DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その50

2012-12-27 01:15:09 | 物語

エピローグ

鳥澤晃は1986年11月27日に永眠した。88歳だった。最後に分厚いメモを手渡されてから5年の月日が経っていた。この5年間に、晃の体力は急激に消耗した。そして、彼の『ネパールへの夢』が実現されることはなかった。

今。2012年も終わろうとしていた。やっとこうして、彼のメモ書きを一つ一つ解きほぐしながら、50個の小さな文章に仕上げることができた。できるならば、これらを一つの文章にまとめて大きな物語を作ることが、晃との約束である。1981年に会ってから、ずいぶん時間がたったものだ。当時、俊一は30歳だった。これまでは自分の仕事が忙しくて、とてもこのような作業ができる環境ではなかった。

最期に晃が語った言葉『積極的な諦観』とは何だったのだろうか。ふつう、我々は、仕方なく諦める。世の中には不条理なことが多いからだ。何かをやりたくてもできないとか、何をやっても失敗するとか。うまくいかないことが多くて、しぶしぶ諦める。いずれにしても消極的な諦めが圧倒的に多い。しかし、晃は積極的な諦観が世の中を救うと言った。

仏教では、諦観とは「あきらかに真理をみる」と教えている。そうか、宇宙と自我の一体化、すなわち梵我一如のことか。古代インドにおけるヴェーダ(知恵の書)の悟りであるブラフマン(宇宙真理)とアートマン(個人原理)とを同一にせよ、という意味なのか。私たちは、個としての我を認識できるが、それは真理の一部分でしかない。それぞれの個人はそれぞれの価値観を持ち、それぞれの存在の中に正義を持っている。それをすべて纏め上げれば、真理に達する。すなわち宇宙を知ることになる。しかし、それは不可能だろう。なぜなら個人原理をすべて知ることさえ出来ないからである。

どうするか。それが宗教の、哲学の、科学の究極の問いかけである。晃はかつて次のように語った。

「ラジャヨガの経典が示すように、人間はわが肉体を自分自身だと思って、今日に至るまでまだ真の自分を知らないでいます。だからこそ、迷いが生じるのです。すべてが運命であると思うこと、すべてが神の仕業であると思うこと、すべてが偶然であると思うこと、これらはいずれも間違いだということです。」

難しいな。いずれにしても、今は鳥澤晃のご冥福を心から祈るだけである。もし彼岸があるのならば、あの世とやらで、ゆっくり彼の講釈を聴こうと思う。白馬に乗って、この世の中を救うのは誰なのかと。

 

きみよ きみ

さらさらとなる 木の葉のささやきに

静かに 耳を傾けながら

古きものと 新しきものが

行き交うのを 眺めよう

 

さくや さく

時をつむいで 生まれくる命に

ほっとした 吐息を吹きかけて

早きものと 遅きものが

繰り返して 歌を聴く

 

ゆくや ゆく

止まることない 流れに身を任せて

過去から 未来に向けて

強きものと 弱きものが

絡み合って 消えていく

 

しるや しる

世に生まれ来た 生命の躍動に

おどろいて そっと手を触れる

来るものと 去るものが

知らないまに 入れかわる

(おわり)