目が見えて耳が聞こえて冬の森 山田露結
二十八年間 志樹逸馬
二十八年間
私はここで何をしていたというのだろう
あの日 私は中学制服に鞄一つさげて
ハンセン氏病療園に入った
盲目の人 全身腫物に爛れた人
ゆがんだ鼻
一つ鍋をかこんだ軽症な友人
松林の陰での読書
耕せば
陽光と影は私によりそって揺れ
緑も萌えた
友の多くを失い
私は病み衰えた
だが 渇きに飲む水は甘く
妻は側らにあった
私は一層 前かがみになり
短くなった指で 草をむしった
畑からころがり出てくる馬鈴薯に微笑んだ
生命へのいとしさをまし
友への懐しさをつのらせた
空は一つの尾根であった
光は一つの形を生む力であった
空気は一つのことばであった
唯みずからの生活を咀嚼するしか
すべての問にこたえる途はなく
このありのままの姿こそ その応答に等しいのだ
あの日の涙をとかした風が
今も この地上に立っている私の周辺に吹いていた
二十八年間
私はここで何をしていたというのだろう
あの日 私は中学制服に鞄一つさげて
ハンセン氏病療園に入った
盲目の人 全身腫物に爛れた人
ゆがんだ鼻
一つ鍋をかこんだ軽症な友人
松林の陰での読書
耕せば
陽光と影は私によりそって揺れ
緑も萌えた
友の多くを失い
私は病み衰えた
だが 渇きに飲む水は甘く
妻は側らにあった
私は一層 前かがみになり
短くなった指で 草をむしった
畑からころがり出てくる馬鈴薯に微笑んだ
生命へのいとしさをまし
友への懐しさをつのらせた
空は一つの尾根であった
光は一つの形を生む力であった
空気は一つのことばであった
唯みずからの生活を咀嚼するしか
すべての問にこたえる途はなく
このありのままの姿こそ その応答に等しいのだ
あの日の涙をとかした風が
今も この地上に立っている私の周辺に吹いていた
癩者
志樹逸馬
誰が 俺に怪異の面を烙印したのだ
碧天の風を吸って 腐臭を吐き
黄金の実を喰って
濃汁の足跡を踏む
よろめき まろび
指を失った掌にも
土塊は砕け
何故 花は開くか
捨てられた水を呑んで生き
そそがれる光に
描くは 紫の浮腫 斑紋
己を憎み
人を恋い
闇の彼方に
天を憧れる 無性の渇き
ああ 非情の石よ
己が掌を微塵に砕け
悪魔よ ほくそえめ
除けものにされれば されるほど
自らを知る性
俺は 誰に
生きる表情を向けたらいいのだ
志樹逸馬
誰が 俺に怪異の面を烙印したのだ
碧天の風を吸って 腐臭を吐き
黄金の実を喰って
濃汁の足跡を踏む
よろめき まろび
指を失った掌にも
土塊は砕け
何故 花は開くか
捨てられた水を呑んで生き
そそがれる光に
描くは 紫の浮腫 斑紋
己を憎み
人を恋い
闇の彼方に
天を憧れる 無性の渇き
ああ 非情の石よ
己が掌を微塵に砕け
悪魔よ ほくそえめ
除けものにされれば されるほど
自らを知る性
俺は 誰に
生きる表情を向けたらいいのだ
『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2014/3/7
ⅩⅣ ソチ、ウクライナ、ティモシェンコ、マオ、ミドリ、
ソチオリンピックが終わり、これからパラリンピックが、始まる、しかし、この地は元々ロシアの地だったろうか、先住民の姿は何処に、どんなセレモニーにも現れないままに、過去の歴史はロシアの強権の中に隠されて、しかも、ホモセクシャルを一切認めないというあまりに愚かなプーチン、そんなオリンピックの地にのこのこ出かける日本の首相、中国の主席、彼らに人権の感覚は無い、政治駆け引きばかり、しかし、駆け引きと云うが、日本の首相に国際感覚はない、あのプーチンの傲慢と共に写ってしまう時、世界は笑っている、日本の首相の愚かしさを、そして、こんな首相に、災害被災者の人権など見えるはずもない、先の大戦の加害、被害の人権の在処も、有るのは駆け引きとしての靖国参拝、が、ロシアの強権もウクライナを治めきることは出来ずに、さあ大変、あの子は肝心なときにいつも転ぶ、この言葉は、ティモシェンコの事ではないのか、だが、転んだと云うよりも、転ばされた、ユーロとロシアの狭間で、転ばざるを得なかった、今また飛び出して、転ぶことを覚悟で、何度でも挑戦するしかない、彼女自体が、単純に希望とは想わないが、可能性のひとつとして、頑張って貰わないと、ロシアでもないユーロでもないアメリカでもない民主主義の始まりとして、日本がアメリカの覇権でもない中国の覇権でもない、もちろん、日本という覇権でも無い