乳酸発酵品『ギー』
「キクと私は、カトマンズのシャンカーホテルに滞在していました。1964年に建設されたこのホテルは、フランスの王宮風にデザインされています。まるで王侯貴族になったような気分で、とても快適な滞在でした。」
晃は再び語りだした。
「このホテルに滞在中、多くの若者が私を訪ねてきました。彼らは、ネパールの明日を担う、前途有為なインテリでした。自主独立と近代国家を作るにはどうしたらよいかと、聞きに来るのです。」
当時、ネパールのルピー貨は、インドのルピー貨に比べて39%も低かった。現在でも、交換レートは1.6に固定されている。それだけ、国土が貧しかった。ネパールで余剰となった農産物は、買いたたかれてすべてインドへ輸出されていた。
「日本から経済援助と財政的支援を受けて、農業や工業の近代化を進めるべきだ、と話しました。ネパールの面積は、北海道の約2倍です。当時の人口は1200万人でした。このうち、93%の人が農業に従事していました。宗教的な背景から『足るを知る』という風潮が強く、新しいことに挑戦するという気概に乏しい国民性が指摘されていました。」
ネパールという国は、海抜70mから8800mまでの、高低差が非常に大きいいが、低地は概して肥沃で作物がよく育つ。現在の人口は3000万人に近いと言われてる。
「私が政府の要人や経済界の人々に提案したのは、低地では油分含有量の多い種子から搾油して植物性油脂として輸出することと、高地では観光事業に力を入れるというものでした。そのために一番大切なことは、インドのカルカッタ港の整備である、と強調しました。それほど、この港の状況はひどく、悪名高いものでした。ネパール政府は、インド政府と交渉して、カルカッタ港にフリーゾーンを設け、安全で速やかな積み出しができるようにすることが、喫緊の課題だったのです。」
それから、晃は声を潜めて話を継いだ。
「実は、私が最も期待していた交易品は、ネパール産の『ギー』でした。牛や水牛、ヤギの乳から作るギーは乳酸発酵品ですが、食用や薬用・宗教儀式用に利用されとても重要な産物です。インドでは、全乳生産量の50%以上がギーだと言われています。ネパールでも作られているのですが、ヨーロッパとくに北欧ではネパール産のギーがとても人気なのです。安定供給さえできれば、必ずもうかる輸出品だと思っていました。」
つづく