正岡子規 死の床でたどり着いた「生きる意味」とは
NIKKEI The STYLE
「暗」 あの世で古白が呼んでいる
日本が欧米諸国に追いつこうとして近代化の坂道を駆け上った明治という時代。弟子たちと共に俳句や短歌などの流れを変えた正岡子規は、結核菌が骨を溶かす脊椎カリエスによって仰臥に追い込まれながらも、ざっと35年の生涯を走り抜けていった。
亡くなったのが明治35年(1902年)9月19日。そのほぼ1年前の明治34年9月2日から翌年の9月3日まで、「仰臥漫録」と題した日記2冊の中に、死に向かう人間の揺れ動く心理を書き残していた。
7月7日、日記の原本を所蔵する兵庫県芦屋市内の虚子記念文学館に足を運び、閲覧させてもらった。和紙を綴(と)じた日記には、その日の食事や便通、睡眠、病状、弟子たちが持参した土産などの生活記録のほか、自作の俳句などを墨字で書き、病床から見える庭の花などの水彩画も描き込んでいる。
一枚一枚めくっていく。目がくぎ付けになるのが明治34年10月13日付の墨で描いた図だ。原寸大の小刀と千枚通しが正確に描写され、その上に「古白曰來」の謎の墨字が書き込まれている。2本の凶器の図が目に入った瞬間、身のすくむ思いがした。「古白」とは子規のいとこで、明治28年にピストルで自死した文学者、藤野古白(ふじのこはく)。「曰來」は「いわくきたれ」と読む。つまり「あの世から古白が、おいでーな、と招いている」という意味だ。自死を暗示する図なのである。
その日、同居する妹の律は銭湯に出かけていない。病苦のため錯乱状態になり、弟子の坂本四方太(しほうだ)に「キテクレネギシ」の電報を打つために、母の八重も外出。子規はひとり子規庵(あん)で横になっている。脇にある硯(すずり)箱から小刀と千枚通しがのぞいている。
自死熱がむらむらと起こる。でも小刀と千枚通しでは死ねない。隣の部屋にある剃刀(かみそり)なら喉をかき切って死ねるが、そこまで腹ばうこともできない。小刀を手に取ろうか、取るまいか迷い、「シヤクリアゲテ泣キ出シタ」とつづる。激痛と死への不安によりどん底の煩悶(はんもん)状態に追い込まれていたのだ。
この時期の葛藤の闇は深く、この日のことを、ロンドンに留学中の親友、夏目漱石に宛てた翌月6日付の手紙にも書く。「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ」で始まり、「実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ『古白曰來』ノ四字ガ特書シテアル処ガアル」と吐露する。
「仰臥漫録」の中で、もうひとつ目を引くのは、同年9月8日付の菓子パンの絵だ。ことにアンパンはうまそうに見える。一見、食い意地の張った子規の旺盛な食欲を示す絵のように受け取られがちだ。確かに、間食に「西洋西瓜ノ上等ナリ 一度ニ十五キレホド」(明治34年9月6日付)、間食に「菓子パン十個バカリ」(同月7日付)、夕飯に「鰻(うなぎ)ノ蒲焼(かばやき)七串」(同月12日付)と病人とは思えない大食漢ぶりを示している。
だが、日記からは、食後、吐いたり、下痢をしたり、腹痛を起こしたりしていることも分かる。食後の苦しみを覚悟しながらも食べる理由は何か。脊椎カリエスによる激痛を紛らわす。もうひとつは、食べられなくなる時期が迫っているため今のうちに食べてしまおうという焦りだ。菓子パンを描く子規の内面には、2本の凶器を描くときと同じような煩悶がうずまいていたに違いない。