思い切り好きな勉強をできる環境にあるということは、なんて幸せなことなのだろう。
(竹田喜義 1942年東京帝国大学文学部国文学科入学 1943年海兵団に入団 1945年4月14日朝鮮の済州島沖にて沈没戦死 22歳)
昭和十九年八月九日
一週間程前に家を経由して、大学から卒業証書授与願という書類が送られてきた。……自分は万一戦線から帰る日があったら、今のままで学問を打ち切って社会に出るなどという気持は全然なかった。まだ、四年でも五年でも大学に残って自分の気持が承知するまで勉強を続けたいつもりだった。
……その書類をひらいて、「まだ、自分はこのままあっさり大学を出てしまう気持にはなれません。この書付をどうしたらよろしいでしょうか」と聞いた。中将はそれにたいして、ほとんど即座に答えられた。「そんな考えはやめろ、やめろ。この戦争に、大学でもあるまい。……あんな大学に、あんな学問に何の価値があるといえるんだ。今はそんなことへの係累を一刻も早く脱して、自己の本当の本分に目覚めなければならない時なのだ。せっかく出してくれるというんだから、早く出ちまえ、出ちまえ。」もうそれ以上何もつけ加える必要もない気がして、自分は黙って引き下がってしまった。室へ帰ると早速、文学部長宛の願書一通を書き上げて、机の上へほうり出し、煙草を吸いに出た。糸園中将の返答があまりにあっさりと簡明なだけに、それだけに、自分の心には割り切れない、わだかまりあるものが一杯につまっていた。……
八月十五日
日々の生活がともすれば沈滞気味である。希望がないのである。将来に明るさがないのである。……毎日多くの先輩が、戦友が、塵芥のごとく海上にばら撒かれて、―――そのまま姿を消してゆく。一つ一つの何ものにもかえ難い命が、ただ一塊の数量となって処理されてゆくのである。精神的に疲労している―――というより、何かあるものが麻痺している。ことさらに、ひらきなおって一つのことを考える力もない。ただ書物が(わずかな時間をぬすんで読む書物が)清涼剤となってくれる。
(『きけ わだつみのこえ』より)
(竹田喜義 1942年東京帝国大学文学部国文学科入学 1943年海兵団に入団 1945年4月14日朝鮮の済州島沖にて沈没戦死 22歳)
昭和十九年八月九日
一週間程前に家を経由して、大学から卒業証書授与願という書類が送られてきた。……自分は万一戦線から帰る日があったら、今のままで学問を打ち切って社会に出るなどという気持は全然なかった。まだ、四年でも五年でも大学に残って自分の気持が承知するまで勉強を続けたいつもりだった。
……その書類をひらいて、「まだ、自分はこのままあっさり大学を出てしまう気持にはなれません。この書付をどうしたらよろしいでしょうか」と聞いた。中将はそれにたいして、ほとんど即座に答えられた。「そんな考えはやめろ、やめろ。この戦争に、大学でもあるまい。……あんな大学に、あんな学問に何の価値があるといえるんだ。今はそんなことへの係累を一刻も早く脱して、自己の本当の本分に目覚めなければならない時なのだ。せっかく出してくれるというんだから、早く出ちまえ、出ちまえ。」もうそれ以上何もつけ加える必要もない気がして、自分は黙って引き下がってしまった。室へ帰ると早速、文学部長宛の願書一通を書き上げて、机の上へほうり出し、煙草を吸いに出た。糸園中将の返答があまりにあっさりと簡明なだけに、それだけに、自分の心には割り切れない、わだかまりあるものが一杯につまっていた。……
八月十五日
日々の生活がともすれば沈滞気味である。希望がないのである。将来に明るさがないのである。……毎日多くの先輩が、戦友が、塵芥のごとく海上にばら撒かれて、―――そのまま姿を消してゆく。一つ一つの何ものにもかえ難い命が、ただ一塊の数量となって処理されてゆくのである。精神的に疲労している―――というより、何かあるものが麻痺している。ことさらに、ひらきなおって一つのことを考える力もない。ただ書物が(わずかな時間をぬすんで読む書物が)清涼剤となってくれる。
(『きけ わだつみのこえ』より)