当時、僕は仕事で悩んでいました。いや仕事という領域まで達しているわけではなく、そもそも身分不相応な会社に入ってしまったことに悩んでいました。このままではいられなくなると思い始めていました。これは事実ですが、もう一つは僕自身の性格にも問題があったと思います。のんびりやとか小さいことにこだわらないタフなタイプだったら、そこまで悩まず乗り切っていたんじゃないかとも思います。英語の不安は致命的でしたが、それよりも仲間とのコミュニケーションがうまくありませんでした。ただドライな考え方の人が多かったのも事実ですが、、、なぜ僕は急にニューヨークに行くことになってしまったんだろう?先輩たちにも申し訳なくて話しにくくなっていっていました。人が聞けば、うらやむようなビジネスマンのスタート年のようですが、実際はおちこみっぱなりでノイローゼでした。
このころ仲のいい女性がいました。同じ年でオーちゃんというニックネームで、大学3年(1990年)のときアメリカにホームステイいったのですが、そのグループの中にいた女性でした。のちに僕が会社を辞め、失業していたときも、転職先の小さい規模の証券会社にはいって直通電話のない寮で生活しているときも連絡を同じようにくれていた人でした。彼女は全日空の国際線スチュワーデスとなって上京してきて、留年経験のある僕が四年生のときからしばしば会ったり、よく電話したり、葉書をだしたりするなりました。全日空が東京/パリ便がスタートしたときに乗務していたことを葉書で教えてくれたりしました。そんな彼女がニューヨークにフライトできました。待ち合わせは会社が終了後の僕のマンションのロビー。僕が帰ると先に到着しており、ひかえめな態度だったと思います。晩御飯に行く前に、せっかくだからと部屋を案内しましたが、彼女は部屋のドアがきちっと閉める勇気がなくて、僕もちょっと緊張してしまって、入口ドアは半開きのまま数分部屋で過ごしました。つきあっていたわけではなく、正式には仲のいい友達でした。でも心はすごく近かったです。(続く、、、)
このころ仲のいい女性がいました。同じ年でオーちゃんというニックネームで、大学3年(1990年)のときアメリカにホームステイいったのですが、そのグループの中にいた女性でした。のちに僕が会社を辞め、失業していたときも、転職先の小さい規模の証券会社にはいって直通電話のない寮で生活しているときも連絡を同じようにくれていた人でした。彼女は全日空の国際線スチュワーデスとなって上京してきて、留年経験のある僕が四年生のときからしばしば会ったり、よく電話したり、葉書をだしたりするなりました。全日空が東京/パリ便がスタートしたときに乗務していたことを葉書で教えてくれたりしました。そんな彼女がニューヨークにフライトできました。待ち合わせは会社が終了後の僕のマンションのロビー。僕が帰ると先に到着しており、ひかえめな態度だったと思います。晩御飯に行く前に、せっかくだからと部屋を案内しましたが、彼女は部屋のドアがきちっと閉める勇気がなくて、僕もちょっと緊張してしまって、入口ドアは半開きのまま数分部屋で過ごしました。つきあっていたわけではなく、正式には仲のいい友達でした。でも心はすごく近かったです。(続く、、、)