あずまクラブ(越前の守)です。正しい心の探究をします。

”人間は夢とロマンを持つから動物とは決定的に違う”から始めます。正しい心の探究です。

「安心して暮らせる首都東京を創造」 石原知事が決意 大空襲慰霊法要

2012-03-10 17:22:47 | 日記
産経ニュースより
 約10万人が亡くなった東京大空襲から67年となる10日、犠牲者らの遺骨が安置されている東京都慰霊堂(東京都墨田区)で法要が営まれ、石原慎太郎知事は追悼の辞で、「戦争の悲惨さと天災の脅威を語り継ぎ、平和な世界を次世代への財産として引き継いでいかなければいけない」と強調した。

 都は米軍による複数回の大空襲のうち、最も大きな被害が出た3月10日を「平和の日」に定めている。この日の法要には秋篠宮ご夫妻も参列された。

 石原知事は東日本大震災にも触れ、「震災から1年がたつが、依然として膨大ながれきの処理などの困難がある。災害の脅威から東京を守り、安心して暮らせる首都東京を創造していくことを誓う」と語った。

 また、石原知事は都庁で開かれた平和の日記念式典にも出席。「焦土と化した東京が復興を遂げたように、国民の力と英知を結集して被災地の復興を成し遂げ、日本を築き直さなければならない」とした上で、「復興の先にオリンピックを東京に迎えることは、日本の再生を実感する何よりの瞬間となる」と述べた。

コメント:
戦争がいけないのは、非戦闘員が犠牲になることから理解できる。
日本は原爆と各都市の壊滅的空襲で非戦闘員が大量に犠牲になった。
ホロコースト(人種根絶)と言っても良いくらいだ。

日清日露戦の負け知らずの奢りがあった罰だから反省すべき点はあるが、
何もかも日本が悪かったとして、原爆と空襲を正当化するのは間違っている。
今だに、日本悪しと弁償させる国(中国や朝鮮)とは、戦争は終わっていない。

「白人の有色人種差別と白人による植民地が当然の考え」を打ち砕いたのだ。
植民地に投資をするのか?日本は本土以上の投資をしたのだ。
イギリスの植民地から解放させた日本の恩義や功績を忘れることは、
人間の尊厳をないがしろにする行為である。
これらの目的のために、人柱になった人達を慰霊するのだ。
ただ戦争を繰り返さない決意だけでは、浮かばれない。
無駄死だったとか、とばっちりだったのだと慰めるのは、
あまりにも情けないではないか?
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これでもジミンガー?

2012-03-10 11:07:38 | 日記

日刊ケボチ さんより転載です。

 

よく日本人はがまんをしていますね。

そのがまんにつけ込む根性は感心するけど

もっと良い方向に使えば尊敬されるのに。

お人好しの国でなければ生きてゆけないの?

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【拡散希望】四度あった南京事件

2012-03-10 00:39:30 | 日記

一言でいえば、中国の国民党が自国民を略奪・強姦・虐殺をしたのだが、それを日本軍のせいにしたのです。

 

ねずきちの ひとりごと さんより転載です。

南京の避難民が、日本兵から菓子・煙草の配給を受け、喜んで日本軍万歳を叫んでいるところ。この自然な笑顔を見てください。

南京城入城式当日の様子



中共がいう南京大虐殺は、ねつ造でしかありませんが、南京には、実際に起こった虐殺事件があります。
これは史実です。
その南京虐殺事件は、以下の4つです。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して
  虐殺、強姦、略奪を行った事件
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京
  に入り込み、
  城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、
  日本軍がやってくるからと城内で
  虐殺、強姦、略奪を行った事件。
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、
  強姦、略奪を行った事件。
1~2では、在留邦人も被害にあっています。
3は、中共政府が宣伝する南京大虐殺の「前」に実際にあった出来事です。
4は、昭和24年ですから、すでに大東亜戦争も終わり、日本とはまるで関係のない状態で起こった事件です。

以下、順にその概要をみてみます。

──────────
第一次南京事件
大正2(1913)年
──────────

この事件は、大正2(1913)年8月に起こりました。

支那では清朝政府が辛亥革命によって倒れるのですが、このあと孫文の後を受けて袁世凱が新政府の大統領に就任します。
ところが袁世凱の狙いは、支那の民主化とはほど遠く、単に自らが皇帝となろうとする卑しいものであったため、これを不服とする孫文派の革命功績者たちが、袁世凱と激しく対立します。

その対立者たちを押さえこむために、袁世凱は軍事力にものを言わせるのですが、この年の8月31日に南京城内に乱入した袁世凱派の張勲が、南京城内で約一ヶ月にわたり、虐殺、強姦、略奪の限りをつくしています。

この事件で、南京城内では、支那人の市民に数千人におよぶ死者がでたのですが、それだけでなく張勲らは、外国人居留区にまで侵入し、そこで日本人商店も襲撃して、少なくとも日本人10数名を殺害しました。

このとき襲われた商店は、ちゃんと日章旗を掲げていたにもかかわらず、張勲らは日本人を襲撃し、日本人商店で働く邦人を虐殺し、女性を強姦し殺害しています。

当然のことながら、このとき日本国内の世論は激昂しましたが、支那との紛争を回避したい日本政府は、あくまで穏便にと報復措置をとらず、襲われたのは単に張勲軍の何かの手違いにすぎなかったのではないか、などと理屈にもならない答弁をしています。

このため怒った暴徒によって、9月5日には、阿部政務局長が日本国内で斬殺されるという事件まで起こりました。

本来なら、このとき外地にいる邦人居留民保護のため、軍が即応できる体制をとっていれば良かったのです。
欧米諸国は、すべてそのようにしていました。自国民が被害にあった場合、即時断固とした報復攻撃を行っていたのです。

