こんにちは。
ミニトマトのぬか漬けが美味しいとネットで読んだので作ってみたら、それほど美味しくなくて悲しいcookieです。
そしてアムステルダム国立美術館のデジタルツアーを見ていたら『夜警』が巨大なガラスケースの中に入っていて「モナリザに続きお前もか!」とググったら、昨夏から修復中とのこと(ほっ…)。
その記事に「修復過程を一般公開するという前代未聞のプロジェクト!」と書かれてあって、「?」と。
なぜなら私は20年ほど前にミラノでダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の修復過程を一般公開で見ているので。しかしググってみたら最近の記事やブログにはみな「『最後の晩餐』は長年の修復期間を経て1999年5月に公開が再開された。」と書かれてあってビックリ。いやいやいや、ワタシ、1999年2月に見ているし。祖母もその数年前にやはりミラノで見ているし。あれから20年しか過ぎていないのに、こうして歴史というのは案外簡単に塗り替えられてゆくものなのかもしれん、とそんなことを思ったのであった。
歴史の塗り替えといえば、8月末まで小学館が「まんが 日本の歴史」を全巻無料公開してくれているので、読んでいるのです。古代からずっと読んでくると、「歴史」というのは勝者が作ったものなのだな、と改めて感じる。与えられた情報を100%無条件に信じてはいけない、「真実」は常に一つであり別のところにある、ということを感じるのでした。そういう意味では「情報」のいい加減さというのは、古代からずっと続いているものなのだな、と。といって「情報」に価値がないわけでは絶対にないので、要は受け取る側の客観的&俯瞰的視点が大事、と改めて思うのでありました。
さて、このブログにはメインのホームページがありまして、今もそのトップページに置いているのが、この夜明けの東京の写真です。目白の椿山荘(当時のフォーシーズンズホテル)から撮ったもの。
そしてこのブログの副題「Who never feels lonely at all under this endless sky...?」はブログを始めた2006年からずっと使用しているもので、中島みゆきさんの『たかが愛』の一節の英訳です。
日本語の歌詞は、「ああ この果てない空の下で 独りでも寂しくない人がいるだろうか」。
ブログ開設当時はCDの歌詞カードに記載されたままの英訳を載せていたのですが、副題にするには少々長かったので、途中で変えました(英文法的に正しいかどうかは自信なし)。
これは2番の歌詞で、1番の同じ部分の歌詞はこうです。
「ああ この果てない空の下で 何ひとつまちがわない人がいるだろうか」
私は、20代前半の頃にどん底の精神状態になったことがあって。
表向きは普通にしていたので、誰も気づいていなかったと思いますが。
わーーーー!という激しい感じではなくて、どちらかというと虚ろな精神状態でした。自分が静かに消えてしまいたい、というような。好きなことも楽しめなくて何もやる気が起きなかったので、今思えば軽い鬱状態だったのかもしれません。
ある日の夕方、自宅で不注意で怪我をしたんです。病院に行くほどではないけど、真っ赤な血がダラダラと垂れてくるような、それなりに深い怪我。そのときに私、全く痛みを感じなかったんです。自分でも驚きました。正確には、痛みはあるんです。でもそれはある種の刺激でしかなくて、「痛い」と全く感じない。むしろ、心地いいんです。赤い血の色もすごく綺麗で、「私の中にも赤い血が流れているんだなあ」って不思議な気がしました。気持ちがいいから治療しようという気が起きない。どころか、もっと傷を深くしたいという強い欲求にかられました。新たな傷もつけたくなりました。
でもハッとして、縋る気持ちで必死で手を伸ばしたのが、部屋にあったみゆきさんの『大銀幕』のCDでした。
その少し前に、店頭に並んでいたのを、たまたま見かけて買っていたんです。ちょうどリリースされた頃だったんだと思います。みゆきさんは好きなアーティストでしたしシングルのCDもいくつか持っていましたが、アルバムは聴いたことがありませんでした。
糸、命の別名、たかが愛、愛情物語、世情、with、私たちは春の中で、眠らないで、二隻の舟、瞬きもせず。
すべての曲を繰り返し、繰り返し、聴きました。
みゆきさんの歌は「人間というのは愚かなものである」と、愚かである私の存在をそのまま受けとめてくれました。
以前「命の別名」に救ってもらったと書いたことがありますが、同じくらいに「たかが愛」、「with」、「二隻の舟」、「瞬きもせず」といったこのアルバムに収録されている全ての曲に、私は救っていただいたんです。あのときこのCDに出会えていなかったら、今私はここにはいなかったろう、と思っています。自殺はしていないと思う。でも、ここにはいないと思う。
私は自殺は罪だとは思っていません。どころか、それは救いです。私のような人間には、死にたくなればいつでも死ねるという選択肢が残されていることは、どれほどこの世界を生きやすくしてくれていることだろう。
でも、私は自ら命を絶とうと思ったことは、少なくともこれまでの人生では一度もないのです。
「いま私の上に隕石が落ちてきて、死ねたらいいのに」と本気で願ったり「消えてしまいたい」と思ったことは何度もあるけれど、実行的に自らの命を絶とうと思ったことは一度もありません。
その理由は、おそらく全く一般的ではない、ちょっと変わった理由なんです。
私にとって今生きているこの世界は、自ら去るには美しすぎるんです。どんなに辛い状況にいても、透明な青い空、雨粒に揺れる新緑、白々とした月、柔らかな風、美しい動物達、そういったものを見て、感じていると、それらを二度と感じられなくなることが惜しいと感じてしまう。いつかこの肉体がなくなってそれらの一部になれるのも嬉しいことだけれど、遠からず必ずその日はやって来るのだから、もう少しここにいて、この肉体でこの空や風を感じていたい、とそんな風に感じるのです。たとえ人間や社会の中ではうまく生きることができなくても、この世界の美しさは私を数十年間ここに繋ぎとめるのに十分な理由となる美しさなんです。
まあ私がいなくなると悲しむ人がこの世界からいなくなって、私自身ももう十分だと感じるときが来たら自ら去るときが来るかもしれませんが、どんなに生きていてもあと数十年。それはそんなに長い時間ではないような気がする。
急ぐ必要はないのではないか、と今の私は感じています。
そして明日の今頃自分が何を思っているかは、私自身にもわかりません。自分にも自分のことはわからない。だから、もし健康な肉体を持てているのであれば、できれば命は残しておいた方がいいよ、と若い人達には伝えたいです。