雪おんな出刃山刀を隠したり 吉岡実
『父ありき』は国策映画か 関川宗英
『父ありき』 小津安二郎 1942年 松竹
<スタッフ&キャスト>
監督:小津安二郎
脚本:池田忠雄/柳井隆雄/小津安二郎
撮影:厚田雄治
美術監督:浜田辰雄
衣裳:斎藤耐三
編集:浜村義康
音楽:彩木暁一
演奏:松竹交響楽団
音響効果:斎藤六三郎
出演:笠智衆/佐野周二
津田晴彦/佐分利信
坂本武
息子を大切に育て上げ、誠実に生きた男の人生が描かれている。
主人公の堀川(笠智衆)は、金沢で中学校の教師をしていたが、箱根の修学旅行で生徒を事故で亡くしてしまう。私の注意が足りなかった、とその責任を取って、教師を辞める。
生まれ故郷である信州へもどり、息子の良平と共に上田市近くの村で暮らし始める。寺の一室に間借りしながら、新しい仕事場の村役場に通う父親。やがて、良平は中学の試験に合格。村から中学校は遠いため、良平は村を離れて上田市の寄宿舎へ。父子の離ればなれの生活が始まる。
堀川は良平にさらに上の学校に行かせ、しっかり勉強させてやりたいと、村役場を辞め、東京へ出ることを決める。村役場での収入では良平を大学にやる学費が足りないからだ。
しかし父親の東京行きを、良平は悲しく思う。
村役場に勤めていた父親は、週末に寄宿舎の良平に会いに来てくれた。
しかし東京と上田では、会うこともままならないことになる。
父親の前で、涙が止まらず、鼻をすする良平。
「お父さんだってまだ若いんだ、しっかりやるぞ、おまえも負けるな」などと、堀川は朴訥と息子の良平に言葉をかける。
人生の重みを感じさせるような、カッコイイことを言うわけではない。
しかし、息子を大切に思う、父親の愛情が伝わってくる。
そしてたった一人の家族である父親と、離ればなれに暮すことが寂しくてならない良平。小さい子供のように下を向いたまま、鼻をすすりつづける。
そんな良平の前で、風呂敷包みを広げる堀川。
「当分会えんかもしれんから持ってきたが、これがシャツ…、猿股…、チリ紙…」
カメラは良平の背中越しに堀川をとらえており、良平の顔は見えない。
良平の声も聞こえない。
父の言葉に、何度かうなづいているのが見える。
そして堀川は、良平に小遣いを渡す。
小遣いを懐に入れる良平。
サプライズのプレゼントが良平に渡されるわけではない。
ドラマチックな演出が二人の別れを飾ることもない。
何でもない父親と息子のやり取りだが、二人の愛情の深さを感じさせるシーンだ。
その後良平は東北の帝大に進んだ。大学卒業後は秋田で教師となる。
東京で仕事を続けていた堀川とは、たまにしか会えない生活が続く。
良平は25歳になった。
温泉旅館で、久しぶりに父親と時間を過ごす。
温泉に入った後、部屋でビールを飲む二人。
「教師を辞めて上京し、一緒に暮らしたい」と良平は言い出す。
父の堀川は、分をわきまえろ、「今の仕事を天職だと思ってずっと続けるように」と諭す。
良平は黙って頷く。
この場面を、小津安二郎が、戦争遂行という国策に追随した象徴的なシーンだと批評する声もあるようだ。
滅私奉公。当時の若者たちはみな、お国のために身を挺し、自分の個人的な都合などは後回しにしていた時代である。父親と同居したいという願望から職を擲つなどもってのほか、女々しい態度である。分をわきまえて、自分に与えられた職を全うすること、それが皇民としてお国に尽くすことになる。
このように小津映画を、戦争礼賛、プロパガンダ映画として批判するのだろう。
『父ありき』は1942年4月に発表された。太平洋戦争突入直後、東南アジアにも皇軍は進出する。西欧諸国の植民地支配を打破して、大東亜共栄圏をつくりあげるために、鬼畜米英、太平洋戦争勝利、まさに戦時下の興奮に湧きたっていた時期である。
戦時下の日本では、映画に限らず、美術、文学、音楽など多くの芸術家や文化人が積極的な戦争協力を行った。
1939年、内務省の指示で映画法が成立している。
映画を製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、映画が国家に完全に統制されることになった。
1940年に、小津は『お茶漬けの味』の脚本を書きあげるが、内務省の事前検閲で却下、製作中止になったという。
検閲のいいがかりのひとつが、お茶漬けを食べるシーンだった。出征兵士は赤飯を炊いて祝うものだ、それをお茶漬けですますとは何事だ、ということだったらしい。
1941年に小津は、『戸田家の兄妹』を発表。
続く1942年に、『父ありき』を発表。
両作品とも、事前検閲に引っかからないよう作られたものだろう。
しかしそんな状況でありながら、『父ありき』は、戦争の影は薄い。
太平洋戦争開戦直後の高揚など、全くと言っていいほど感じられない、というのが率直な私の感想だ。
