「風流無談」第14回 2008年8月2日付琉球新報掲載
大江・岩波沖縄戦裁判のなかで論点となっていることの一つに、一九四五年三月二五日の夜に座間味島で起こったできことがある。玉砕するので弾薬を下さい、と訪ねてきた村の幹部ら五人に、梅澤隊長がどのような返答をしたのか、ということである。
宮城晴美著『母が遺したもの』(高文研)には、梅澤隊長は〈今晩は一応お帰りください。お帰りください〉と申し出を断ったという宮城初枝氏の証言が載っている。また、一九八〇年十二月に初枝氏と梅澤氏が再会した際、この夜のことを話し出したのは初枝氏であり、その時点で梅澤氏はこのできごとを〈忘れていたよう〉であったと記されている。
これに対して梅澤氏は、自らの返答を裁判でこう主張している。
〈決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう〉(梅澤裕「意見陳述書」より)。
単に「自決」を止めただけでなく、村の幹部たちに生き延びるよう指示した、という内容で、初枝氏の証言よりもかなり詳しい。さらに二五日の夜のできごとは、けっして忘れていたのではなく、むしろ梅澤氏の方から初枝氏に話し始めた、と主張している。
この件に関連して、藤岡信勝氏が雑誌『正論』〇八年四月号に〈集団自決「解散命令」の深層〉と題した評論を発表している。梅澤氏の主張を裏づける新たな証人が現れた、ということで論を展開しているのだが、二五日の夜に梅澤氏から二メートルぐらいしか離れていないところでその発言を聞いた、という新証人のことを、当の梅澤氏はその場にいた〈記憶がない〉と述べている(前掲『正論』二三一ページ)。
さらに梅澤氏と面会して話を聞いた藤岡氏は次のように記している。
〈私は質問の角度を変えて、こう尋ねた。「本部壕に来た村の代表として梅澤さんが名前を挙げている五人のうち、顔を思い出せる人を言ってみて下さい」。すると、助役・盛秀、校長・宮城、それと初枝の三名をあげた。…中略…収入役と恵達の名前を梅澤はあげていながら、その顔を全く覚えていなかった。〉 〈梅澤が村の幹部五人の名前を手記に記載しているのは、その場での記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉(同)二二九~二三〇ページ)。 ここで出てくる〈手記〉とは、梅澤氏が『沖縄県資料編集所紀要』に寄せたもので、裁判の陳述や証言と同じ内容のものである。藤岡氏は校長の名を宮城と記しているが、正確には玉城盛助氏である。つまり、二五日の夜に訪ねてきた五人のうち、梅澤氏が顔と名前を一致して覚えていたのは二人にすぎない。
裁判の陳述書や証言に接すると、あたかも梅澤氏は最初から五人の名前を知っていたかのようだが、そうではなかったのである。藤岡氏でさえ〈その場での記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉と書いている。では誰から〈得た知識〉なのか。宮城初枝氏以外にはあり得ない。そうであるなら、二五日の夜のできごとも、初枝氏の方から話を切り出したと考えるのが自然だろう。
梅澤氏が初枝氏から打ち明けられる以前から二五日夜のことを記憶していたなら、一九六〇年代、七〇年代という早い時期に、そのことを新聞や雑誌で明らかにして、自己正当化の論を展開していたはずだ。実際には初枝氏から話を聞かされて初めて二五日夜のことを思い出し、その後も初枝氏から話を聞いて記憶を補い、やがて自らに都合のいい内容へと作りかえていったのではないか。
もし梅澤氏の主張通りなら、村の助役・兵事主任・防衛隊長を兼任していた宮里盛秀氏は、島の最高指揮官である梅澤隊長の命令に背いてまで、自らの家族を含めた村民を「玉砕」に導いたことになる。だが、そういうことがあり得るのか。梅澤氏が実際に〈決して自決するでない〉〈壕や勝手知った山林で生き延びて下さい〉と言ったのなら、防衛隊長でもあった盛秀氏は、梅澤隊長の命令に従って村民と共に山林に避難していたのではないか。
藤岡氏の評論では、三月二五日の夜に梅澤氏を訪ねたのは五人ではなく、野村村長も含めた六人だったという新証言が紹介されている。梅澤氏はこの間、自分を訪ねてきたのは五人だったと主張してきたのだが、藤岡氏が持ちだした新証言が正しいのなら、梅澤氏の記憶の曖昧さはより浮き彫りになる。
もし、実際には六人だったことを梅澤氏が記憶していたなら、梅澤氏は法廷に偽りの陳述書を提出し、偽りの証言を行ったことになる。いずれにしろ、藤岡氏によって持ち出された新証人・新証言は、梅澤氏の記憶と証言の曖昧さを浮き彫りにし、それが信用できないものであることをより明らかにしている。
