図書館で見つけたこの本は、各藩の大名が如何に苦心して江戸城に参勤したかが良く分かる興味あるものでした。
信長・秀吉時代から全国的に行なわれるようになった「参勤交代」は、徳川幕府の安定政権になると「武家諸法度」として法制化され、細かく「作法」として発布されました。
これに背いて参観せぬ者には、厳しい罰がくだされました。
今回は、その大名達が将軍に謁見するために登城した時に必ず通った城内の門を見てみましょう。
江戸城に入ろうとする大名達は、「大手門」あるいは「桔梗門(内桜田門)」の手前で馬から降りて城内に入り、「天神濠」に架かる「下乗橋」の手前で駕籠から下りて橋を渡り、この石垣に建っていた「大手三之門」の高麗門をくぐりました。
上の写真の石垣の手前には、かつては横方向に天神濠が掘ってあり、橋が架かっていましたが、今は濠は完全に埋め立てられ橋もまったく在りません。
幕末から明治初期には、こんな「大手三之門」が建っていました。
桝形の門の中に在った「同心番所」が現存しています。
同心番所から左側の櫓門跡の石垣を出ると、広い空間に出ます。
広場の真ん中から「大手三之門」の櫓門跡を見たところです。
左側(上の写真では右側)には「百人番所」があって大名一行に目を光らせていました。
百人番所には、伊賀・甲賀・根来・二十五騎の四組それぞれ百人が昼夜を問わず詰めていて、城内を監視していました。
百人の目を気にしながらここを通り
ホッとして見る百人番所!
この反対側には「中之門(大手中之門)跡」が立ちはだかっています。
諸大名に威厳を見せつける為に、石垣は大石を隙間なく積み上げ、その上には櫓や多聞を連ねて建てていました。
幕末から明治初期の古写真では、こんなふうになっていました。
せめて櫓門だけでも復元できないものでしょうか?
この中之門跡に入ってまた、「大番所」があるのです。
この番所には、身分の高い武士(与力)が詰めていました。
長旅の疲れも癒えぬうちに何度も緊張を強いられ、大名達も疲れ切った事でしょうね!
中之門跡内からの外の景色。
この石垣上に渡櫓が建っていれば、全く違う景観になるでしょうね!
ここからは結構きつい上り坂になっていて、文字通りの「登城」になります。
この上り坂の右側奥に、本丸へ入る表門であり、最後の門であった「中雀門(書院門)」跡があります。
上写真の左側の石垣上には、重箱櫓と呼ばれた総二階建ての「書院出櫓」が建っていて、その奥の高い石垣上には、やはり二階建ての「書院二重櫓」が建っていました。
中雀門が建っていた石垣は、火災による熱で黒く、そして石の表面が割れて剥がれています。
本丸も数度焼け落ちていますので、この中雀門も火焔からは逃れられなかったのでしょうね!
本丸内からの中雀門跡の写真です。
この後ろには本丸御殿の玄関にあたる、「遠侍」がありました。
此処まで来た大名は刀を従者に預け、丸腰で御殿に入って行きました。
幕末の文久になるまで、各大名は毎年江戸と自藩を往復しなければならず、その莫大な費用の負担は、かなり藩の財政を圧迫したのでした。
それが幕府の狙いであり(最近では参勤させる事が目的であって、大名達に大金を使わせたのは結果であったとの説が有力だと言う事です)、それによって江戸幕府は幕末までは安泰を保てたのですけど(現に文久以降、参勤交代は「3年に一回で良い」となり、薩摩藩や長州藩・土佐藩などは余裕の出来たお金で最新式の鉄砲や大砲・軍艦を買い込み、その武器によって討幕出来たのですから。)ね・・・!
つづく