いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

そういえば、久々に中島聡を見た

2009年08月17日 21時13分35秒 | いいことないかな
いやー、太ってたね(笑)。

つーか、2軍から上がってきたワケが謎ではあったかも。
大野が疲れてきてるか?


昨日の西武戦。
4点差の劣勢だったが、6回に小谷野の3ランで1点差。逆転をうかがうところに試合を持ってきたが、8回江尻が中村に決定的な2ランを浴びて、再び3点差の3-6に。普通はここで意気消沈というか、終わる感じだもんね。

しかし、(こう言っては失礼だが)いわゆる敗戦処理投手として8回から江尻の後を受けてマウンドに上がった金森が、9回表も投げることになったわけだが、この時に中島がベテランの味を見せたのである。
金森は2軍で中島に受けてもらっていた、というのもあるかもしれないが、西武の2番、3番、4番と、上位打線を見事に封じたのだった。まあ、相手側にしても、もう「勝ちゲーム」みたいに気合が緩かったのかもしれないが、それにしても上位の打者をテンポ良く切ったのだった。あの時の中島のリードは冴えていた、と思ったものだ。

要するに、(こう言っては失礼だが)金森クラスの実力であっても、短いイニングを打ち取る投球はでき得るのである、ということだ。運とか、めぐり合わせとか、たまたまラッキーとか、そういうのがあるのは当然なのだけれども、考えて投げればそこそこ通用するということであると思う。あれが、9回裏の稲葉の3ランを呼び込んだと言ってもいいかもしれない。それくらい、流れを引き寄せる金森―中島のバッテリーだったのだ。


延長では、勝ちゲーム用に温存していた宮西が投げて、裏のサヨナラ勝ちを拾ったのだった。あれも、1アウト後に佐藤が1塁で、中島に打順が回るという奇跡(笑)。で、中島の送りバントが野選を誘い、1塁へ劇走した中島がセーフとなって、サヨナラのお膳立てをしたのだった。次打者の金子はうまくセンターへ弾き返すが、何故か2塁ランナーの佐藤は打球の判断が悪すぎて3塁で封殺されるという、大失態。

普通なら、ここで「あー、チャンスをミスミス潰したな」ということで流れが悪くなるのだが、賢介がヒットでつないで(佐藤がアウトになってなければ、ここで試合終了になっていた)、2アウトながら満塁。この時の中島の走塁が笑いを誘うプレーだったことは確かだ。その後に、ワイルドピッチでサヨナラのホームを踏んだのが中島だった。

どうしたんだ、中島、という感じ(笑)。
まあ、ついてるチームは強い、ということでしょうか。



今は建山がいないので、右は「菊地頼み」っぽくなってしまいがちなのだけれど、最近は江尻がよく投げてはいた。が、首脳陣の信頼はまだまだ、だろうとは思う。

一時、菊地が打たれ、じゃあ建山を、と思ったら、今度は建山が打たれ、ということで、先発が踏ん張って投げてきて中継陣が打たれて勝ちを消したとか、負け試合となったのが、実は少しあったからね。右投手の建山、菊池、武田久、と揃って「ヘコんでいた」時期があった。先発陣に申し訳ない、という感じで。

でも責めるのは酷だ。
投球回数とか、登板回数とか、そういうのは貢献度が高いし。久で、9回にまさかの3点差を追いつかれた時だって、負けなかったし。久も菊地も復調の様子なので、そんなには心配していない。

他のチームみたいに、抑えである久の前に「絶対的中継ぎ」という投手が存在してこなかっただけに(例えばJFKとか)、勝ちパターンが見えにくいとか、精神的支柱を見失うと辛い、ということがあるかもしれないが、逆にいえば自分がそれぞれ支柱になれ、ということだから。誰か一人の調子が落ちていても、他の誰かはカバーできる、ということだから。


1-0とか2-1とか痺れるゲームを勝ち切れるように、継投をしっかりと作っていって欲しい。これは、今の目先の話ではなく、来るべき「決戦」の時のことを考えての話です。
中日とか巨人のような、中継ぎ陣のしっかりと持っているチームに対した時にこそ、投げ負けないというのが大事になってくるからです。



ええっー!?これは…

2009年08月17日 16時33分20秒 | いいことないかな
逝ってよし、なんでは。

大石氏はこんなのが好きなんだろうか(笑)。

企業イメージという虚像 大石英司の代替空港


見出し的にどうなの?ちょっと疑問。アクセス稼ぎ、ということには一役買っているということだろうとは思うが。広告料の関係とか?ま、いいか。
『元自衛官 美人刺客』って、美人の部分が妥当か否かというのは、どうなるのだろうか(笑)。

極端な言い方をすれば、「虚偽報道ではないか」という疑義を向けられた場合、「社会通念上、一般的な女性に対して美人と形容することは広く認められており、万人が美人と評価しない容貌の女性に対して美人と呼ぶなどの行為は日常的に行われている」というようなことを立証せねばならん、ということでしょうか?(笑)


