全国の本の虫さんとしては、まず「なんでやねん!」と突っ込みたいお気持ちになるとは思いますが、以下をご一読下さい。
★本を読むのが好きな人は他人に対する共感力が高い(フィクションの場合)?- MSN トピックスより引用
いわゆる「本の虫」と呼ばれるような本好きの人たちは、ちょっと内向的で変わった人といった印象でとらえられることもあります。これは、おそらく映画やテレビがそのように描いてきた影響でしょう。しかし興味深いことに、最近の研究(PDF)には、フィクションを読むことで社会的な能力が磨かれると書かれています。これはなぜなのでしょうか?
内向性に関する専門家のSusan Cain氏が、その理由を説明しています。
「これは直接的な原因というよりも、相対的な原因だと思われます。おそらく、フィクションが好きな人というのは、まず対象へ感情移入しやすいのです。フィクションには、他人の心や体にダイレクトに没入するような、共感神経を刺激するもののがあるのではないかと思います。」
フィクション好きの人たちは、恥ずかしがり屋で社会的なコミュニケーションが苦手そうな印象がある一方で、見ず知らずの他人に共感できる能力が磨かれているとも言えそうです。
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私事ですが、3月の震災以来、どうにも「本を読む」ことが出来なくなっています。まぁ、単に図書館から本を借りれないからじゃん(呆)とお思いの常連さんもおいでだとは思いますが・・・それもあるんですが、どうにも、こう、手がでないんですね。で、上の文章を読んでいて、
>フィクションには、他人の心や体にダイレクトに没入するような、共感神経を刺激するもののがあるのではないかと思います。
という部分に、あぁ、もしかしてそうかもと思い当たりました。例えばいま、「魔法で街を壊滅させる」とか「軍の一斉射撃で市民が命を落とす」とかいう文章描写を、受け入れる余裕が心に無いんです。「何を見ても何かを思い出す」というのは有名なタイトルですが、そんな感じで「何を読んでも何かを思い出す」のです。
新聞で「辛い避難所生活を、読書で紛らわせている」という記事を読んで、そういう人もおられるだろうなと思いつつ、私はどうも不器用で、うまく切り替えができないようです。
多感な十代の頃、『風と共に去りぬ』上・下巻を徹夜で読破して、圧巻の世界感とキゃラクターに、飲み込まれたようになった事もありましたし(お日様を見るとめまいがして、徹夜ってこんなにしんどいんだと知った、初めての体験です・笑)京極夏彦さんの『うぶめの夏』を、長男に授乳したりと一度に数ページしか読めないのを、何日もかけて読破して、あの世界感に読書する喜びを噛み締めた事もありました。
そういう体験をいっぱいしてきたので、逆に震災を体験して、それと重ね合わせちゃって本を読めない自分は、それだけ本に飲めり込めてたんだから、当たり前なんだなぁと思うようになってきました。
震災から、まだ三ヶ月です。
★本を読むのが好きな人は他人に対する共感力が高い(フィクションの場合)?- MSN トピックスより引用
いわゆる「本の虫」と呼ばれるような本好きの人たちは、ちょっと内向的で変わった人といった印象でとらえられることもあります。これは、おそらく映画やテレビがそのように描いてきた影響でしょう。しかし興味深いことに、最近の研究(PDF)には、フィクションを読むことで社会的な能力が磨かれると書かれています。これはなぜなのでしょうか?