ところが日本政府は、穏便な事態の収拾を図るためにと、軍の動員をしていません。
当時の日本陸軍は、国歌対国家の大きな戦争を前提として組織されており、勅命がなければ一切動くことができない機構になっていたのです。
このことが後日、支那人たちを増長させ、さらに被害を拡大する原因となったことは、歴史に学ぶべき大きな反省事項だと思います。

一方、これも大事なことなのですが、この第一次南京事件の主犯である張勲は事件後、なんと功績者として江蘇都督に昇格し、次いで長江巡閲使となり、挙げ句の果てが、定武軍元帥にまで出世しています。

日本ではとても考えられないことです。

日本人の感覚では、戦(いくさ)でもないのに、無辜の市民を欲しいままに虐殺、略奪、強姦しまくるような不埒な人物は、どんな場合でも尊敬などされることはないし、そうした人物が政府要人として、あるいは軍の幹部として出世することなど、まずあり得ません。

歴史をひもといても、そうした極悪非道な人物が、日本史において成功者となったという事例は、まったくない。
こう書くと、信長が比叡山の焼き討ちをしているじゃないか、という声が上がりそうですが、当時の比叡山は僧兵を抱えた一種の仏教軍閥です。そしてこれを討つ信長には、ちゃんとした大義名分が備わっています。

他方、支那という国は、権力者ないし軍事強者が弱者を虐殺、強姦、略奪するのは、むしろあたりまえの風習です。秦の始皇帝の時代から、その歴史は繰り返され続けている。

暴れ出したら、虐殺強姦収奪は当たり前の支那社会に対し、あくまで国家として軍は正々堂々とあるべきであり、奉勅があってはじめて軍が動員されるという日本社会。
両者のこの違いは、さらに東亜を共倒れにし、漁父の利を狙おうとする欧米諸国に付け入る隙を与え、政情をますます複雑なものにしていきます。

──────────
第二次南京事件
昭和2(1927)年
──────────

第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。

昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
支那国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城しているのです。

ところが、入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然、襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしたのです。

この事件で、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、他1名の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。

29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。

~~~~~~~~~
弓削南京特派員二十九日発

24日午前5時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約2000名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、

われ等在留日本人は、「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」と安堵の胸を撫でていた矢先き、6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、餓狼の如く闖入して来た。

そしてピストル、銃剣を突きつけて、第一に現金を強奪し、眼鏡や時計、指輪をはじめ、身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。それに勢を得た群衆まで交って、手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った。

かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。

国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、金庫の中に奉安したが、これを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負い、さらに右横腹を突かれた。

病気で臥床中の森岡領事は、二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
~~~~~~~~~~

新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。

さらに日本領事館に侵入した支那人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。

当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっている。

被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けたのです。

英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。

このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。

──────────
第三次南京事件
昭和12(1937)年
──────────

次に起こったのが、第三次南京事件です。
第二次南京事件からちょうど10年後の出来事です。
そしてこの第三次南京事件のあとに起こったとねつ造されているのが、いわゆる「南京大虐殺」です。

第三次南京事件には前段があります。
それが第二次上海事件です。

第二次上海事件については、以前このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は、その記事をご参照ください。
◆第二次上海事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-780.html

概要をかいつまんで申し上げると、まずこの年の7月7日に、盧溝橋事件が起こっています。
事件の詳細については、以前の記事にあります。
◆盧溝橋事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-710.html

当時の支那は、清国政府が倒れて、いまのソマリアのような無政府状態になっていたのです。
しかも欧米列強の駐留に対し、一方には露骨な外国人排斥運動があり、諸国は治安維持と自国民の保護のために支那に駐留軍を国際協調で置いていたのです。

そうした中で、露骨な日本への挑発行為として起こったのが盧溝橋事件で、この事件のあと近衛内閣は支那の華北地区への派兵を決定しています。
ただしこの派兵は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけで、内地からの派兵は行っていません。
つまりこの派兵は、あくまで戦闘の不拡大を目的とした支那への既存の派遣軍の移動にすぎないものだったのです。

ところが日本のこうした戦闘の不拡大方針を「甘い」と見て取った蒋介石は、すかさず北京で日本兵が乗っていたトラックを爆破し、日本人4人を殺害する。

それでも戦闘不拡大を唱える日本の近衛内閣をさらに「甘い」と見て取った蒋介石は、「日本の出方次第では徹底抗戦する」とオダをあげています。
これは非常に政治的な言い回しです。
日本が戦闘行為を行わないと宣言したから、日本と戦うぞと宣言しているのです。
国際社会で「舐められる」というのは、こういうことを指します。

同様のことは昨今の韓国でも起こっています。
日本の新藤議員他の国会議員が竹島問題に怒って韓国に乗り込もうとしたら、韓国は露骨に入国拒否をしました。
韓国は日本人国会議員の竹島は日本の領土であるという主張を認めないという、これはポーズです。
けれど、そんなポーズをとった韓国は、一方では日本が本気で怒るのを恐れ、あれだけ派手に韓国国会議員等が竹島に不法に乗り込んだりするパフォーマンスをしていたものが、以後、パッタリと途絶えて、竹島に対して何のアクションも起こさなくなったのです。
ところがその韓国は、つい先日、野田総理が韓国で竹島問題についての言及を避けた弱腰な姿をみると、すかさず竹島でのコンサートの実施や、国会議員等の竹島上陸を決めている。
国際政治というのは、そういうものです。
行っていることと、やっていることは、まるで異なる。

さて、昭和12年の日本は、なんとか支那との和平の道を探ろうと外交上の努力をしようとするのだけれど、盧溝橋事件のわずか12日後には、再び盧溝橋でえ、今度は日本軍に対して一斉射撃をしてくる。

さらに7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃する。
7月26日には、国民党軍の「依頼を受けて」広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。