温泉旅館で父親が息子に、分をわきまえろと諭す場面も、取り立てて国策映画と騒ぎ立てるようなシーンとは思えない。
温泉旅館で久しぶりの時間を過ごした親子だが、まもなくまた再会する。
兵役検査のために上京した良平が、父親の家で一週間ほど過ごす場面だ。
父親に兵役検査合格を報告した良平だが、父は突然倒れ、死んでしまう。
そして、父の遺骨とともに、教師として働いている秋田に戻る、『父ありき』の最後のシーンを迎える。
嫁に迎えた父の友人の娘と二人で、汽車に揺られている。
「お義父さんにも秋田のほうに来ていただこう」
「僕は子供の時から、いつも親父と一緒になることを楽しみにしていたんだ」
「それがとうとう一緒になれず、親父に死なれてしまった」
「でも良かったよ、たった一週間でも一緒に暮らせて」
「いい親父だった」
と良平は言う。
黙ってうなづき、泣き出す新妻。
新妻の泣き声、列車の音、車窓の外を見る良平。
二人を秋田に運ぶ列車のショットで映画は終わる。
息子には徴兵が待っている。
この先二人が、無事に新婚の家庭を築いていけるのかわからない。
しかし、そんな時代の不安を描いて映画が終わるわけではない。
さりとて、勇ましい軍靴の音で、時代の高揚に主人公たちを結びつけることもない。
映画のラストでも、1942年の時代状況の緊張、国策映画のニオイは感じられない。
そんな『父ありき』だが、戦後、GHQの検閲を受け、次のような削除を強いられたそうだ。
・列車が遠ざかっていくラストシーンに流れる「海ゆかば」
・主役の笠智衆が同窓会で歌う詩吟「正気の歌」(「死しては忠義の鬼となり、極天皇基を護らん」という詩)
・「滅私奉公」「武運長久」といった言葉
今Amazonプライムで観ることができる『父ありき』は、このGHQ検閲版なのだろうか。
息子の良平が父親に兵役検査合格の報告をする場面、不自然に父堀川の言葉が途切れてしまっている。
『父ありき』はGHQにとって、カットを要求するような危険な要素を孕んだ映画だったかもしれないが、今観れば、皇国日本の国威発揚を描いたものとはとてもいえない映画だ。
戦時下、さまざまな圧力を受けながら、たくさんの人たちのつながりの中で、小津は映画を作った。
小津の中には、映画人としての、作品作りに対する矜持もあっただろう。
一方、国際的な情勢下、当時の日本が置かれていた時代の流れ、国情を無視することはできなかっただろう。
そんな中で、露骨な国策映画にするわけでもなく、かといって、ポピュリズム的な、安易なヒューマニズムに結びつける映画にもしなかった。
戦時下の日本、全体主義的な興奮の中で、市井の人々の気持ちを小津は考えていたように思う。
ヒトラーという一人の人間が生まれたから、ファシズムが誕生したのではない。
時代が、ヒトラーを必要としたのだ。
全体主義的な時代のうねりに心酔する人々がいれば、その一方で時代に翻弄される人々がいる。
小津の映画は、そのどちら側を描くということではなく、その時代の市井の人々を表現しようとしたものだろう。
小津は、家族を描いてきた。
それは、戦時下であれ、戦後高度経済成長下であれ、その時代の流れの中で生きる人々を表現するということなのだろう。
小津の人間を見つめる目。
小津の映画を観る者がしみじみとした感興に襲われるのは、時代の流れやさまざまな悲しみを見てきたその深い眼差しにある。
ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅤ「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」を見る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2021/1/6
部屋の中、カメラは遊泳する,そして,ベッドの主人公の頭を頭の真上から捕らえる,ベッドに仰向けで横たわっている主人公、女はシャワーを浴びて,下着姿で現れて,娼婦の娘、何処か,収まりの悪い二人、タイトル、語り、夢、幻想、危ういままに、何が真実なのだろうか、何処に,実際があるのだろうか,総べては曖昧に,夢とも現実とも、男、女、私、何処の何時の私、娼婦の見た緑色の本、勝手に手を出すなと主人公、白猫と言う友人の死、父親の死、死に捕らわれて,在る、両親の残した店、母の名の店、姉だろうか,主人公にはトラック、自分は店を手にして,これで解決と、直ぐに店を改装する,看板も外す,主人公は看板は残したい,母の名なのだから、しかし,この死は,何時の事なのだろうか,壁の時計、止まっている時計、父の遺影を飾り,時計の裏を明けると,電池が入っていない、写真が一枚、誰の写真だろうか,裏には何かが書かれている,懐に入れる主人公、友人の死、りんごを運ぶ約束、怠って,腐らせて,そのりんごの中から銃が、白猫の狙いは、トンネルの中の死