内向性に関する専門家のSusan Cain氏が、その理由を説明しています。
「これは直接的な原因というよりも、相対的な原因だと思われます。おそらく、フィクションが好きな人というのは、まず対象へ感情移入しやすいのです。フィクションには、他人の心や体にダイレクトに没入するような、共感神経を刺激するもののがあるのではないかと思います。」
フィクション好きの人たちは、恥ずかしがり屋で社会的なコミュニケーションが苦手そうな印象がある一方で、見ず知らずの他人に共感できる能力が磨かれているとも言えそうです。
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私事ですが、3月の震災以来、どうにも「本を読む」ことが出来なくなっています。まぁ、単に図書館から本を借りれないからじゃん(呆)とお思いの常連さんもおいでだとは思いますが・・・それもあるんですが、どうにも、こう、手がでないんですね。で、上の文章を読んでいて、
>フィクションには、他人の心や体にダイレクトに没入するような、共感神経を刺激するもののがあるのではないかと思います。
という部分に、あぁ、もしかしてそうかもと思い当たりました。例えばいま、「魔法で街を壊滅させる」とか「軍の一斉射撃で市民が命を落とす」とかいう文章描写を、受け入れる余裕が心に無いんです。「何を見ても何かを思い出す」というのは有名なタイトルですが、そんな感じで「何を読んでも何かを思い出す」のです。
新聞で「辛い避難所生活を、読書で紛らわせている」という記事を読んで、そういう人もおられるだろうなと思いつつ、私はどうも不器用で、うまく切り替えができないようです。
多感な十代の頃、『風と共に去りぬ』上・下巻を徹夜で読破して、圧巻の世界感とキゃラクターに、飲み込まれたようになった事もありましたし(お日様を見るとめまいがして、徹夜ってこんなにしんどいんだと知った、初めての体験です・笑)京極夏彦さんの『うぶめの夏』を、長男に授乳したりと一度に数ページしか読めないのを、何日もかけて読破して、あの世界感に読書する喜びを噛み締めた事もありました。
そういう体験をいっぱいしてきたので、逆に震災を体験して、それと重ね合わせちゃって本を読めない自分は、それだけ本に飲めり込めてたんだから、当たり前なんだなぁと思うようになってきました。
震災から、まだ三ヶ月です。
学年は一緒でしたが、学校が一緒になったことはありませんでしたが、彼が最近の雑誌のインタビューに「埴谷雄高著死霊」を読破しようとした。というのがありました。
この難解な小説を読もうと必死になっておりましたが、途中あたまがおかしくなりそうな位、言葉に悩みました。
僕は、てっきり彼は「読破!」したものと思っておりましたので(と友人からは聞いてましたので)「やはり奴は天才だった!」と思っておりました。ニ十数年経って「なんだ、彼を持ってしても難解だった」とひと安心?(どういう意味なんだぁぁ・・)した酔漢です。
各地の避難所へ本を贈ろうという運動を東京ではじめてます。
やみくもに送るのではなくて、避難所の必要なものをチョイスできるような体制をつくろうと準備してます。
『死霊』は無理です(爆)いや、凄い作品だとは知ってますけど、相当な情熱か理由が無いと、読破は無理ですよ~。
>各地の避難所へ本を贈ろうという運動を東京ではじめてます。
ありがたいです。
何が良いのか考えてみたんですが、流通が随分と回復してきたので、新刊は手にする事ができるようになりましたが、積み重ねたシリーズなどが、どの家でも無くなってしまったので、ちょっと前の作品が喜ばれると思います。ただ、古い観光案内雑誌(るるぶとか)は、その美しい風景がまったく無くなってしまった今と比べて切なくなるので、止められた方が良いかと思います。でも、懐かしく見る人もおられるのかなぁ・・・。
だんな が亡くなってから、私は美術館・博物館の類が行けなくなりました。
一緒に行っていた時だって鑑賞のタイミングが違うので、中ではばらばらになって、出口で落ち合うスタイルだったのにもかかわらず。
後でお昼ご飯を食べながら(いつも午前中に行ってました)あれこれ言い合うのが楽しかったのかも。
それに良く行っていた博物館の建物を見ただけで だんな のことを思い出してしまうだろうし。
前から一人で行っていた映画は今も行けるんですよ。
>現実がフィクションを超えると作り物なんて何って感じです。
結局、人間の創造力の中で起きる事は、現実にも起きて、現実は人間の想像力をふっとばすくらい容赦ないってことですね。
失った存在があまりにも心の内で大きいと、どこか作動不良になるのは、正常な反応だと思うようになりました。不思議な心の働きを、こんな形で体験したいとは思いませんでしたが、人間って、心と身体のふたつで出来ているんだなと、あらためて思います。