この事件などひどいもので、支那側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。

すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。

城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。
城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。

つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している。
そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。

この事件で、日本側は、兵士15名が死亡し、他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名が命をおとしています。

そしてさらに3日後の7月29日に起こったのが「通州事件」です。

通州事件については、詳細記事を載せていますので、是非、一度お読みください。
◆通州事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html

この事件では、北京にほど近い通州で、支那軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺しました。
こ れにより通州特務機関は全滅し、女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている 者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、あまりにも酸鼻極まりない姿で嬲り殺しに 遭っています。

ここまで日本を挑発すれば、日本はついに支那大陸に攻め込んでくるに違いない。
これを待ち受け、徹底して日本を叩こうとする蒋介石は、ドイツから豊富な最新式兵器の供給を受け、上海に部隊を集結させたのです。

本来、当時の上海は、昭和7年の多国間上海事変停戦協定によって、国際的に「非武装地帯」に指定されていたのです。
ところがドイツ軍によって指導された蒋介石軍は、日本軍を上海に上陸させ、ここで大殲滅作戦を展開しようと、上海の港から市街に至るエリアに、なんと2万カ所もの重武装したトーチカを築き、日本を待ち受けた。

そして8月19日午前10時半、上海商務館付近にいた国民党軍が、突然日本軍陣地に機関銃射撃を行って来たのです。
このとき、上海にいた日本軍は、海軍陸戦隊の4千名です。
これを包囲して機関銃を撃ち込んで来た蒋介石軍は、なんと5万の兵力です。

機関銃をめくら撃ちに撃ちまくる国民党軍に対し、それでも日本の海軍陸戦隊は応戦していません。
戦闘状態になることを防ごうとしたのです。
ですから支那軍の爆撃機が超低空飛行で、日本の陸戦隊を挑発したときも、日本側は対空砲火をしていない。

そんな日本軍の姿を見て、蒋介石軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破してしまいます。
日本軍の戦車などの援軍が来れなくなるようにし、日本海軍陸戦隊を孤立させるためです。
そして日本の海軍陸戦隊4千名を包囲し、猛烈な砲撃を開始してきた。

このままでは、日本側は全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、陸戦隊全軍に、戦闘配置を命令した。

けれど支那軍は最新鋭の重装備の5万の兵力、包囲された日本の海軍陸戦隊はわずか4千の兵力です。
戦力差はあきらかで、このままでは、4千の兵士全員が死んでしまうのは時間の問題です。

そこで8月22日、日本は、ここまできてようやく松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団を、上海北部沿岸に上陸させます。

けれど上陸した上海派遣軍が海軍陸戦隊が立てこもる上海租界地まで到達するには、支那軍が構築した2万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかも支那軍の兵員は、中央軍の精鋭14~15師であり、トーチカはドイツ参謀部が詳細に検討して構築した、網の目状に張り巡らされた火点です。

それだけではありません。支那軍は、追加兵力を次々と投入し、ついにその数、60万の大軍に膨れ上がります。

松井石根大将は、その中でおよそ2ヶ月半果敢に戦い、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながら、ついに支那軍を蹴散らします。

そしてなんと11月9日までに、支那軍60万の兵力のうち20万人以上を倒し、支那軍をほぼ壊滅させてしまう。

そして11日までに、上海から支那軍を全員追い払ってしまいます。

ところがこのときひと悶着が起こる。
支那軍は、退却の際に上海市内で徹底した掠奪、破壊、強姦をしぬいているのです。

支那軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼は支那の住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たと記録にあります。

また、支那の敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もある。
要するにこれは事実なのです。

そして国民党兵士たちが去った後、上海の「英字新聞」には、次のような記事が載りました。
~~~~~~~~
国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
~~~~~~~~

こうして上海の治安は回復されました。
そして上海を追われた蒋介石以下の支那軍の兵士たちが、次に向かったのが「南京」だったのです。

支那軍(支那軍最強の訓練され最新式装備を施された正規軍)の兵士たちは、南京に向かって落ちのびる途中、民家を襲っては、略奪、殺戮、強姦をほしいままにしています。

11月25日の湖州での出来事を書いた記事があります。
湖州は、上海から南京に向かう途中の小さな都市です。
以下に引用します。

~~~~~~~
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。
誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が3人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は3名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら3人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。
さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
~~~~~~~~

まことにもって痛ましい限りです。

上海に集結した国民党軍は、約60万の兵力でした。
そのうち20万が、我が軍に敗れて死傷し、残りの40万の兵力が南京方面に向かって逃走したのです。

逃走した国民党軍のうち10万は、途中の街に隠れ、追撃する日本軍と応戦し、5万が死傷し、5万が逃散しています。

そうして南京には、30万の国民党軍がなだれ込んだのです。
武力を持たない南京市は、この敗残兵を城内に招き入れるしかなかった。
国民党の正規軍なのです。よもや非道はするまいと考えた。

その甘さが悲劇を招きます。
南京城内に入り込んだ国民党軍は、そこにいる市民の誰もが「漢奸(日本びいきの人々を彼らはそう呼んだ)」に見えた。そして南京市民を虐殺し出したのです。

当時の南京市民たちは、そういう国民党軍を恐れ、多くが南京市から逃げ出します。
そして逃遅れた者たちは、国民党兵士に捕まり、ある者は虐殺され、ある者は城外のトーチカに縛り付けられ、またある者は強姦され、家屋には侵入して財物を片端から強奪され、挙げ句、市民の住むエリア全部に火をつけられ一切合切を燃やされた。

そういうところに、12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中支那方面軍12万が到着したのです。

到着した日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行いました。
けれどなんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまいています。
そして10日の午後一時まで、投降を待った。
けれど、城内からは、何の回答も反応もなかったのです。