候補者当人の資質がどう、という以前に、何かと「美人候補」、「美人すぎる○○」とか、「美人刺客」とか、そういった歓心を買おうとする態度はいけ好かないな。



コメントにお答えしてみます

2009年08月17日 15時31分21秒 | 社会全般
前の記事で質問を頂戴していたのに、間が空いてしまいまして申し訳ございません。所用などがあって、落ち着いて書く時間があまりなかったもので、返事が遅れましたことをお詫びいたします。



そらさんの質問の内容についてですが、当方で勝手にまとめてしまいますけれども、以下の2点に分けてお答えしたいと思います。

 1)子育て支援について
 2)年金の定額化&税財源化について



1)子育て支援について

ご指摘されましたように、「子供をだしにしたようなマニフェスト」という側面はあろうかと思います。「育児に両親が関われる環境」を整備することこそ大事なことであり、「働くお母さん」への支援というのは民主党のような一律の「子ども手当」であると、費用の割りに効果が乏しいかもしれない、ということはあるかと思います。「お金に色は付いていない」とよく言われますけれども、何に投入するか、預貯金に回すのかというのは、給付を受けた側が自由に決めることですので、そらさんご指摘の「パチンコに回す」とか「娯楽に使う」というのは、あくまで親の自由です。

はっきり言えば、「持続的な定額給付金」が「15歳以下の子どもを有する世帯」に限って15年間ばら撒かれる、ということに他ならず、その金の”呼び名”が「定額給付金」だろうと「子ども手当」だろうと、もらう側にとっては同じです(笑)。民主党は目的が違う、ということで正当化していると思いますけれども、ラベルを変えれば「定額給付金」であるという自覚はないようです。因みに、万が一民主党政権が短期で交代になってしまい、この「子ども手当」が途中で打ち切られるということになりますと、要するに「複数年の定額減税措置」とか「複数年にわたる定額給付金」といった政策と何ら違いはないでしょう。唯一あるのは、お金の呼び名が異なる、というだけであり、また、誰がいくら受け取るか、という違いくらいでしょう。

本当に持ってる(入ってくる)「金が少なすぎる」ので子どもを産まなくなる、ということであれば、今よりももっと貧困だった昔の日本人女性は「産むはずがない」ということになるのではありませんか?
「貧乏子だくさん」なんていう言い回しも生まれなかったのではありませんか?
そのような疑問があるので、恐らく支援の方向性が違っているのだと思います。

実際の支援策としては、私個人の考えはもっと別なものです。これは後日改めて記事を書きたいと思います。


2)年金の定額化&税財源化

これには色々な考え方があるかと思います。現状の年金制度を永続するのはかなり困難であるというのが、多くの国民の見方であると思います。受給年金額が「とても少ない」水準でもよいならば持続は不可能ではありませんが、それが実質的に年金としての役割を果たせるかというのは、甚だ疑問ではあると思います。何故なら、現役世代の払う保険料を受給者に充当して維持する、という制度そのものが、「保険料を払う人の数」と「受給者数」とのバランスで成り立つものなので、支える側の実人数が現実に少なくなるなら、受ける側の人数を減らせるわけではないので年金額を低くすることくらいしかないでしょう。

毎月受給額が20万円の年金受給者1人を保険料で支えるには、
①1人当たり4万円の年金保険料×5人
②1人当たり7万円の年金保険料×3人
③1人当たり10万円の年金保険料×2人
ということになってしまうので、これは将来的には無理でしょう、という話です。

将来に65歳以上人口が3600万人、保険料納付者数が4000万人、ということになりますと(総人口で約8600~9000万人くらい?)、③よりも多額の保険料を払って支えるか、受取る年金額を大幅に減額してもらうか、のどちらかしかありません。

今、65歳以上人口は約2660万人、しかし、60歳以上人口となると『3475万人』存在しています。現時点ですら、そうなのですよ。毎年100万人以上の規模で死亡者数が出るでしょうけれども、それを上回る水準で毎年毎年60歳を迎える人たちが出てきます。各学年の人数を思い浮かべてもらえればいいと思いますけれども、同期には百数十万人いるのだ、ということです。その人々は毎年必ず還暦を迎えることになっていきますので、65歳以上人口の3000万人時代とかそれ以上というのは、そんなに遠い将来ではないのです。

現時点ですら保険料収入は30兆円にも満たず、不足部分については税金投入が必要ということになっているのですから。給付額はもっと多額であり、08年度で約48兆円にまで膨れ上がっています。国民年金保険料と厚生年金保険料の毎年の引き上げによって「保険料収入が増加するはず」と思うのは早計で、現実には保険料収入の増加の伸びよりも、賃金抑制や企業の非正規雇用拡大による意図的「負担逃れ」による減額効果の方が大きいのだろうと思われます。更には、「高額所得者」層であるはずの”団塊世代”の退職によって相対的に賃金は下がりますので(従業員数が同じであっても平均賃金は低下する)、企業側の社会保障負担は増加から免れてきていたのだ、ということもあるかもしれません。


