chuo1976

心のたねを言の葉として

足あと       藤本トシ

2016-12-22 03:23:57 | 文学

足あと       藤本トシ

 

 「めくらさんにはね、とくべつに神様がついていてくださるのだよ。そして教えてくださるから独りでもなんでも上手にできるのさ」
 私は今でもこの言葉を忘れない。私は末子なので小学校へ入るころになると、母は年のせいかよく肩をこらした。そして按摩さんを頼みにゆくのは私の役になっていた。その按摩さんがである。今のように車のはんらんはなかったにもせよ、他のさまざまな乗物と、ひと通りの多い街をたった一人で二度も角を曲がって、まちがいなく私の家に来るのである。それがいかにも不思議であった。おさない脳裡には、めくら鬼にされた時たいていは困って泣く自分の姿が浮かんでいた。
 不思議はまだあった。ながい療治がすむと母はきまって茶菓を、時間によっては食事をだした。按摩さんはそれを実にきれいに食べるのである。骨っぽい小魚、貝、汁、豆などの難物さえ手ぎわよくさばいて少しもこぼさない。すむとお行儀よく一礼して座をはなれ、母から渡されたお金を指先で確かめると更に一礼して静かに帰って行くのである。
 先の言葉は唖然としてその姿を見おくる私に、笑顔で母がささやいたものである。その時には、めくらにはめくらの神様がついててくださるかどうか、わが身で確かめる時が来ようなぞとは夢にも思わなかったのである。
 さて、盲目となって、見るかげもない手足になって、私は神様から何を教えられたのであろう。わからない、が・・・おぼろげながら受けとめられたのは、涙の底を掘り下げろ、ということである。ともしびは我が手で獲得するものだ、ということである。
 ともあれ、私はこの掘り下げ作業を始めるようになってから、よく春木のお婆ちゃんを思い出す。というより知らず知らずお手本にしているのかもしれない。この人の両手はてのひらさえ殆どなかった。足も同様で、ひざでいざって、いつも用事を足していた。眼こそ見えたがまことに不自由な日常だったのである。
 お婆ちゃんは八畳五人の部屋にいた。私はそこの付添いだったのである(外島時代のこと)。ある時お婆ちゃんは私に、
 「重箱の上になあ、長い箸を一本横にのせて、その上と下とに団子を一つずつ置いたような字はなんと読むのや」と問うた。
 「そんな字どこに書いてあるの」と聞くと、けさ来た手紙の中にあるというのである。しかし手紙は見せてくれなかった。何かわけがあるらしい。私はじーっと考えていたが、そのうちに、はたと思いあたったのである。いつか本にあったのを教えてあげた文字である。私は言った。
 「それは、母という字よ」
 「ああそうか・・・、それでようわかったわ」とお婆ちゃんはにこにこした。
 その後お婆ちゃんは感ずるところがあってか、少年寮から不要になった二、三年生の読本を借りると、猛勉強をはじめたのである。先生は私であった。教師は頼りないが、お婆ちゃんの熱意の成果はすばらしいもので、一年も経つと便りはおろか、ふりがなつきとはいえ大衆雑誌もどうにか読めるようになったのである。それからのお婆ちゃんは、いつも盲人たちに囲まれていた。娯楽の乏しかった時代なので、お婆ちゃんの読書はその人たちにとって真実大きな慰めだったのである。
 こうして、あの第一室戸台風の高潮に呑み込まれる日まで、お婆ちゃんは盲人たちの心に、そして、自分のたましいに火を点じつづけていたのである。
 今私の周囲には、盲友たちの実に美事な足あとがたくさんある。その最たるものは十一園のライ盲者が万難を排して手をつないだことである。全盲連を結成したことである。そこから生まれでる幾多の活動、その成果のひとつひとつが、谷底の者をうるおす水滴となっているのだ。重症の私はその恩恵をうけるばかりの不甲斐なさなのである。だが、全力をしぼって自他の心を日おもてに向けさせた、このお婆ちゃんの心意気だけは、私のものにしたいのだ。

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札幌国際芸術祭

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