南京城を囲んだのが12月4日です。そしてこの日が10日です。
もう6日も待っている。
その間、南京城の城外では、一部の国民党兵士からの発砲もあったし、便衣兵(民間服を着て、民間人を装った支那兵士)による執拗な攻撃も受けています。

けれど松井大将は、待った。
つまり松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
戦場において、これほどの相手に対する誠意はありません。

そこまでして、それでもなんの反応もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始したのです。

日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと、なんと11日には、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
けれどその日は、現場ではまだ南京城外で、激しい攻防戦が行われている最中でした。

そして13日、南京城は陥落し、日本軍が南京城内に入城しました。
入城した日本軍は、兵を城内の左右いっぱいに横一列に並べ、城内を前進します。
城内の敵の掃討のためです。

この「城内を横一列で」という部分には注意が必要です。
本来なら城内には民家が建ち並び、横一列での行進は無理なのです。
けれどそのときの南京城内は、民家がすべて焼き払われ、焼土と化した状態にありました。
だからこそ、日本軍は、横井一列による前進ができたのです。

こうして東西と南から城内に入った日本軍に対し、国民党軍の兵士たちは南京城の北側の下関と呼ばれる門から、いっせいに逃げ出そうとします。
そこは南京城が揚子江と接しているところで、川を渡って逃げ延びようとしたのです。

ところが川に浮かんでいた筈の船は、総大将の蒋介石や、南京城の防衛司令官だった唐生智らが、戦いの最中にそくさくと逃げ出した際、後ろから日本軍が船で追いかけて来たら困るからと、そこそこの大きさの船は、みんな底に穴をあけて沈めてしまっていた。
つまり、下関には小舟しか残っていなかったのです。
そこに国民党の兵士たちが逃げようとして押し寄せた。
船に乗れずに、舷側に捕まろうとする者、多人数が舷側につかまったら、船が沈んでしまうからと、そのつかまる仲間の手を切り落とす者、すさまじい地獄絵図がそこで描かれています。

一方、日本軍は、13日から15日までの3日間、城内掃討(ほとんど戦いらしい戦いはない)を実施し、城内の平穏を確保したあと、17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行います。

当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれた。
さらに18日には、両軍の死者を弔うため、合同慰霊祭を行い、敵味方の区別なく、慰霊を捧げています。

そしてその翌日には、上海派遣軍の各部隊は、部隊毎にそれぞれ他の戦闘地域への移動を開始しています。

また日本軍の入城によって治安が回復した南京城には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。
そうして帰還した支那人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っている。
南京城に、笑顔が戻ったのです。

この昭和12(1937)年の南京事件において、日本軍による南京大虐殺が行われたと主張する者たちは、12月13日の日本軍の南京入城直後から、約6週間にわたって日本軍が無辜の市民30万人を大量虐殺したと主張しています。
けれど攻城戦が行われる前の時点で南京にいた市民の数は20万人。
戦闘開始前に、市民の多くは城外に避難し、日本軍の入城後に城内に帰って来ています。
そして近隣の都市からも安全と安心を求めて避難民が集まり、南京の人口は25万人に膨れ上がった。
どこでどうやったら、そこで30万人の虐殺が行われたことになるのか、さっぱりわかりません。
要するに南京虐殺など、「なかった」のです。

──────────
第四次南京事件
昭和24(1949)年
──────────

昭和12年の日本軍の南京城入城によって治安が回復した南京市では、日本軍に勤務する若い女性が、ひとりでショッピングのために市場に出かけても、まったく安全で、豊かな経済生活が行われる普通の街に戻ります。

当時南京にいた方々のお話を聞くと、戦時中、内地(日本国内)では、食事が制限され、国民はひもじい生活を余儀なくされていたと聞いているが、自分たちは食べ物も豊かで、明るく安心な南京生活を楽しむことができて、なんだか申し訳ない気がする、などとおっしゃいます。

けれどそうした治安の保たれた南京市も、大東亜戦争の終戦によって様相が一変します。
そして起こったのが、第四次南京事件です。

昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争における戦闘行為を終結させました。
これに先だつ8月14日、蒋介石率いる国民党は、中ソ友好同盟条約を締結しています。
要するに日本と対立するために、ソ連と同盟関係を結んだわけです。

この頃の蒋介石軍は、米英から軍事物資等の豊富な援助を得ていました。
米英にとって、人種の平等、民族の自立を主張する日本は、白人種が有色人種を支配し収奪する植民地主義を維持するにあたり、ひらたくいえば「邪魔な存在」だったのです。
だから同じく有色人種である支那人の蒋介石に武器弾薬、食料、資金を与え、双方を疲弊させる戦略を採っています。

おかげで蒋介石率いる国民党は、連合国の一員であり、戦後は戦勝国として高い地位を与えられ、東京裁判においても判事を出す国となっています。
ところが、ではこの当時において、支那が蒋介石率いる国民党軍によって成立する「国家」であったかというと、実はそんなことはない。

当時の支那には、南京に汪兆銘を首班とする南京政府があり、支那奥地には毛沢東率いる支那共産党があり、三者がそれぞれ、我こそは正当な支那の国家政権であるとそれぞれに主張していたのです。

そして戦争が終わった。
米英が蒋介石に支援物資を与えていたのは、あくまで日本と戦うためです。
当然、日本が戦争を終わらせれば、蒋介石は用済みで、終戦とともに蒋介石のもとには米英からの援助物資が途絶えてしまう。

数十万の兵を養わなければならない蒋介石にとって、兵を養うカネがないというのは、まさに党の死活問題です。

一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は、終戦にともなって日本軍の武装解除によって日本軍から得た銃器や弾薬が大量に余ってしまった。
その銃器弾薬を、ソ連は毛沢東率いる支那共産党軍にまるごと引き渡します。

