おっぱいの匂いがするよ春の椅子 朝倉晴美
【相模原 障害者殺傷事件判決】脳性まひの障害がある東京大学の熊谷晋一郎准教授「生きる価値のある命と価値のない命に線を引くのが被告の犯行の動機だったことに怒りを覚えてきたが、死刑判決はその被告の命に線を引くもので、私にとっては複雑で、葛藤を伴う判決だ」
森達也監督「…植松被告は独善的に『この命は生きるに値しない』と命を奪ったことで死刑となるが、司法もまた植松被告に生きるに値しないと言っているそのことの意味もまた私たちは考えなくてはいけない。…」
毎日新聞 3月13日 14面
寄稿 「源氏物語」を訳し終えて(一部抜粋)
作家、角田光代さんによる現代語訳『源氏物語』全3巻が完結し、「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」(河出書房新社)全30巻の最後を飾った。角田さんに寄稿してもらった。
あの時、あの場所にいかなければあの人に会わなかった。できごとというのは、大きなものも、小さなものも、そんなふうにして起こる。
私たちが動くからできごとが起き、そのできごとが私たちを巻き込んでいく。
それは千年前も今もまったく変わらない。
あのとき、風さえ吹かなければ。
あのとき、メールさえ送っていれば。
あのとき、帰る人を引き留めなければ。
あの時、一本前のバスに乗っていれば。
あの人に恋をしなければ。
あるいは、あの人に恋をしていれば。
ひとつひとつのできごとは連鎖して、新たな展開を生み続けていく。生まれる新たな局面は、望ましく、晴れがましいときもあれば、残酷なほど不幸なときもある。何かをした、あるいはしなかっただれかの運命が変わるだけではなくて、周囲の人たちも巻き込まれ、運命は波紋のように変化し続ける。
この「あのとき」だって、起きているさなかはだれも気づかないのだ。何かが起きて、変わってしまってはじめて、ああ、「あのとき」だったと思う。
でももう「あのとき」には戻れない。因果だとか、宿世だと納得するしかない。
若く自信に満ちた光君は、そんな偶然も必然に変える力も持っていた。
彼こそが運命の繰り手のようだった。
けれどそんな光君も加齢し、運命を手繰る力も弱くなり、やがて、光が消えるようにいなくなる。残るのは制御できない偶然ばかり。
光なき下界で生きる人間たちは、偶然にも自身の感情にも翻弄される。
何もかもが手に入る人生と、何ひとつ思いどおりにならない人生は対極であり、前者を幸福、後者を不幸と私たちは分類するけれど、この長い物語と大勢の人たちの生を駆け抜けてみると、そんな分類に意味はないと思ってしまう。
背負わされた運命を、連鎖するできごとに翻弄されながら人は生きるしかない。因果も宿世も信じない千年後の私たちも、それは同様だ。
動き続ける物語から振り落とされないよう、必死でついていくと、ふっと、本当にふっと物語は終わる。このラストにぽーんと放り投げられたような気持ちになったのだが、今も私は着地点を見つけられずに中空を彷徨っている気がする。
(かくた・みつよ)