「ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!」というラノベがある。(※1)
そこから引用したいことがある。
> 高校生にもなってさすがに二次元と三次元の区別がつかないなんて、シャレにもならない。
> だから面と向かって、(中略)のヒロインの一人を持ち出して
> 「---が大好きなんだ愛してる!!」
> とかイタいことを言えるわけがない。
えっと。
ここにいい歳こいた大人なのに
「千早が大好きなんだ愛してる!!」
とかイタいことを言ってる人がいるんだな、これが。
それはさておき。
この話はさらにつづく。
> せいぜいが
> 「---みたいな子がいたらいいよなー。でも、こんな良い子が惚れてくれるわけないよなーあははー」
> 程度に留まる。
> これでも、公共の場で言おうものならヒンシュクモノの、厳しい台詞だ。
> その区別がつくぐらいの分別がないと社会では生きていけないのだ。
まあそれはあたりまえですな。
二次元キャラにソックリな現物など存在しない。
そんなものは望むべくもなくムリなのだから。
しかしそれがかなわぬからこそ、この引用文のような
「二次元キャラが三次元化してくれるといいんだけどな~」
みたいな夢物語を語ることになるわけでもある。
しかし!
わたしはそうは思わない。
かつてはそう思っていたこともあったのだが、現在はそう思うことは全く無い。
なぜか。
三次元化した二次元キャラがどういうモノかという事について考えさせられる事件があったからである。
かつて、わたしはお見合いしたことがある。
正確には気が付いたらお見合いせざるを得ない状況になっていた、というほうが正しい。
細かいことは省略するが、わたしが断ると
「うちの娘は噛ませ犬じゃねえんだからな!」
と相手の親がブチ切れるのが目に見えるような状況で、断るのはムリだったのでしかたなくお見合いした。
そもそも現物のねえちゃんに興味がないヤツがお見合いして成功するはずもなく、相手の女性に失礼なのでキホン断っているのだが、このときばかりはそうもいかなかったのだ。
まあそれはいいとして。
で、しかたなくお見合いした。
出てきた相手はどんなのだったかというと、世間的に見ればかなり良いお嬢さんなのだろうと思えるような女性であった。
その経緯を友人と話したのだが・・・
「で、どんな子だったのよ?」
「ツラも良いし、育ちも良さそうな感じだったよ」
「もうちょい詳しく、ほら、芸能人に例えるとどうだとかさ」
「ああそうね、エヴァの綾波レイにソックリだった」
「なぬ!?」
「お見合いにくるくらいだから歳はそれなりだけど、髪型も雰囲気も体型も良く似てた。顔もソックリというほどではないけど多少似てる」
「いいじゃねえか!」
「性格も綾波レイなんだ」
「なんとうらやましい! きさま何とぜいたくな!!」
「いやまて・・・」
「ん?」
「ホントにうらやましいと思うか?」
「もちろんだ!」
「そうじゃないんだな、これが。」
「なんで。いらねえなら俺が欲しいくらいだ!」
「じゃあさ、綾波レイがリアルに存在したとして、おまえいったいどうやって会話しろというんだよ」
「うっっっ、たしかに」
「我輩はどうすれば良かったんだろうね。こんな時どういう顔をしたらいいのかわからないぞ?」
「・・・笑えばいいと思うよ」
「はっはっは。もう笑うしかないわけで」
「そうか・・・」
・・・ということなのだ。
そのとき悟った。
綾波レイは二次元にいるから素晴らしいのだ。
綾波レイは実体化して三次元世界に来てはならんのだ、と。
これはきっと綾波レイに限る話ではない。
一般的に言えることであろう。
そもそもわたしは人間の女の子の裸よりも絵に描いた女の子の裸のほうが好きなんだから、実体化している時点で既に大きなマイナス要因ですらある。
つまるところ、
「二次元キャラが三次元化してくれるといいんだけどな~」
という夢物語はしょせん夢物語。
三次元化できないというところが夢物語なのではない。
三次元化できたとしてもガッカリするものしかできないからこそ夢物語なのだ。
二次元キャラは実体化しないからこそ、実体を超越した夢として語ることができるのだ。
少なくともわたしはそう思う。
すでに
「いつか二次元キャラ同等の素晴らしい現物のねえちゃんが現れるかも?」
という夢や希望は捨てた。
【※1 ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!】
ファミ通文庫
田尾典丈
600円(税別)
ISBN978-4-7577-4646-6
そこから引用したいことがある。
> 高校生にもなってさすがに二次元と三次元の区別がつかないなんて、シャレにもならない。
> だから面と向かって、(中略)のヒロインの一人を持ち出して
> 「---が大好きなんだ愛してる!!」
> とかイタいことを言えるわけがない。
えっと。
ここにいい歳こいた大人なのに
「千早が大好きなんだ愛してる!!」
とかイタいことを言ってる人がいるんだな、これが。
それはさておき。
この話はさらにつづく。
> せいぜいが
> 「---みたいな子がいたらいいよなー。でも、こんな良い子が惚れてくれるわけないよなーあははー」
> 程度に留まる。
> これでも、公共の場で言おうものならヒンシュクモノの、厳しい台詞だ。
> その区別がつくぐらいの分別がないと社会では生きていけないのだ。
まあそれはあたりまえですな。
二次元キャラにソックリな現物など存在しない。
そんなものは望むべくもなくムリなのだから。
しかしそれがかなわぬからこそ、この引用文のような
「二次元キャラが三次元化してくれるといいんだけどな~」
みたいな夢物語を語ることになるわけでもある。
しかし!
