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ファイシャ(たすき)の重み

2008-07-12 | サンバ
 浅草サンバカーニバルが近くなると、ファイシャ(たすき)の注文を数多くいただきます。ファイシャとは、「ミス・日本」などが肩からかけている、あのたすきのことです。

 大変ありがたいことに、私は、ここ8年間、毎年のようにサンパウロのカーニバルにファイシャと共に出場しています。しかし、今回のカーニバルほど、ファイシャの重みを感じたことは、ありませんでした。

 サントスFC応援団のサンバチーム、トルシーダ・ジョーベンのサンバ・クィーンがカーニバルの2週間前に突然、病気で他界してしまったことは、前のブログに書いた通りです。

 このチームでは、カーニバル前の最後の練習では、ファイシャの贈呈式を行うことが、ここ数年のならわしになっていました。しかし、サンバ・クィーンのカーリンが亡くなり、いつもなら贈呈式であった最後の練習が、初めてのサンバ・クィーン不在の練習になってしまったのです。

 こんな悲劇が起きた年だから、もう、ファイシャの贈呈式などないだろう、と私は最後のジョーベンの練習に行きました。練習が始まる直前、チームの会長が「サンバ・クィーン」の同僚である、「ミス・シンパチア」の私と「マドリーニャ」のシーダのところへ来て、ささやきました。
「カーリンのお母さんにサンバ・クィーンのファイシャを渡すからな」

 その一言にジーンときました。カーリンが受け取るはずだったファイシャをお母さんに渡すのです。

 チームの歌が始まりました。カーリンの棺を埋葬するときに、チームのメンバーで泣き崩れながら歌った曲です。帰らぬ人となったカーリンの足元にかけられていたチームの旗は、練習場で大きく舞い始めました。私たち、王室のダンサーも、旗に挨拶をして、バテリア(打楽器隊)の前に入りました。

 歌が終わると、カーリンの追悼式が始まりました。
 黙とう。スルド(大太鼓)の音だけが、静かに、ゆっくり鳴り響き、みんな目をつぶり、カーリンの思い出をかみしめました。ステージでは、チームの役員が次々にマイクをにぎり、お葬式の報告や、打楽器隊の指揮者であるカーリンのお父さんへの弔いの言葉が送られました。

 チームの会長が、カーリンのお母さんの名前を呼び、カーリンのファイシャが渡されました。カーリンがカーニバルで使うはずだった「ハイーニャ・ダ・バテリア」のファイシャです。
 バテリアの太鼓の音が会場を包みました。みんな大粒の涙をこぼしながらも、カーリンに、カーリンのお母さんに大きな拍手を送り続けました。

 そして、その次に名前を呼ばれたのが、意外なことに、この私でした。指揮者である、カーリンのお父さんが、私にファイシャをかけてくれました。カーリンと同じファイシャをです。

 気のせいか、例年のファイシャよりも細かい刺しゅうで、丁寧に作ってあったような気がしました。サントスFCのマスコットのクジラが入った、きれいなたすきでした。
 ファイシャを受け取ったら、ソロで、思い切りサンバをしなくてはなりません。

 私は、悲しみを吹き飛ばすように、バテリアの端から端まで大きく踊りました。前を見ると、カーリンのお母さんが、私に拍手を送ってくれていました。亡くなった娘のファイシャを手にしたばかりで、悲しみのどん底にいるというのにです。

 この日、カーリン以外で、ファイシャを受け取ったのは、私1人でした。生きている人間で私だけが、カーリンと同じファイシャをもらったのですから、こんなに重みを感じたことはありません。

 彼女が肩からかけることができなかった、このたすきを私は、大切にしなければならない、翌週のカーニバル、彼女の分も本当に頑張らなければいけない、と身にしみて感じました。

 あとから聞いたのですが、チームの会長は、仕上がったカーリンのファイシャを手にしたとき、泣いて泣いて、言葉を発することができなかったそうです。

 この時期、浅草で使うファイシャの制作を請け負いながら、カーリンが手にすることがなかった、彼女の2008年のファイシャへの思いを改めて、強く胸に刻みなおしました。



 

 

 

 

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