大江・岩波沖縄戦裁判のなかで論点となっていることの一つに、一九四五年三月二五日の夜に座間味島で起こったできことがある。玉砕するので弾薬を下さい、と訪ねてきた村の幹部ら五人に、梅澤隊長がどのような返答をしたのか、ということである。
宮城晴美著『母が遺したもの』(高文研)には、梅澤隊長は〈今晩は一応お帰りください。お帰りください〉と申し出を断ったという宮城初枝氏の証言が載っている。また、一九八〇年十二月に初枝氏と梅澤氏が再会した際、この夜のことを話し出したのは初枝氏であり、その時点で梅澤氏はこのできごとを〈忘れていたよう〉であったと記されている。
これに対して梅澤氏は、自らの返答を裁判でこう主張している。
〈決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう〉(梅澤裕「意見陳述書」より)。
単に「自決」を止めただけでなく、村の幹部たちに生き延びるよう指示した、という内容で、初枝氏の証言よりもかなり詳しい。さらに二五日の夜のできごとは、けっして忘れていたのではなく、むしろ梅澤氏の方から初枝氏に話し始めた、と主張している。
この件に関連して、藤岡信勝氏が雑誌『正論』〇八年四月号に〈集団自決「解散命令」の深層〉と題した評論を発表している。梅澤氏の主張を裏づける新たな証人が現れた、ということで論を展開しているのだが、二五日の夜に梅澤氏から二メートルぐらいしか離れていないところでその発言を聞いた、という新証人のことを、当の梅澤氏はその場にいた〈記憶がない〉と述べている(前掲『正論』二三一ページ)。
さらに梅澤氏と面会して話を聞いた藤岡氏は次のように記している。
〈私は質問の角度を変えて、こう尋ねた。「本部壕に来た村の代表として梅澤さんが名前を挙げている五人のうち、顔を思い出せる人を言ってみて下さい」。すると、助役・盛秀、校長・宮城、それと初枝の三名をあげた。…中略…収入役と恵達の名前を梅澤はあげていながら、その顔を全く覚えていなかった。〉 〈梅澤が村の幹部五人の名前を手記に記載しているのは、その場での記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉(同)二二九~二三〇ページ)。 ここで出てくる〈手記〉とは、梅澤氏が『沖縄県資料編集所紀要』に寄せたもので、裁判の陳述や証言と同じ内容のものである。藤岡氏は校長の名を宮城と記しているが、正確には玉城盛助氏である。つまり、二五日の夜に訪ねてきた五人のうち、梅澤氏が顔と名前を一致して覚えていたのは二人にすぎない。
裁判の陳述書や証言に接すると、あたかも梅澤氏は最初から五人の名前を知っていたかのようだが、そうではなかったのである。藤岡氏でさえ〈その場での記憶ではなく、後から得た知識に基づいている可能性があると私は思った〉と書いている。では誰から〈得た知識〉なのか。宮城初枝氏以外にはあり得ない。そうであるなら、二五日の夜のできごとも、初枝氏の方から話を切り出したと考えるのが自然だろう。
梅澤氏が初枝氏から打ち明けられる以前から二五日夜のことを記憶していたなら、一九六〇年代、七〇年代という早い時期に、そのことを新聞や雑誌で明らかにして、自己正当化の論を展開していたはずだ。実際には初枝氏から話を聞かされて初めて二五日夜のことを思い出し、その後も初枝氏から話を聞いて記憶を補い、やがて自らに都合のいい内容へと作りかえていったのではないか。
もし梅澤氏の主張通りなら、村の助役・兵事主任・防衛隊長を兼任していた宮里盛秀氏は、島の最高指揮官である梅澤隊長の命令に背いてまで、自らの家族を含めた村民を「玉砕」に導いたことになる。だが、そういうことがあり得るのか。梅澤氏が実際に〈決して自決するでない〉〈壕や勝手知った山林で生き延びて下さい〉と言ったのなら、防衛隊長でもあった盛秀氏は、梅澤隊長の命令に従って村民と共に山林に避難していたのではないか。
藤岡氏の評論では、三月二五日の夜に梅澤氏を訪ねたのは五人ではなく、野村村長も含めた六人だったという新証言が紹介されている。梅澤氏はこの間、自分を訪ねてきたのは五人だったと主張してきたのだが、藤岡氏が持ちだした新証言が正しいのなら、梅澤氏の記憶の曖昧さはより浮き彫りになる。
もし、実際には六人だったことを梅澤氏が記憶していたなら、梅澤氏は法廷に偽りの陳述書を提出し、偽りの証言を行ったことになる。いずれにしろ、藤岡氏によって持ち出された新証人・新証言は、梅澤氏の記憶と証言の曖昧さを浮き彫りにし、それが信用できないものであることをより明らかにしている。