税方式にすると、メリットはそれなりにありますけれども、移行期間には問題がないわけではありません。企業負担分をどうするのか、ということもありますね。消費税だけで年金受給額を賄おうとすれば、これは極めて困難ではなかろうかと思っています。資産が多く消費額も多いような所謂資産家の人に支えになってもらえるので、現役世代以外に支え手を増やす効果はあるかもしれませんが、公費負担分との区別はつかないので、大して違いがないといえばそうなのかもしれません。


仮に、そらさんのご提案の「毎月20万円」の全員平等な年金額としますと、3000万人時代であれば月に6兆円を受給者に配る必要があります。年間72兆円です。今の年金給付額が48兆円くらいですので、1.5倍の給付をするということになり、これを支えるのは容易ではありません。消費税5%でざっと10~10.5兆円程度の税収にしかならないので、仮に70兆円を集めるとなると35%もの消費税ということになるので、これは国民の大反対に遭ってしまうでしょう。高額な年金の給付を維持しようとする方が、公的年金の持続可能性には疑問点が出てくることになると思います。


そもそも、「公的年金で暮らしてゆける」というような発想というのは、一体いつから登場してきたのであろうか?という疑問もあります。私が子供時代くらいであれば、「公的年金はもらえてラッキーだね」という程度のものであって、「それで生きてゆこう、残りの人生を年金で暮らそう」という風に考えていたとも思えないのですよね。中には、そういう人たちもいたでしょうけれども、それはどちらかといえば大都会の大手企業とか教員や公務員を勤め上げたような人たちが、「悠々自適な年金暮らし」みたいな生活を謳歌していただけであって、その他の多くの年寄りというのは「家族」が支えであったのではないか。つまりは、「農村の大家族」的老後生活であり、それは「年金がなくとも生きてゆける」人的つながりの濃い社会、というようなことだ。

大都会とか、会社勤めとか、公務員とか、そういう「人的つながり」の弱い(orない)社会に生きるような人たちは、企業年金や共済年金といった、「かなり高額な年金受給額」を前提とする年金制度で老後を生きてきたのでは。田舎の農村部などでは、そんな年金はなくても家や田畑があって、自家消費分くらいは栽培できるし、子供や孫もいて労働力にも事欠かないし、「生きてゆけない」というような状況が発生してくるとは考えられなかったのでは。だからこそ、公的年金をそんなにあてにする必要性がなかったのでは。

ところが、地方であっても農業生活者は激減したし、会社勤めなどで生きてきた人たちが大幅に増加してきたのでしょう。そこに追い討ちをかけたのが、「核家族化」の進行だったのでは。団地住まい、とかに象徴されるように、高齢単独世帯が多くなっているのだと思います。子どもたちは家を離れて遠くに行くとか、親と離れて暮らしていることは多いのではないかな、と。老後生活を支えるのが「子ども世帯」だったものから、「年金」へと移っていったものと思います。昔の「人的つながり」(殆どは家族ということ)から、(公的)年金へと老後の支えが移動したのだということです。しかも、そうした方向に移行させた人たちが、現役世代の若い時分に老後の支えは「子ども世帯」ではないということを本当に真剣に考えてきたのか、疑問ではありますね。もしも自分の老後を、決して子どもには頼らない、という決意を持っていたのであれば、公的年金だけでは不安なので別な年金や蓄えなどをしていても不思議じゃないのに、それを怠ってきた人たちが「生活できない」ということで問題になっているのではないかと思ったりします。

むしろ、多くの高齢者たちはそうした蓄えを行ってきたからこそ、65歳以上の高齢世帯に多額の金融資産が”埋蔵”されているということになっているわけで。それが時々「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」などで掘り起こされたりするのでは。


ですので、根本的なところで、公的年金だけで生活するべく年金制度が作られているのか、ということがあるかと思います。あくまで生活の補助的手段に過ぎません、ということなら、公的年金を多額に設定したりする必要性は薄れるのではないかと思います。しかし、公的年金で最低限生活を賄えるという水準とするのであれば、それなりの自己負担をお願いすることになるので、税や保険料は高くなる、ということを必ず受け入れていただく必要があります。

少なくとも、過去に払ってきた保険料は自分の為のものではない、将来返ってくるものでもない、ということは知るべきでしょう。「今、いくら納めるから、将来はこのくらいもらえます」という約束というか、確約がなければ「不安でしょうがない、払いたくはない」という気分になるのは当然だと思いますし、よく理解できるように思います。そういう年金制度や信頼というものがない限りは、国民の間で年金問題というのが10年でも20年でも論争の対象とされたり、政治的闘争が再燃してきたりするということになってしまいかねないでしょう。