今回紹介した中だけでも、1945年4月12日林氏及び長谷川氏、4月14日竹田氏、4月28日大塚氏、4月29日市島氏、5月11日上原氏と、立て続けに戦死しています。太平洋戦争もいよいよ終盤のこの時期、どれほど多くの未来ある若い命が日々失われたのかと思うと、言葉がありません。そしてそれは、敵側だって同じなのです。こんな若者たちが互いに殺しあう。どんなに綺麗事をいっても、それが「戦争」の現実です。
(市島保男 1945年4月29日 特別攻撃隊員として沖縄東海上にて戦死 23歳)
昭和十八年十月二十五日
僕は文部省の壮行会に実のところ行きたい気持ちだった。感激にひたり涙を流したかった。確かにあの中に入ったら僕みたいな単純な男は泣く。しかし僕は行けなかった。何故学生のみがかくまで騒がれるのだ。同年輩の者は既に征き、妻子ある者も続々征っている。我々が今征くのは当然だ。悲壮だと言うのか、では妻子ある者はなおさらだ。学生に期待する故と言うのか、では今まで不当な圧迫を加え、冷視し、今に居たりて一変するとは。素直でない考えかも知れぬ。しかし通り過ごせぬ。……大部分の学生は征くことの当然を知っていよう。世間が、時には冷視し、時には優遇し、一人芝居をやっているのだ。壮行会には行かなかった。しかし、行けばよかったとも、今考える。あの雰囲気に浸れば誰でも純一な感激を味わえたに違いない。ここでも煩悩はたち切れない。
……
昭和二十年四月二十日
心静かな一日であった。家の者とは会わなかったが、懐かしき人々とは存分語り合い、心楽しき時を過し得た。
今日去れば再び相会う事は出来ぬ身なれど、すこしも悲しみや感傷にとらわれる事なく談笑の中に別れる事が出来たのは、我ながら不思議なくらいである。
俺にとっても自分がここ一週間の中に死ぬ身であるという気は少しもせぬ。興奮や感傷も更に起らぬ。
ただ静かに我が最後の一瞬を想像する時、すべてが夢のごとき気がする。死する瞬間までかく心静かに居られるかどうかは自分にも判らぬが、案外易い事のようにも思われる。……
四月二十三日
明日出撃になるかも知れぬゆえに田舎道をブラツキながらバス(入浴)に行く。
我が二十五年の人生もいよいよ最後が近づいたのだが、自分が明日死んで行く者のような感がせぬ。今や南国の果てに来たり、明日は激烈なる対空砲火を冒し、また戦闘機の目をくらましつつ敵艦に突入するのだとは思えない。……
四月二十四日
ただ命(めい)を待つだけの軽い気持である。……隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持ちでいたい。……私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御蔭であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。……
(『きけ わだつみのこえ』より)