可能性として有ってくれれば、こんな時に役に立つのだよ、真っ先にウクライナに駆けつけて仲介役を勝手出れば良いのだから、武器を持たないことが武器になる駆け引きの可能性、だが、それには政治の天才が必要、天才の不毛の時に、だからこそ平和憲法という20世紀の痛みの後の希望の縛りが、世界の可能性の縛りが、ティモシェンコはともかくにウクライナを転ばさないために、元首相のいつも転ぶという視線の先にはティモシェンコは当然に見えずに、マオチャンが、しかし、競技の最前線を見るのならば、転んではやはり駄目なのだ、こんな彼女をドラマに仕立て、フリーでは見事な演技と慰める世界の視線、これこそはオリエンタリズムではないのか、世界がマオに注ぐアジアの可愛そうなやさしい可愛い少女のおとぎ話、競技なのだから、失敗は負け、それだけのこと、何もマオという皆に都合の良いドラマを仕立てることはない、競技には負けてもよい子でしたと、競技では単なるよい子では駄目だろうに、全ては強権力の抑圧の祭典に終始したオリンピックに、ノンを突きつけるのは、やはりウクライナの闘い、未だどんな闘いかは判らない、可能性として、有るばかりだが、そして、今ひとつ、思い出さずに居れない、フィギアスケートでのミドリのジャンプ、四半世紀も前に、日本の少女が、飛びまくった、そして、演技の振りをもものともせずにガッツポーズ、フィギアスケートの世界を変えた、彼女のジャンプは、成功しようが仕舞いが、まずは飛ぶこと、きっと、失敗しても、また次なるジャンプを平気で飛んだろう、狼狽えはしない、飛ぶしかないのだから、今こそ、ミドリを召還しよう、なぜか、解説者としても外されているミドリ、彼女のジャンプこそを、そして、ティモシェンコに、また飛べと、車いすから飛び立て、ロシアやユーロやアメリカのドラマに組み込まれることなく、ミドリに習って、ウクラナイよ、飛べ、
ⅩⅣ ソチ、ウクライナ、ティモシェンコ、マオ、ミドリ、
ソチオリンピックが終わり、これからパラリンピックが、始まる、しかし、この地は元々ロシアの地だったろうか、先住民の姿は何処に、どんなセレモニーにも現れないままに、過去の歴史はロシアの強権の中に隠されて、しかも、ホモセクシャルを一切認めないというあまりに愚かなプーチン、そんなオリンピックの地にのこのこ出かける日本の首相、中国の主席、彼らに人権の感覚は無い、政治駆け引きばかり、しかし、駆け引きと云うが、日本の首相に国際感覚はない、あのプーチンの傲慢と共に写ってしまう時、世界は笑っている、日本の首相の愚かしさを、そして、こんな首相に、災害被災者の人権など見えるはずもない、先の大戦の加害、被害の人権の在処も、有るのは駆け引きとしての靖国参拝、が、ロシアの強権もウクライナを治めきることは出来ずに、さあ大変、あの子は肝心なときにいつも転ぶ、この言葉は、ティモシェンコの事ではないのか、だが、転んだと云うよりも、転ばされた、ユーロとロシアの狭間で、転ばざるを得なかった、今また飛び出して、転ぶことを覚悟で、何度でも挑戦するしかない、彼女自体が、単純に希望とは想わないが、可能性のひとつとして、頑張って貰わないと、ロシアでもないユーロでもないアメリカでもない民主主義の始まりとして、日本がアメリカの覇権でもない中国の覇権でもない、もちろん、日本という覇権でも無い可能性として有ってくれれば、こんな時に役に立つのだよ、真っ先にウクライナに駆けつけて仲介役を勝手出れば良いのだから、武器を持たないことが武器になる駆け引きの可能性、だが、それには政治の天才が必要、天才の不毛の時に、だからこそ平和憲法という20世紀の痛みの後の希望の縛りが、世界の可能性の縛りが、ティモシェンコはともかくにウクライナを転ばさないために、元首相のいつも転ぶという視線の先にはティモシェンコは当然に見えずに、マオチャンが、しかし、競技の最前線を見るのならば、転んではやはり駄目なのだ、こんな彼女をドラマに仕立て、フリーでは見事な演技と慰める世界の視線、これこそはオリエンタリズムではないのか、世界がマオに注ぐアジアの可愛そうなやさしい可愛い少女のおとぎ話、競技なのだから、失敗は負け、それだけのこと、何もマオという皆に都合の良いドラマを仕立てることはない、競技には負けてもよい子でしたと、競技では単なるよい子では駄目だろうに、全ては強権力の抑圧の祭典に終始したオリンピックに、ノンを突きつけるのは、やはりウクライナの闘い、未だどんな闘いかは判らない、可