わたしはそうは思わない。
かつてはそう思っていたこともあったのだが、現在はそう思うことは全く無い。
なぜか。
三次元化した二次元キャラがどういうモノかという事について考えさせられる事件があったからである。
かつて、わたしはお見合いしたことがある。
正確には気が付いたらお見合いせざるを得ない状況になっていた、というほうが正しい。
細かいことは省略するが、わたしが断ると
「うちの娘は噛ませ犬じゃねえんだからな!」
と相手の親がブチ切れるのが目に見えるような状況で、断るのはムリだったのでしかたなくお見合いした。
そもそも現物のねえちゃんに興味がないヤツがお見合いして成功するはずもなく、相手の女性に失礼なのでキホン断っているのだが、このときばかりはそうもいかなかったのだ。
まあそれはいいとして。
で、しかたなくお見合いした。
出てきた相手はどんなのだったかというと、世間的に見ればかなり良いお嬢さんなのだろうと思えるような女性であった。
その経緯を友人と話したのだが・・・
「で、どんな子だったのよ?」
「ツラも良いし、育ちも良さそうな感じだったよ」
「もうちょい詳しく、ほら、芸能人に例えるとどうだとかさ」
「ああそうね、エヴァの綾波レイにソックリだった」
「なぬ!?」
「お見合いにくるくらいだから歳はそれなりだけど、髪型も雰囲気も体型も良く似てた。顔もソックリというほどではないけど多少似てる」
「いいじゃねえか!」
「性格も綾波レイなんだ」
「なんとうらやましい! きさま何とぜいたくな!!」
「いやまて・・・」
「ん?」
「ホントにうらやましいと思うか?」
「もちろんだ!」
「そうじゃないんだな、これが。」
「なんで。いらねえなら俺が欲しいくらいだ!」
「じゃあさ、綾波レイがリアルに存在したとして、おまえいったいどうやって会話しろというんだよ」
「うっっっ、たしかに」
「我輩はどうすれば良かったんだろうね。こんな時どういう顔をしたらいいのかわからないぞ?」
「・・・笑えばいいと思うよ」
「はっはっは。もう笑うしかないわけで」
「そうか・・・」
・・・ということなのだ。
そのとき悟った。
綾波レイは二次元にいるから素晴らしいのだ。
綾波レイは実体化して三次元世界に来てはならんのだ、と。
これはきっと綾波レイに限る話ではない。
一般的に言えることであろう。
そもそもわたしは人間の女の子の裸よりも絵に描いた女の子の裸のほうが好きなんだから、実体化している時点で既に大きなマイナス要因ですらある。
つまるところ、
「二次元キャラが三次元化してくれるといいんだけどな~」
という夢物語はしょせん夢物語。
三次元化できないというところが夢物語なのではない。
三次元化できたとしてもガッカリするものしかできないからこそ夢物語なのだ。
二次元キャラは実体化しないからこそ、実体を超越した夢として語ることができるのだ。
少なくともわたしはそう思う。
すでに
「いつか二次元キャラ同等の素晴らしい現物のねえちゃんが現れるかも?」
という夢や希望は捨てた。
【※1 ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!】
ファミ通文庫
田尾典丈
600円(税別)
ISBN978-4-7577-4646-6