すでに補給を失った蒋介石軍、突然豊富な補給物資を得た毛沢東軍、両者はあちこちで戦い、毛沢東側が圧勝します。
蒋介石は追われ、ついに南京に向かって逃げ出した。

南京には、戦時中、汪兆銘率いる南京政府がありました。
この南京政府は、親日政権で、おかげで南京は戦時中、ずっと豊かで平穏な社会を維持することができた。
要するに、蒋介石にとって、豊かな南京に行けば、失った米英からの援助に代わる富を得ることができる。

こうして蒋介石は再び南京に攻め込みます。
そして南京市民から再び収奪を行った。

さらに前年の昭和19年に亡くなっていた汪兆銘の墓をあばき、遺体を焼き、さらに彼の一族50余名を逮捕し、虐殺すると、その遺体をゴミとして廃棄した。
また親日的だった支那人たちを次々と殺害し、婦女を暴行しています。
そして資産家の家に乱入し、戦時徴発と称して、金品をさかんに巻き上げた。

けれど、南京市民にとって、まだ汪兆銘憎しと目先の利益を追求した国民党軍はまだマシだったのです。
事件はその後に起こった。

国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度はその国民党軍を追った支那共産党軍がやってきたのです。
この時点でろくな武器を持たない国民党軍は、共産党軍がやってくると算を乱して逃げ出します。
その後に、共産党軍が城内に乱入する。

乱入した共産党軍にとって、南京市民の全部が敵です。
彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と殺害し、通州同様に南京市民を虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮した。

なにせ共産主義者たちにとって、普通の経済生活を行う市民はブルジョアです。
そしてブルジョアから富を奪い、それを共産主義者たちに分配することが、彼らにとっての正義なのです。
そして奪うものは財物だけではない。
人としての尊厳や貞操、生きる権利の全てが否定の対象だった。

この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。
南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。

いまだに日本には、共産主義は平和主義であり、中共政府は平和を希求する政府であると本気で思い込んでいる日本人がいます。
けれど、戦後67年、この間に中共が起こした戦争行為は、主なものだけでも19回に及びます。
そこで彼らが虐殺した人の数は、いったい何千万人に及ぶのでしょうか。

日本が大東亜戦争で失った将兵の数、あるいは広島、長崎に落とされた原爆で、あるいは空襲や艦砲射撃で失った人命の数十倍ではきかない人の殺害を、彼らはいまも続けているのです。

南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して「どの南京虐殺事件のことなの?」と質問していただきたいのです。

そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じ支那人による南京に住む支那人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。

尚、本件について、アネモネさんがご自身のブログ「東アジア黙示録」でも、詳しい紹介が出ていますので、是非ご参照ください。
http://dogma.at.webry.info/201203/article_1.html


(参考)◆中共が戦後行った戦争行為◆
1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘

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野田直勝内閣の倒幕は財務省と官僚の倒幕なのです

2012-03-10 00:21:48 | 日記

理想国家日本の条件 さんより転載です。

野田直勝内閣の倒幕は財務省と官僚の倒幕なのです。
                                           https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/9d/b46e33bc9564f16cf0f5530eebd20dc0.jpg

Angel i Times さん 転載

直勝内閣の倒幕シナリオ 

日の本の大国を救国・護国して行くには、
野田直勝内閣の政権交代をさせなくてはいけません。
直勝内閣の倒幕は財務省倒幕を意味するのです。

2年前、鳩山由紀夫は政権交代を前に、「官僚主導との決別」
「財務省支配の打破」「政治を国民の手に取り戻す」
などと連呼していた時を思い出して欲しい。

一体、あの公約は何だったのか?。

民主党はこの2年、党内抗争に明け暮れて、
首相はすでに3人目。国民がその体たらくに呆れて
いるうちに、いつの間にか、この国は財務省と
その帝国の王・勝栄二郎によって、
乗っ取られてしまったのである。

脱官僚どころか官僚から返り討ちにあって
乗っ取られてしまったのです。

「勝総理」による、財務省の復権と増税計画は、
いまこうしている間にも着々と進行中だ。

政府はすでに、震災復興財源として所得税や法人税、地
方税などの増税を打ち出しているが、問題は消費税である。

財務省が消費税アップに執念を燃やすのは、
それが、吹けば飛ぶような政権の帰趨に左右されない、
恒久税だからだ。

かつて、政府が景気浮揚のための財政出動をしようと
した際、主計局長だった勝がクビを縦にふらず、業を
煮やした亀井静香金融担当相(当時)が、「勝のクビを切れ!」
と当たり散らしたこともあった。

その亀井ですら、周囲にこう語っている。

「よく勝を呼びつけて怒鳴りつけるんだが、あいつは
呼べばすぐにやってくる。可愛げがあるんだよ」

だが、勝とは果たして、「可愛い」などという表現で
済まされるような、生ぬるい官僚なのか。

旧大蔵省出身の民主党・田村謙治代議士は、笑顔の裏
に隠された、勝の表向きとは違った強面の一面をこう評する。


「勝さんは、自分の気に入らない人材は全部、飛ばす。
たとえば勝さんは最低3年は次官を務めると言われていますが、
そのために、自分の1期下、2期下のエース候補は全部潰してきた。
いまの財務省の幹部たちは、みな勝さんのお眼鏡にかなった、
「勝帝国」の子分たちなんですよ」

勝の「力」の根源は、与野党を問わずあらゆる方面の
政治家、識者、大手メディアとの人脈だ。

前出の亀井のように、本来は増税反対の者ですら、
個人レベルでの勝シンパは多い。

それは、勝が主計局の「実働部隊」として、長く現場での
折衝や情報収集にあたってきたからだ。

そして、「日本語がヘタ」と揶揄されたほどの素朴な
語り口を逆に利用し、会った政治家を籠絡していく術を、
勝は心得ている。

財務省出身の和田隆志代議士(民主党)はこう語る。

「勝さんの力は、いわば「ソフトパワー」なんです。
適当なおべんちゃらを言うのではなく、朴訥な口調で
余計なことは一切言わず、政治家をその気にさせて、
乗せるのが抜群に上手い。

