3月26日から29日まで「第40回南洋群島慰霊墓参並びに親善交流の旅」に参加し、サイパンとテニアンに行ってきた。
私自身は肉親や近い親戚に南洋での戦争の犠牲者や帰還者がいるわけではない。それでも、小学校の頃に教わった教師がサイパンでの戦争体験者だったり、大学の恩師がテニアン出身だったり、運天港でアルバイトをやっていた頃、一緒に仲仕をやっていたSさんという人がパラオ出身だったり、身近に南洋帰りの人は珍しくなかった。沖縄戦をはじめ沖縄の近・現代史に関心を持てば、南洋群島への移民やそこでの戦争体験への関心も高まる。個人的な旅ではなく、墓参団という形で参加してみたい、という思いはかねてからあった。
墓参団という形でのサイパン・テニアン・ロタ訪問は今年で最後になるということで、この機会を逃してはならないと思い申し込んだのだが、参加してよかった。慰霊祭や交流会だけでなく、島内の戦跡や南洋興発の施設跡などを見て回ることもできた。三泊四日の日程でサイパンとテニアンの二カ所で慰霊祭に参加したので、かなりの強行日程だった。もっとじっくりと戦跡地を見て、関係者の話を聞きたかったという思いや、初めての参加で勝手が分からずに反省する点もある。ただ、第一の目的は遺族の皆さんの慰霊と墓参なのだから、それが無事になされたことは何よりだった。
短い旅でも知ったこと、感じたこと、考えたことは多い。これから時間をかけてそれらを深めていきたいと思っている。
私自身は肉親や近い親戚に南洋での戦争の犠牲者や帰還者がいるわけではない。それでも、小学校の頃に教わった教師がサイパンでの戦争体験者だったり、大学の恩師がテニアン出身だったり、運天港でアルバイトをやっていた頃、一緒に仲仕をやっていたSさんという人がパラオ出身だったり、身近に南洋帰りの人は珍しくなかった。沖縄戦をはじめ沖縄の近・現代史に関心を持てば、南洋群島への移民やそこでの戦争体験への関心も高まる。個人的な旅ではなく、墓参団という形で参加してみたい、という思いはかねてからあった。
墓参団という形でのサイパン・テニアン・ロタ訪問は今年で最後になるということで、この機会を逃してはならないと思い申し込んだのだが、参加してよかった。慰霊祭や交流会だけでなく、島内の戦跡や南洋興発の施設跡などを見て回ることもできた。三泊四日の日程でサイパンとテニアンの二カ所で慰霊祭に参加したので、かなりの強行日程だった。もっとじっくりと戦跡地を見て、関係者の話を聞きたかったという思いや、初めての参加で勝手が分からずに反省する点もある。ただ、第一の目的は遺族の皆さんの慰霊と墓参なのだから、それが無事になされたことは何よりだった。
短い旅でも知ったこと、感じたこと、考えたことは多い。これから時間をかけてそれらを深めていきたいと思っている。
さてサイパンといえば慶良間の人たちはサイパン、硫黄島の玉砕のことを伝え聞いていた、とよく言われますが、昭和20年3月までにサイパンから玉砕目撃者で沖縄に帰還した人は居ないはずです。
すると、慶良間の人たちが聞かされていたのは新聞情報です。その新聞情報には2とおりあって、1つは大本営報道部の「住民も立派に玉砕したものと信ずる」という発表文。もう1つは、米軍情報をソースとした外国新聞記事です。確か北欧で入手して朝日新聞?などが翻訳19年8月に報じたもの。
先日、後添えが亡くなった藤田つぐはる画伯の大画の謎、というのもあります。スューサイドクリフの身投げを藤田はなぜ書けたのか? 私達がいま見ている米軍フィルムを藤田は見た筈がないのに、どうして? という謎です。
(藤田の絵の公開は20年5月だそうですから、それが新聞に載ったとしても慶良間の人たちは見ることはできません)
>サイパン島民の最期については、八月七日の『タイム』の記事が、ストックホルム駐在の各新聞社特派員を通して日本に伝えられ、八月二十日前後にくわしく報じられている。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1032.html#id_f9bd2491