能性として、有るばかりだが、そして、今ひとつ、思い出さずに居れない、フィギアスケートでのミドリのジャンプ、四半世紀も前に、日本の少女が、飛びまくった、そして、演技の振りをもものともせずにガッツポーズ、フィギアスケートの世界を変えた、彼女のジャンプは、成功しようが仕舞いが、まずは飛ぶこと、きっと、失敗しても、また次なるジャンプを平気で飛んだろう、狼狽えはしない、飛ぶしかないのだから、今こそ、ミドリを召還しよう、なぜか、解説者としても外されているミドリ、彼女のジャンプこそを、そして、ティモシェンコに、また飛べと、車いすから飛び立て、ロシアやユーロやアメリカのドラマに組み込まれることなく、ミドリに習って、ウクラナイよ、飛べ、
『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2014/3/5
ⅩⅢ 「熱波」「ミステリーズ 運命のリスボン」を見る聴く、
この二作品で、ポルトガルの近代、現代史が見事に描かれました、「運命のリスボン」の全ては主人公の始まりのベッドでの幻想とも言えるが、語られる世界の、語りの主体の主が次々に移り変わり、安心して理解できる主体が壊されているのだ、誰を信じればよい、神父か、怪しい、そもそもにおいて、彼は神父自体なのだろうか、立派に成ったやくざものとて、真か、誰かから聞き知って今の立場を生きているばかりではないのか、映画の中に繰り返される紙芝居、この映画自体もまた紙芝居、偶々に語られた世界、聴かされた世界、絶対の視点など有りはしない、「熱波」は現代史、始まりでジャングルに消えた男と後から語られる物語の関係は何も判らない、現在のリスボン、一人暮らしの主人公、ポーランドからの旅人はやってこない、隣の偏屈なおばあさん、黒人のメイドさん、おばあさんの瀕死の最中に求める男性、主人公が探す填めに、かくて語られるおばあさんの過去、ロマン、アフリカ、だが、おばあさんの求める男性の語るお話として聴かされる物語、此処でも、語る主体が、動くので、一体誰の物語なのか、誰が聴かされているのか、この転調の中に私たちは、何を見る、歴史の多様な視点、位置関係、この揺らぎが堪らなく面白い、さて、北欧映画祭では、スウェーデンの監督の二作品が上映されて、「ハムスン」、「マリア・ラーション 永遠の瞬間」、北欧の近現代史、こちらはまたオーソドックスな語り方、「ハムスン」はノーベル賞作家の主役を中心にして、ナチスドイツの占領と敗北の時代を捉える、今ひとつの映画はマリア・ラーションという女性写真家の娘の視点で近代から現代に至る時代が語られる、しかし二作品とも激しい葛藤にもかかわらず決して夫婦は別れることがない、そんな表面上何も壊れることのない狂気、不気味、映画自体も奇をてらった作りは無い、ユーロの北と南で、近現代の撮り方が大きく違う、いや、作家の資質の問題か、近現代を家族に絡めて捕らえる映画の多様性、まだまだ、見ることの愉しさが、そして、これらの映画を見ながら、もちろん日本にあって、現代史と家族を絡めて捕らえた映画が何かと、問えば、もちろんに、大島の「儀式」が、迫ってくる、映画という、この広がり、同居、それぞれの作品がそこに収まるのではなく、互いに重なり合って、交わり有って、現れ出てくる思い浮かんでくる映像の世界、そんな、収まり着かない揺らめき、蠢きの中の私、いや、私ならぬ、変容するワタシ、ワタシタチ、これが映画、
ⅩⅢ 「熱波」「ミステリーズ 運命のリスボン」を見る聴く、
この二作品で、ポルトガルの近代、現代史が見事に描かれました、「運命のリスボン」の全ては主人公の始まりのベッドでの幻想とも言えるが、語られる世界の、語りの主体の主が次々に移り変わり、安心して理解できる主体が壊されているのだ、誰を信じればよい、神父か、怪しい、そもそもにおいて、彼は神父自体なのだろうか、立派に成ったやくざものとて、真か、誰かから聞き知って今の立場を生きているばかりではないのか、映画の中に繰り返される紙芝居、この映画自体もまた紙芝居、偶々に語られた世界、聴かされた世界、絶対の視点など有りはしない、「熱波」は現代史、始まりでジャングルに消えた男と後から語られる物語の関係は何も判らない、現在のリスボン、一人暮らしの主人公、ポーランドからの旅人はやってこない、隣の偏屈なおばあさん、黒人のメイドさん、おばあさんの瀕死の最中に求める男性、主人公が探す填めに、かくて語られるおばあさんの過去、ロマン、アフリカ、だが、おばあさんの求める男性の語るお話として聴かされる物語、此処でも、語る主体が、動くので、一体誰の物語なのか、誰が聴かされているのか、この転調の中に私たちは、何を見る、歴史の多様な視点、位置関係、この揺らぎが堪らなく面白い、さて、北欧映画祭では、スウェーデンの監督の二作品が上映されて、「ハムスン」、「マリア・ラーション 