YOMIURI ONLINEに連載されている『内館牧子の仙台だより』は、内館さんが体調を崩された事もあってか、ずっと連載がお休みだったのですが、久しぶりに覗いて見たら6月11日にいっきに六話も更新されていて嬉しくなりました。で、そのお話の中の一つが、私の実家近辺の地名の話でびっくり!
★「YOMIURI ONLINE / 内館牧子の仙台だより 林子平の名 町名に」(2014年06月11日)
( http://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO004106/20140611-OYTAT50030.html )より引用
かつて、仙台市の子平町に叔母が住んでおり、私はよく行っていた。
ある時、もう20年も昔だと思うが、ふと気づいて叔母に聞いた。
「ここ、以前は半子町って言わなかったっけ?」
すると、言われた。
「表示変更で、だいぶ前から子平町。この名前を希望する人が多かったという話よ」
その時は、新しい町名が林子平から来ているとは、なぜか思いもしなかった。
(以下もっとお話は続きます。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(叔母様のお名前が知りたーい!)
えーと、正直に言うと、ただの一方通行の車が一台しか通れないようなふっるい道にです。京都とかの趣のある古いお家が並ぶとか、竹林が~とかではいっさいありません。築80年弱のぼろい家と新しい家が混在していて、そこに学生向きのアパートがあったりする、寂れた田舎町の道をご想像下さい。
ネットで調べたら、「半子町(はんこまち)」から「子平町(しへいまち)」へと町名が変更されたのが、偶然にも私の生まれた年でした(汗)どうりで、祖父母や近隣の親戚との話では、呼び名が入り混じっているはずです。でも祖父母の代だと、更に古い「伊勢堂下(いせどうした)」というのが、うちあたりの呼び名でした。
たぶん、お伊勢様のお堂があったんだよね?でもどこにあるのかな?と、さっぱり覚えが無い私。さっそく電話して実家の母に訊ねたら、
「あら、何言ってんの!福祉大の横に、階段あったっぺっちゃ。上まで登っとお堂があるんだべした。あんたも一緒に行った事あったっぺ?」
(・・・それ40年強前の幼稚園の頃の話ですよね?(汗)覚えてないに決まってるじゃないですか。)
と言われて、どうやらお伊勢様へお参りする巡礼の道だったようです。私の祖父が子どもの頃は、貝ケ森あたりからうえの中山は「薪を取りに行く山」だったそうですから、広瀬川の河岸段丘の中腹あたりの林に囲まれた寺やお堂が点在して、それに続く道なりに家々が並ぶ、そんな風景だったんでしょうね。
今の小学生はどうかはわかりませんが、私が小学校高学年の頃は、社会の時間に江戸後期の歴史を勉強するあたりで、林 子平と「開国兵談」の話を習いました。いまでも覚えているんですが、”お殿様に「世界の海は繋がっている」と正しい事を伝えないのは不義だと考えて訴えたら、そんな訳は無いと取り合って貰えずに処罰されてしまった”と先生が話したのを聞いて、子どもながらに、罰されるとわかっていても、ばか正直に本当の事を言っちゃうのが仙台人だな、という認識ができあがりました(苦笑)なんかこう仙台人って、損はしても嘘はつけないというか、儲けられないし、勝者にはならないんですよねぇ。
だからこそ、声に出しては言わなくとも、林 子平の生き様を誇りに思っている地元民は、いまでもたくさん居ると思います。
★「YOMIURI ONLINE / 内館牧子の仙台だより 林子平の名 町名に」(2014年06月11日)
( http://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO004106/20140611-OYTAT50030.html )より引用
かつて、仙台市の子平町に叔母が住んでおり、私はよく行っていた。
ある時、もう20年も昔だと思うが、ふと気づいて叔母に聞いた。
「ここ、以前は半子町って言わなかったっけ?」
すると、言われた。
「表示変更で、だいぶ前から子平町。この名前を希望する人が多かったという話よ」
その時は、新しい町名が林子平から来ているとは、なぜか思いもしなかった。
(以下もっとお話は続きます。)
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(叔母様のお名前が知りたーい!)
えーと、正直に言うと、ただの一方通行の車が一台しか通れないようなふっるい道にです。京都とかの趣のある古いお家が並ぶとか、竹林が~とかではいっさいありません。築80年弱のぼろい家と新しい家が混在していて、そこに学生向きのアパートがあったりする、寂れた田舎町の道をご想像下さい。
ネットで調べたら、「半子町(はんこまち)」から「子平町(しへいまち)」へと町名が変更されたのが、偶然にも私の生まれた年でした(汗)どうりで、祖父母や近隣の親戚との話では、呼び名が入り混じっているはずです。でも祖父母の代だと、更に古い「伊勢堂下(いせどうした)」というのが、うちあたりの呼び名でした。
たぶん、お伊勢様のお堂があったんだよね?でもどこにあるのかな?と、さっぱり覚えが無い私。さっそく電話して実家の母に訊ねたら、
「あら、何言ってんの!福祉大の横に、階段あったっぺっちゃ。上まで登っとお堂があるんだべした。あんたも一緒に行った事あったっぺ?」
(・・・それ40年強前の幼稚園の頃の話ですよね?(汗)覚えてないに決まってるじゃないですか。)
と言われて、どうやらお伊勢様へお参りする巡礼の道だったようです。私の祖父が子どもの頃は、貝ケ森あたりからうえの中山は「薪を取りに行く山」だったそうですから、広瀬川の河岸段丘の中腹あたりの林に囲まれた寺やお堂が点在して、それに続く道なりに家々が並ぶ、そんな風景だったんでしょうね。
今の小学生はどうかはわかりませんが、私が小学校高学年の頃は、社会の時間に江戸後期の歴史を勉強するあたりで、林 子平と「開国兵談」の話を習いました。いまでも覚えているんですが、”お殿様に「世界の海は繋がっている」と正しい事を伝えないのは不義だと考えて訴えたら、そんな訳は無いと取り合って貰えずに処罰されてしまった”と先生が話したのを聞いて、子どもながらに、罰されるとわかっていても、ばか正直に本当の事を言っちゃうのが仙台人だな、という認識ができあがりました(苦笑)なんかこう仙台人って、損はしても嘘はつけないというか、儲けられないし、勝者にはならないんですよねぇ。
だからこそ、声に出しては言わなくとも、林 子平の生き様を誇りに思っている地元民は、いまでもたくさん居ると思います。