勝が、個々の政治家の特質を把握していることが
よく分かるエピソードがある。


「10年夏の参院選で、当時の菅直人首相は、
唐突に消費税の増税問題を争点に取り上げ、物議を醸した。
実はその背後にいたのも勝だというのだ」。

 

(つづく)

転載、させていただいた記事です
http://plaza.rakuten.co.jp/hiyoritohinata/diary/20120308/

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「政府発表がないから報じられない」世界が呆れた日本の新聞

2012-03-10 00:18:50 | 日記

権力の暴走を防ぐのはペンの力。。。

日本の新聞は、御用新聞です。もちろんテレビも、、

すなわち毒をまき散らす悪に成り下がっています。

マスコミの将来はないですね。

堕ちた天使 さんより転載です。

昨年来、原発事故報道で、新聞はひたすら大本営発表をたれ流した。世界から見れば非常識極まりない日本の大メディアの体質を、自身も日本経済新聞の記者経験があり、新聞社と権力との癒着を批判した『官報複合体』(講談社刊)の著者、牧野洋氏が指摘する。


東京電力の福島第一原発が津波に見舞われた翌日、福島県浪江町で数千人に上る住民は町長の指示に従って北へ向かって避難した。


 この時、政府のコンピュータシステム「SPEEDI(スピーディ)」は放射性物質が浪江町の北へ向かって拡散すると予測していた。なのに、浪江町の住民はなぜ南へ向かって避難しなかったのか。

 二〇一一年八月九日付のニューヨーク・タイムズ紙は「官僚の隠ぺい体質」と断じた。「不十分なデータを公表すると 誤解を招く」といった理由で、政府は東日本大震災直後からスピーディのデータ公表を拒み続けていたからだ。同紙上で浪江町町長の馬場有は「情報隠ぺいは殺 人罪に等しい」とコメントしている。


 スピーディのデータ公表が遅れた責任は官僚に加えて新聞にもある。国民が知る
べき重要なデータであるにもかかわらず、政府の発表を待たなければ国民に伝えられなかったこれが新聞の責任だ。

 政府がデータの全面公表に踏み切ったのは大震災発生から一か月以上も経過した五月に入ってから。新聞が「隠されたデータ」を特報したのを受けて政府が発表に追い込まれたのではなく、政府が発表したから新聞がデータ内容を報道したのである。

 福島原発のメルトダウン(炉心溶融)をめぐる報道でも新聞は本来の機能を果たせなかった。実際にメルトダウンが起 き、専門家もその可能性を指摘していたにもかかわらず、政府・東電が否定したことから当初は見出し で「メルトダウン」という言葉の使用さえ控えていた。一斉に報じ始めたのは、政府・東電がメルトダウンを認めた五月中旬になってからである。


 政府の発表を受けて書いているだけでは、権力側の発表をそのままたれ流す「発表報道」の域を出られない。発表報道 に依存し過ぎると「大本営発表」と変わらなくなる。史上最悪の原発事故が起きている時にこそ、新聞は権力を監視しなければならないのに、現実には発表報道 に終始した。


 福島原発報道については海外からも批判が出た。たとえばニューヨーク州立大学オールドウェストベリー校教授として ジャーナリズムを教えるカール・グロスマン。四十年以上かけて「環境ジャーナリズム」の分野を開拓した論客である。米環境専門誌「エクストラ!」の二〇一 一年五月号で次のように書いている。

「福島原発事故の影響についての報道はあまりにもお粗末だ。日本政府が『直ちに健康に影響はない』と説明すると、記者はそれをオウム返しに報じているだけなのだ」

 なぜこうなるのか。単純化して言えば、発表報道の対極にある調査報道の伝統が根付いていないからだ。調査報道では 権力側の説明をうのみにせず、独自調査の積み重ねで「権力側が国民に隠している秘密」を暴こうとする。権力の監視が報道機関に求められる基本機能だとすれ ば、調査報道こそ新聞報道の中心に位置していなければならない。


 調査報道が根付かない理由としてよく挙げられるのが記者クラブである。福島原発報道であれば首相官邸や経済産業省 などの記者クラブに張り付き、政府・東電側の動きを漏れなく報じるわけだ。このような記者クラブ詰めの記者については「権力側の速記者」と揶揄する向きも ある。


 記者クラブで発表報道に明け暮れると、記者は専門性をなかなか身に付けられない。記事の冒頭に「五W一H(誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どうして)」を詰め込む「逆三角形」を学べば、大抵のニュースを処理できるからだ。

 記者は「客観報道」の指導を受けているため、記事に独自の分析や解説を入れるのを最小限にしようとする。結果、書く記事はプレスリリースを読みやすく書き直しただけのストレートニュース(速報ニュース)になりがちだ。

 言うまでもなく、福島原発事故を報道する記者には、技術的な知識を含めて高度の専門性が求められる。専門性がなけ れば、政府・東電が嘘をついているかどうか判断することはままならない。それまで社会部で事件取材をしていた記者にいきなり原発報道を任せても、発表報道 以上の仕事はなかなかできないだろう。(文中敬称略)

 
※SAPIO2012年3月14日号
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「死刑囚が臓器移植の主な供給源」

2012-03-10 00:13:44 | 日記

堕ちた天使 さんより

中国衛生部、認める—中国紙

イメージ 1
写真は江蘇省中医院の前に並べられた順番待ちの椅子。


2012 年3月6日、中国衛生部の黄潔夫(ホアン・ジエフー)副部長が、北京で開催中の国勢諮問機関である全国政治協商会議のグループ討論で、「中国の臓器移植の 主な供給源は死刑囚」であることを認めた。7日付で米華字サイト・多維新聞が中国紙・法制晩報の報道として伝えた。

