結婚 藤本トシ
あたしがいた部屋は、十五畳に八人なんですけど、夜になると増えるんです。結婚しておられる方がいましょ、ですから。まえに言いましたような結婚生活ですからね。だけど、にぎやかって言えばにぎやかでしたよ。男の人同士で話をしたり、お茶のんだりして・・・。
その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
その人とは、二十九年間つれそいました。山田法水といいましたけれど。
外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
ともかく、その人を送ることができまして・・・。
この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
その九年間が・・・。
だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。
その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
その人とは、二十九年間つれそいました。山田法水といいましたけれど。
外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
ともかく、その人を送ることができまして・・・。
この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
その九年間が・・・。
だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。