NHKの大河ドラマ「八重の桜」に、会津藩家老の西郷頼母(さいごうたのも)と言う人物がいますが、先日やはりNHKで、その西郷頼母を取り上げた「歴史秘話ヒストリア」と言う番組を見ました。
西郷頼母は会津藩を興した家系の由緒ある家に生まれ、幕末当時は筆頭家老職に就いていました。
新しく城主として来た松平容保(まつだいらかたもり)公を補佐すると同時に、この会津藩を存続繁栄させる重要な役割を担った人物でした。
黒船来航以後の、尊皇攘夷とかの騒動には出来る限り係わらずにいたいと言う彼の思いは、容保が京都守護職に就いてしまった事で崩れ始めるのでした。
謹厳実直な容保は、ときの孝明天皇に尽くし信任厚く優遇されました。
しかし突然孝明天皇は崩御され、瞬く間に反対派の標的にされてしまうのでした。
反対派の薩摩・長州藩は、自分達こそが天皇を戴く尊皇派と称し、新しい政府を創り徳川幕府を倒しました。倒された徳川幕府に絶対服従を家訓としてきた会津藩は、朝敵の汚名をきせられ戦わざるを得なくなってしまうのでした。
頼母は始め、新政府軍に屈服して戦を避けようと容保公と重臣達を説得しますが、多数派の開戦論に敵わず、シブシブ、だがしかし、一旦戦うと決めると自身の死は言うに及ばず、家族全員に覚悟をさせるのでした。
新政府軍が会津領内の城下に進軍すると、頼母の母・奥方・幼い子供達の女性一族21人は、全員自害して果てると言う悲惨な結果になってしまいますが、
(ヒストリアでは、)城内にいた頼母と一人息子は、今度は負け戦で絶対勝てないと分かった家臣らからの停戦案に激怒し「最後の一兵まで戦うのみ」と聴かず、逆にお城から放りだされてしまうのです。
(「八重の桜」や他の文献では、頼母は終始、容保公に「新政府軍に恭順し停戦を!」と進言したので、容保に疎まれて城から出された。となっていますが…)
その後、会津藩は陥落、自分の屋敷も城下も殆んど焼け落ち、帰る所さえなく、父子で新撰組の残党と北海道の箱館(現在の函館)まで行き、そこでの戦にも生き残り、それから(幽閉解放後)は放浪の旅に出るのです。
その日暮らし(知人の紹介で子供達に勉学を教えたり)の日々を送り、西郷家の最後の跡取り息子も22歳くらいで病死、たった一人また彷徨う放浪の日々・・・。
なぜ、なにが、彼を、彼の人生を、こうさせたのか?
ほんの少し前まで、お城のすぐ前に大豪邸を構え、何不自由のない生活をしていた真面目な人間が、
今、ホームレス同様の、たった一人の人生を、お迎えが来るまでの一時を・・・・ただ淡々と送っている
人生って、運命って、生きて行くって、なんなのだろうって、
自分の人生に重ねて、考えてしまいました。