南洋への旅を続け、皆さまの御霊を(一部不明)することをお誓いするとともに、現地の皆様との親善交流の絆をいっそう深めていきたいと思っております。
御霊らよ、どうかこれからも南洋の空より私たちを見守り、ご多幸をたまわりますように。そして、サイパン並びにミクロネシアの友誼の市民の暮らしが、ますます平和に発展されんことを祈念いたします。
終わりに、御霊のとこしえに安らかにあることを祈り、私の追悼の言葉といたします。
2009年5月27日 南洋群島帰還者会会長 宜野座朝憲。
代読、平良。
配布された冊子の式次第には「代読」が抜けているが、宜野座会長が体調不良のため、副会長の平良善一氏が代読していた。宜野座会長は「おきなわの塔」の向かって左手、司会のマイクの近くで車椅子に座り、式典の様子を見つめていた。
以下に当日読み上げられた宜野座会長の「追悼のことば」を紹介したい。発言をテープ起こししたものだが、録音状態が悪くて聞き取れなかったところは(一部不明)としている。
司会:続きましてここで南洋群島帰還者会会長挨拶でございます。宜野座会長は先に体調を崩されまして、会場に出席でございますけれども、挨拶の方は副会長の平良善一が行います。
平良:ただいま紹介ありました通り、うちの帰還者会の宜野座会長が、いま車椅子ではありますが、そこに気力を振り絞って(一部不明)されているかと思います。それでは私副会長が、会長の追悼文を代読いたします。
追悼の言葉。
本日ここに北マリアナ政府観光局長ペリー・ジョン・P・テノリオ様。サイパン市長ファン・B・トゥデラ様はじめ現地代表の皆様。日本政府代表樋口勉領事及び日本人会の皆様。ふるさと沖縄より130万県民を代表し、県知事の名代として沖縄県福祉保健部の上与那原美和子福祉企画統括官、沖縄県遺族連合会を代表して新門竹一副会長、並びに南洋群島帰還者会遺族関係のご参列のもと、盛大にかつ厳かに第40回沖縄県出身戦没者並びに開拓者、物故者追悼式が行われるにあたり、謹んで次の言葉を述べます。
南洋群島には大正の中期に県出身者が、先人たちが渡航して開拓の道筋を開け、サトウキビ農業、製糖業が始まり、多くの県民がこの南洋群島に渡り、厳しい諸条件と闘いながら開発に励み、2万5000人といわれた県出身者が、農漁業、商業などあらゆる分野で活躍。南洋群島の発展に貢献し、日々仕事に厳しくはあっても、恵まれた平和な生活を送ってまいりました。
しかし、昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争の戦況は、次第に守勢となり、南洋群島全域が戦場となりました。昭和19年6月15日、ついにこのサイパン島に米軍が上陸し、私たち民間人を巻き込み、地上戦が行われ、さらに同年7月にはテニアン島、9月にはパラオ地域に、ペリリュー、アンガウル島に戦火が広がり、サイパン、テニアンにおいては軍と共に行動、玉砕し、南洋群島全域で実に1万2004柱の県出身者が国難に殉じ、散華されたことは、九死に一生を得て生還した私たちにとって、片時も忘れることのできない悲しみであり、痛恨の極みであります。
この慰霊碑、沖縄の塔は、最も戦闘が激しく、一般住民を巻き込んだ、玉砕したこのサイパン島に、1968年、当時の琉球政府主席・松岡政保氏のご尽力により建立し、爾来41年、40回にわたり沖縄県や沖縄県議会、沖縄県遺族連合会とともに、現地官民の皆さまのご協力を得て、御霊の供養を行ってまいりました。
私たち生存者も戦後、ふるさと沖縄へ帰りましたが、同じように沖縄でも地上戦が行われて、焦土と化していました。しかし、私たちは荒廃した沖縄において幾多の苦難を乗り越え、復興に邁進し、今では家族も増えて、平和に暮らしております。これもひとえに戦争の犠牲になられた戦没者の御霊が見守ってくださったおかげだと感謝し、改めて平和の尊さを噛みしめております。
今、世界各地においてテロや紛争が絶えませんが、私たちは戦争体験者として子や孫たちに対し、平和の尊さを語り継いでいくことを日々続けております。日頃この霊地をきれいに管理されている北マリアナ政府や、市民の皆様に深く感謝申し上げる次第であります。
ところで、私たち帰還者の方々も高齢になって、年々減少を続けており、このような形での大規模な現地慰霊祭を続けることが、困難になってきております。しかしながら、戦没者の御霊を供養することは私たちの務めであり、これからも何らかの方法で南洋への旅を続け、皆さまの御霊を(一部不明)することをお誓いするとともに、現地の皆様との親善交流の絆をいっそう深めていきたいと思っております。
御霊らよ、どうかこれからも南洋の空より私たちを見守り、ご多幸をたまわりますように。そして、サイパン並びにミクロネシアの友誼の市民の暮らしが、ますます平和に発展されんことを祈念いたします。
終わりに、御霊のとこしえに安らかにあることを祈り、私の追悼の言葉といたします。
2009年5月27日 南洋群島帰還者会会長 宜野座朝憲。
代読、平良。