海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

「玉砕」という詐術

2009-08-02 23:57:22 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 沖縄の塔の周辺には慰霊碑がいくつもあり、写真はその一つの「鎮魂不戦之塔」。
 米軍は8月1日、戦車を先頭にカロリナス台地に攻め込み、155ミリ砲や火炎放射器、手榴弾、自動小銃などで洞窟陣地をしらみつぶしに掃討していく。そして、その日の午後には島の南端に到達する。8月1日午後6時55分、米軍のシュミット少将はテニアン島の占領を宣言した。
 65年前の8月2日から3日の状況を三ヶ野大典『悲劇のサイパン』は次のように記している。

〈緒方守備隊長の手元にはなお三百人の日本軍がいた。連絡系統はめちゃくちゃになり、島内のあちこちに分断孤立した残存兵に連絡のとりようもなかった、二日夜、緒方守備隊長は、連隊旗を奉焼し、集められるだけの兵隊と民間義勇軍を集め、三日午前零時を期してカロリナス台地の米軍に突入した。しかし、照明弾の下で戦車砲、迫撃砲、機関銃、火炎放射器の集中砲火を浴び、緒方守備隊以下ほとんどが戦死した。角田第一航空艦隊司令長官も、手榴弾を持って出撃したまま戻らなかった。守備隊の組織的戦闘は三日未明で事実上終わった〉(196ページ)。
 
 日本軍の組織的戦闘が終わっても、島のあちこちに残った日本兵の中には数人や数十人単位でゲリラ戦を行う者がいた。しかし、攻撃のたびに米軍に反撃され、掃討されていく。
 野村進氏は『日本領サイパン島の一万日』(岩波書店)で「玉砕」についてこう書いている。

〈「玉砕」は唐の時代に編まれた『北斉書』の一節「大丈夫寧可玉砕何能全」に由来すると言われる。大丈夫たる男子は、いたずらに生きながらえるよりは玉のごとく美しく砕け散るほうがよいという意味だが、それを現代に復活させ神がかり的な殉国思想と結び付けたところに、大本営の詐術があった。国家および天皇のためにいさぎよく死ぬことは、生き延びることよりも美しい。実際には戦場で無謀な突撃をして皆殺しにされることを、「玉砕」の二文字は美化し、そのような徒死に向かって国民の意識を誘導する役割をも果たした。それは「戦陣訓」と同様に、日本兵ばかりか民間人の心をも強く束縛するようになってゆく〉(207ページ)。

 1943年5月末、アリューシャン列島のアッツ島で日本軍守備隊が全滅し、大本営報道部はそれを「玉砕」と報じる。以後、アジア・太平洋戦争の末期になると太平洋の島々や中国戦線で、部隊の全滅が「玉砕」として美化され、野村氏が指摘するように「玉砕」の二文字は〈日本兵ばかりか民間人の心をも強く束縛するようになってゆく〉。
 サイパン島やテニアン島における住民の「集団自決」の問題を考える時に「玉砕」の二文字が人々の心をどのように〈強く束縛〉していたかを考える必要がある。それは慶良間諸島における「集団自決」の問題を考える場合にもいえる。同時に非戦闘員の住民をも「玉砕」に巻き込んでいく大本営の作戦や宣伝、現地部隊の方針や住民に対する命令、指示などを具体的に検証する必要がある。
 降伏や捕虜になることを許さず、全滅することが分かっていながら「バンザイ突撃」をさせる。そうやって無惨な死を強いられた将兵たちの全滅を「玉砕」と美化する。まさに〈大本営の詐術〉が沖縄戦にいたるまで戦場での将兵と住民の犠牲を拡大させ続けるのである。

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