それによると、黄副部長は「一般市民からの臓器提供が不足しているため、死刑囚が臓器移植の主な供給源になっている」と述べ、臓器移植に関する法の改正を 年内に完成させる予定であることも明かした。中国で臓器移植を必要としている人は毎年150万人に上るが、臓器提供が受けられる人はわずか1%未満だとい う。

中国では生体移植は親族間に限られているが、違法な臓器売買が横行しているのが現状。黄副部長はこれに対し、「中国の国情に合った臓器提供システムを構築し、違法行為の取り締まりを強化していきたい」との考えを示した。


黄副部長は2005年7月に米ロサンゼルスで開かれた肝移植の国際会議で、中国政府として初めて臓器移植の主な供給源が死刑囚であることを認めている。
(翻訳・編集/NN)
 


コメント:

新鮮な臓器を得るために心臓停止ではなく、脳細胞の停止を死の定義にした。

死刑囚は強制的に心臓停止をして、新鮮な臓器を得るドナーになっている。

提供する側の苦しみを無視した考えである。

臓器を得るための死は本当の死ではない。

神経が生きている以上、激痛があるのだ。

また、魂が肉体と繋がっている間は、肉体を切り刻むことは激痛を伴う。

ただ、体が自由にならず、「止めてくれー」と叫んでも

声にならず、体も動かない。

怒り200%になった魂は、切り刻んだ人達を恨み、

移植された患者に乗り移って、復習をする。

知らぬということは罪なことですね。

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議員歳費、本当に減らせるか

2012-03-10 00:04:34 | 日記

おりょうのブログ さんより転載です。

  
議員歳費削減、定数削減
公務員給与削減
本来は、消費税増税と引き換えに検討すべき問題ではない。
それに、議員定数削減は
一票の価値を下げることになる。
投票権への侵害行為でもある。
有力議員に都合がいいだけである。

本当に身を切る覚悟があるのなら
こういう場合こそ、中央集権のシステムを使って
地方公務員の給与も削減すべきである。
自治体の中には、市の税収より高い職員給与を支給されているところもある。
全国の地方公務員の人件費総額は21兆円である。
国が三分の一を負担する公立学校教員の給与も減らせるはずだ。

岡田副総理は
『努力してもらたいが、それぞれの地方で考える事』と逃げた。
もっとも、民主党の支持母体である
自治労、日教組の抵抗に勝てないだろうが。

政党助成金の廃止も提言したい。
政党助成金は、ほとんど選挙活動に使われる。

また、国会議員に月額65万円
年 780万円支給される立法調査費
すべての議員が法案を作っている訳ではない。
立法しない議員は、返却すべきだ。

なりふり構わず、増税だけを進める民主党
いや、財務省。

納税者をバカにしないで欲しい。

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幸福実現党の経済政策~(6)実現党、日本経済を逆転させる〈4〉

2012-03-10 00:01:40 | 日記
幸福実現党観察日記 さんより転載です。

 なかなか、うまくいかないものである。
【東証大引け、3日続落 2週間ぶり安値 ギリシャ懸念重荷も下値限定 2012/3/7 15:37】
http://www.nikkei.com/markets/kabu/summary.aspx?g=DGXNASS0ISS16_07032012000000 
 日銀の「口約束」の効果が切れてきたのか、株価の下落だけでなく、円高も再びその気配を見せたように思われた。
 この日の株価の下落のきっかけは
「単に投資家たちが、利益を確定させるために売りをした」とも
「中国成長目標の引き下げ……【アジア株は下落 香港は1.68%安と下げ幅を拡大:2012/03/06 (火) 14:45】
http://www.gci-klug.jp/fxnews/detail.php?id=140665
とも言われている。
 しかし、そのような日本の経済へのマイナス材料は、もっときっぱりとした金融緩和が為されれば、ものともせずに跳ね返してゆけることだろう。
 ……結局、株価は、九日、再び【日経平均の終値9929円復活、一時1万円台回復】というところへうねり戻り、日本の強さを世界に示し、経済人は冷や汗を拭った。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120309-OYT1T00845.htm
 しかし、逆に、日銀がいつまでも「口だけ」で緩和を実践しなければ、再び経済はゆるやかに下落に向かうことは確実である。
 ここで追及の手を緩めずに、日銀の発表した「準備金」の額がまだまだ少ないことや、早くより大胆な実践に踏み切ることなどを、日銀に対してもっともっと強烈に働きかけていかなければならないと思わされる。

 それにしても、この霊言の発刊と、それにつづく経済の動きを見ていて、気づかされることがある。
 それは、日本人は、今まで経済的信条に関して、一つの「洗脳」にかかっていたのではないか、ということだ。
 私たちはこう教わってきた。
 『お金を刷ればお金の価値が下がって国が破産する。力のない国がそんなことをしたら、ハイパーインフレになって国が滅ぶ。だから日本は絶対やっちゃいけない』と。
 ふりかえれば、1960年代だったろうか、マスコミは「インフレで物価が値上がりする、ものが高くなっていく、困ったものだ」というメッセージを発信していた。
 「最近ではものの値段が上がって、庶民の暮らしはよくならない、困った困った」という論調が、「値下げは善、値上がりは悪」だと、日本人を洗脳した。
 中学校の社会科でも、授業中、教師たちはそんな口調だった。
 ついで、1990年代になると、マスコミは、
 「日本はバブル経済である。実力がないのに金回りばかり良くなっているのが日本だ。そら、成金がこんな汚い遊びをしている。大変よろしくない」
 と報道し始めた。
 「インフレは悪」「バブルは悪」……日本人の多くがそれを受け入れて事実なのだとおもってきたが、実は、それは、日本の国力を落とすための「洗脳」の一種ではなかったか。
 「自虐史観」ということばがあるが、経済においても「自虐的経済観」、みたいなものが、日本人を毒してきたのではないか。
  「俺たち日本は、実力なんてないんだから、金回りが良くなるのはおかしいことだ、よろしくないことだ」みたいな思想が、この国には蔓延していたのである。
 その「教義」のご本尊は、日銀であったといえる。
 「日銀総裁の霊言」にも、「日銀は宗教団体のよう」だとあるが、 「インフレは悪」というのは、日銀教団の「経済的教義」だったのだ。間違った教義が長らく圧政のようにして、日本を苦しめ、「失われた二十年」を生み出した。