体、殺された、こうして探偵の如く、調査の始まりだ、時計の写真を調べて,監獄に、父の世代もまた,犯罪の最中に、いろんな事をしたと監獄の女、だが,写真の人は知らないと、いや、そう答えるしかないのでは、父達の世代の,恋、裏切り、絶望、叫び、聞こえないか、写真と文字の中に,監獄の女の顔に,見いだせないか、友人の死、関わりのある女、美貌の女、緑の衣装、余りに美しい女、何を知って居る,だが,主人公は既に,この娘に恋してしまっている、追い掛け,追い詰め,もはや,離せない,事件を追い掛けているのか,娘を追い掛けているのか,判らない,己とはだから,そもそもに於いて何、写真の人の関わりの男、犬を連れた男、役人か,やくざ者か、何が在ったのだろうか,子供の声、誰の子供だ、写真の女、父、恋敵の男、判らない、そしてまた,緑の娘もまた妊娠して居るのだと、何時の事だ、誰の子だ、探偵ごっこの最中、ボスに捕らえられる主人公、両手を挙げて縛られて,カラオケに興じるボス、見守る子分たち、緑の娘もまた,詰られている、雨の街、パンするカメラは,部屋の中の水面を捕らえる,水中だろうか,そして、ガラス、奥行きを曇らす,乱反射のガラス、見通すガラス、水もまた,写し出すとも、水底に消失するのだとも、見る事の多様な叛乱、写真の女には辿り着けない、いや、誰も真実を語っていない、総べては夢の中、ならば,主人公は幻を彷徨っているばかりなのか、答えなど,ないのだ、緑の娘との恋、だが,芝居かも知れない,恋ごっこ、キス、招かれた,迷宮、抜けるのには,部屋が回転、現実が展開、動かすのは,何だ,誰だ、知らず,動かされている,蠢かされている、自由など無い,不自由の現実、夢こそが,言葉こそが,縛られて,演じられて、存在が,表情が,想いが,恋が,既に,縛られている、父達の世代の,犯罪も,白猫と主人公の私の仕業も、そして、妊娠、子供、迷宮の中に,反復されて,在るばかり、現れる子供たちも,黒子として、見事に,演じているのだ、かくて,途切れることのない,迷宮に、歌と踊りの巡業団、トラックを走らせて,娘たち、音楽、歌、誘う娘、始まるまで時間があるから,映画でもと、古びた映画館に、見詰める主人公、タイトル、目覚めた後、一人、トンネルの中、白猫が死して運ばれた,トロッコの場に,入り込む,既に,填まり込んで,彷徨って,廃墟の中、だれも居ない,ライトを付けて,探る,出口を,扉から現れる角を匍わせた牛の面の少年、互いにびっくり、滑稽、そして,卓球試合、勝ったら出口を教えると,傲慢な少年だが,卓球はどうやら下手で,直ぐに負けて,出口まで連れて行くと,上着を着せる,バイクに乗るからと、バイクを走らせる少年、後ろには主人公を乗せたままに,行き止まりと,ここからは,ケーブルが、方向が違うと主人公、ならば,己で決めろと少年、滑車に乗るしかない主人公、こうして,村の高見から,遊泳するのだ,崖下の村、灯り、やって来た村、何故に戻ったと娘、だが,この娘は緑の娘だろうか、着替えて,全く違った娘だろうか,何も判らない、誰とも判らない、共に彷徨う二人、舞台、巡業団、カラオケ、歌、音楽、見詰める客、村人、遊びの子供たち、出店の人々、小さな村祭り、惹かれるままに娘のあとを追う,舞台の前に一人の女が,娘と同じ髪型の女、松明を灯して,練り歩く、皆は離れて,逃れて,この女の後を追い掛ける主人公、惹かれた娘のことは、どうした、女を追う,階段下、鍵の掛かった門扉の向こうのトラック、男がいる,若く無い男が,父では無いか,ならば,松明の女は,写真の女、明けろと女、主人公は銃を構えて,男を脅し,明けさせる,女の希望を聴いて、車のキーを男に出させて,主人公に怯える二人、トラックを走らせる,この迷宮の前には,ボスを背中から銃で狙うシーンが,カメラは縦に回転して、父の世代に関わり,己の友人に関わり、主人公はまた舞台に戻ってくる,女は何処だと,楽屋だと,楽屋を訪れる,紅付けて,美しい娘、出番を待つ娘、煙草、松明の女から,貰った、奪った、時計をプレゼントする主人公、時計は永遠だから不吉だと,娘は線香花火を、儚いから、不吉だと主人公、火をつけ,火花が散る,娘は,屋敷を見るかと,焼けた屋敷、松明の女、全てを焼き放つ女、何時の事だろうか,悲しみのりんご囓りも、若い主人公か,父親か,友人か、焼かれたのは,父、友人、母、己自身、主人公もまた,死した存在では無かったか、キスし抱き合う二人、回転する二人、実った恋、抱擁、巡る二人、カメラは,この回転を捉え,部屋の隙を見て外に,降りてきた階段を上がる、戻ってきた,辿りついた楽屋、だれも居ない楽屋、だが,先ほど付けた花火が未だに火花を散らしている,儚いか,永遠か、恋が、幻故に,実った、火花に,何を見る、可能性、絶望、生きるとは、何処までも続く,空回りの中に、それでも,求めて止まない、蠢く巡り、何処までも,何時までも、