DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その48

2012-12-24 11:49:43 | 物語

回向と供養の義務

「長い人生の間に、私はいろいろな人と出会い、さまざまな場面に遭遇してきました。運も良かったのだと思いますが、何とか危難も潜り抜けてくることができました。第一次世界大戦の時には、ジャワにいました。第二次世界大戦の時には、オランダにいました。今、最も恐れているのは、第三次世界大戦の始まりです。戦争はいけません。破壊でしかないからです。」

晃の眼から、一筋の涙がこぼれた。

「数年前に、豪州のブリサウトンからポートモレスビーへ行き、そこからニューブリテン島のラエ経由でラバウルへ行きました。ご承知のように、この一帯は、ブーゲンビル島と同様に、何万人という日本の陸海軍の戦死者を出したところです。私はこの周辺を見学し、墓参りをしてきました。眺望のよい山頂には、静岡県の慰霊団が建てた小さな碑があり、そこで合掌してきました。その傍には、砲身三メートルはある大砲が、豪州の方角に向けられたまま放置されていました。なぜ撤去しないのだろうか、と不思議に感じました。収集団が持ち帰った遺骨も、一部にしか過ぎません。それが残念でなりませんでした。」

人間とは不思議なものである。若くて元気なときには、回向とか供養には興味を示さない。ただ、ガムシャラに生きようとする。結果、争いを引き起こすこともある。それは、動物すべてに見られる生存への葛藤でもある。このことは、時として、他の種の滅亡をもたらすこともある。人間が他の動物と違うことは、死者を弔う点である。

「帰国してからある会合に出席した時に、偶然、霊媒師が来ておりまして、私の背後に戦争で死んだ人々の霊が見えるというのです。まさかと思いましたが、具体的に宮城県の宮沢五市連隊長以下何十名かの連隊兵士の亡霊の名前まで挙げられると、気味が悪くなりました。といいますのも、その霊媒師は、私がラバウルから帰国したことを知らなかったからです。早速除霊をしてもらった記憶があります。」

人が年を取り自分の生命の終焉に近づくとき、もしくは大きな危難に遭遇したときに、妙に宗教的になるものである。ただ、晃が述べている宗教というのは、特定の宗教をさしているのではなく、宇宙の秩序というものである。

「宗教とは、宇宙のいたるところに存在する無限絶対な『根源的にあるもの』だと思っています。それを畏敬し、崇拝し、全託することによって、安心立命を得ようとする、根本の教えが宗教ではないでしょうか。聖書で言うように、人間はその本質にあって不老不死の光明体であるのだと思います。そのことが、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(「我は在りて有る者」のヘブル語:出エジプト記三・一四の言葉)と、伝えられている所以かと思います。」

この話は無条件では理解しがたいが、宇宙が誕生したとき、確かに『敵』とか『悪』とかは存在しなかったはずである。それらは、人間の意識下の中で作り出されたものであり、猜疑心、憎しみ、妬みなどを捨て去らない限り、解脱はないというのは真実だろう。しかし、それが可能だろうか。過去から、いくつかの解答が用意されてきた。それが、宗教であり、信仰であった。しかし、そのような宗教が、新たな争いを引き起こしているのも事実である。晃の述懐も次第に終わりに近づいてきた。

つづく


12月23日(日)のつぶやき

2012-12-24 05:09:07 | 物語