 だが、このたびの書籍「日銀総裁の霊言」は、その「洗脳」を覆した。
 それまで、野田さんや安住さんがきゃあきゃあ「介入した、介入した」とはしゃいでも、ただ膨大な円が融けて無くなっただけであったのが、たった一書……しかも経済書ではない、なんと、オカルティックな「霊言」という書籍で、あっさり逆転させてしまったのだ。
 この逆転は、ひとえに、総裁の発刊と同時に日銀の前でこの書籍を配布した若者たちをはじめ、この本の献本にかけまわった人たちの力だ。
 彼らが日本人を解放する役割を果たしてくれた、と痛感する。
 (実現党のシンパのみなさん、ほんとうにありがとうございました)
 野田首相をはじめ、民主党の議員達は「増税以外に好景気はない」と言われていたことが、はっきりいって「ウソ」であったという現実をつきつけられて、洗脳がとけかけ、混乱していることだろう。
 
 しかし、この背景には、オカルト的なものだけではない、大川総裁の数十年のこの世的努力と実績があった、と言うことも強調しておきたい。
 日本人は、新興宗教と聞けば「頭の足りない人たち」ときめつけてかかる教育を受けてきた。
 しかし、大川総裁は、そうした教育がウソであることを証明した。
 総裁は、さまざまなジャンルに提言を繰り返しているが、その二十年は、単なる学者や、徒手空拳の宗教家のそれではなかった。
 二十年の間に、無借金で、宗教団体の施設や学校、海外事業等の事業を展開していて、なお事業は拡張している。実業家としても大のつく成功者なのである。
 それもそのはず、若い頃の経歴や、そのころの思い出話からも分かるように、金融に関しても歴としたプロなのだ。
 それらの知識と経験を使って一つの大団体を成功させ、数百人の候補者を毎回立てる戦いをしても軍資金がつきないほどの豊かさをなお有しているのが、総裁の今の状態だ。
 90年代から、すでに大川総裁は、
 「今の日本は、紙幣の発行で危機に陥るような国ではない」
 と言い続けたが、それだけの実績のある人物が、なお、提言をし続けているのだ。
 その人物が出す提言は、たんなる霊的啓示のみならず、上気したこの世的な努力と能力に裏打ちされていて、しっかりと説得力がある。
 その言葉に、日本の人々を、誤った経済信条から解放するに足る力があるのは当然と言えば当然のことだった。
 見る人は見ている。
 少なくとも、この二週間で『実現党をはじめとする金融緩和を唱える主張を聞き入れれば、経済が回復するのは間違いない』、と証明された。
 実現党にとっても、「その政策は正しいのだ」、と、自信を持つには十分の手応えだった、といえよう。
 これは、総裁が打ち込んだ一つの弾丸である。
 その弾丸は、このたび、あっさりと日本人のインフレは悪という「経済的信仰」に関する洗脳を解いたのだ。

 しかも、おそるべきことに、今年の最初の二月までで、こうした「弾丸」……つまり、世界を変えうる霊言を、総裁は「三十六発仕込んだ」と言う。(繁栄思考セミナー、質疑応答第三問にて)
 そして、これからそれを打ち込んでいくと総裁は語られた。

 ……一発だけでこの威力である。
 それが今年は、まだ三十発以上も、次々と、あらゆるジャンルに関して、打ち込まれていくというのだ。(三月に入っても、霊言は次々と収録されている)

 ……正直、心が躍る。

 今年、残り十ヶ月、おそらくは大変な一年となるだろう。
 どんな未来が待っているか、考えるだに瞑目したくなる。
 しかし、大動乱のその最中に、総裁の「三十数発の弾丸」が次々と世界をオセロゲームのようにひっくり返していく壮観なさまを、読者はあちこちで見ることができるだろう。
 一冊の書籍が、世界をひっくりかえし、日本の劣勢を叩き返していく姿を、これから読者は見ることができるはずだ。
 ……たとえ、それが避難先の体育館や、侵略軍から疎開していく中であろうと、その瞬間、心の中で快哉を叫び、ささやかながら自分たちの与した戦いに着実な勝利を収めていることに胸が熱くなれるだろう。
 ……それがどれだけの希望であり、喜びであることか、と思う。
 その希望を胸にして、この一年をくぐりぬけ、一人でも多くの友人たちと、笑い合いたいものだ、と思っている。

 とりあえず、今一番、書籍の発刊が望まれるのは、勝栄二郎・財務事務次官の守護霊霊言と、沖縄知事の霊言だろう。
 両守護霊の語る内容自体は、日銀総裁のそれより、はるかに腹立たしいものであろうが、それが世に出るや、今回のような逆転劇が巻き起こる、ということが、読者には分かってしまった。
 今回もまた、日本を最悪の状況に追い込もうとしている当事者たちの本心の暴露によって、一体どこにどんな逆転劇が巻き起こるか……考えただけで頬の筋肉がゆるんでしまうのは、小生だけではないはずだと思うのだ。
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