永遠の瞬間」、北欧の近現代史、こちらはまたオーソドックスな語り方、「ハムスン」はノーベル賞作家の主役を中心にして、ナチスドイツの占領と敗北の時代を捉える、今ひとつの映画はマリア・ラーションという女性写真家の娘の視点で近代から現代に至る時代が語られる、しかし二作品とも激しい葛藤にもかかわらず決して夫婦は別れることがない、そんな表面上何も壊れることのない狂気、不気味、映画自体も奇をてらった作りは無い、ユーロの北と南で、近現代の撮り方が大きく違う、いや、作家の資質の問題か、近現代を家族に絡めて捕らえる映画の多様性、まだまだ、見ることの愉しさが、そして、これらの映画を見ながら、もちろん日本にあって、現代史と家族を絡めて捕らえた映画が何かと、問えば、もちろんに、大島の「儀式」が、迫ってくる、映画という、この広がり、同居、それぞれの作品がそこに収まるのではなく、互いに重なり合って、交わり有って、現れ出てくる思い浮かんでくる映像の世界、そんな、収まり着かない揺らめき、蠢きの中の私、いや、私ならぬ、変容するワタシ、ワタシタチ、これが映画、
アラン・レネ監督死去=「去年マリエンバートで」-仏
【パリ時事】1950年代末にフランスで始まった新たな映画運動「ヌーベルバーグ」の旗手の一人とされる映画監督、アラン・レネ氏が1日夜、パリ市内で死去した。91歳だった。関係者がAFP通信に明らかにした。
22年、仏西部ブルターニュ地方のバンヌ生まれ。13歳で短編映画を撮り、黒澤明監督の「羅生門」に影響を受けた61年の「去年マリエンバートで」でベネチア映画祭の金獅子賞を受賞した。今年2月のベルリン映画祭でも、近作の「ライフ・オブ・ライリー」に賞が贈られた。
ナチス・ドイツによる大虐殺の舞台となったアウシュビッツ強制収容所を題材にした55年の「夜と霧」や、広島を訪れたフランス人女優と日本人男性の情事を描いた59年の「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」などでも知られる。(2014/03/02-23:06時事)
【パリ時事】1950年代末にフランスで始まった新たな映画運動「ヌーベルバーグ」の旗手の一人とされる映画監督、アラン・レネ氏が1日夜、パリ市内で死去した。91歳だった。関係者がAFP通信に明らかにした。
22年、仏西部ブルターニュ地方のバンヌ生まれ。13歳で短編映画を撮り、黒澤明監督の「羅生門」に影響を受けた61年の「去年マリエンバートで」でベネチア映画祭の金獅子賞を受賞した。今年2月のベルリン映画祭でも、近作の「ライフ・オブ・ライリー」に賞が贈られた。
ナチス・ドイツによる大虐殺の舞台となったアウシュビッツ強制収容所を題材にした55年の「夜と霧」や、広島を訪れたフランス人女優と日本人男性の情事を描いた59年の「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」などでも知られる。(2014/03/02-23:06時事)
さくら まどみちお
さくらの つぼみが
ふくらんできた
と おもっているうちに
もう まんかいに なっている
きれいだなあ
きれいだなあ
と おもっているうちに
もう ちりつくしてしまう
まいねんの ことだけれど
また おもう
いちどでも いい
ほめてあげられたらなあ…と
さくらの ことばで
さくらに そのまんかいを…
さくらの つぼみが
ふくらんできた
と おもっているうちに
もう まんかいに なっている
きれいだなあ
きれいだなあ
と おもっているうちに
もう ちりつくしてしまう
まいねんの ことだけれど
また おもう
いちどでも いい
ほめてあげられたらなあ…と
さくらの ことばで
さくらに そのまんかいを…
札幌国際芸術祭
札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。
http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf