漱石と虞美人草
こんにちは。
デンマンです。
卑弥子さんが漱石と虞美人草の事について面白い話しをしていましたよね。
覚えていますか?
初めてこのブログを読む人も居るでしょうから
サワリの部分だけ抜書きします。
おほほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ますわよゥ。
また出てきてしまいましたわぁ~
ええっ?どうしてかって。。。?
あなたにお会いしたいからで
ござ~♪~ますわよゥ。
うふふふふふ。。。
でも、デンマンさんに
紹介されてうれしいわぁ~
じゃあ、「四面楚歌」の
お話をしますわね。
時は紀元前202年のことなのでござ~♪~ますわ。
古いお話なんですのよね。今から2200年前の事なのですわよ。
4年間に及んだ漢と楚の戦いは、いよいよ終局を迎えようとしていたのでござ~♪~ます。
漢の劉邦(りゅうほう)に追い詰められた楚の項羽(こうう)は、垓下の城壁にたてこもったのですわよ。
項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。
漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。
夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞き、
項王乃ち大いに驚いて曰く、
「漢皆已に楚を得たるか。
是れ何ぞ楚人の多きや」と。
つまりですわね、夜になるとどこからともなく、項羽の故郷楚の国の歌声が聞こえてきて、日が経つにつれて、その歌声が東西南北あらゆる方向から聞こえてきたのですわよ。
これを聞いて項羽は、
「漢は已に楚を全部降してしまったのだろうか。
敵軍の中に何と楚の国の人が多いことか」
このように嘆くのでござ~♪~ますわ。
実は、これは漢の軍師・張良(ちょうりょう)が、敵の戦意を無くさせるために考え出した歌声作戦だったのでござ~♪~ますわよ。
項羽と楚の兵はまんまとひっかかってしまったのですわ。
「四面楚歌」・・・出典は、言うまでもなく司馬遷の『史記』でござ~♪~ますわよ。
四面楚歌のエピソードには、さらに悲しい愛の物語が続くのでござ~♪~ますのよ。
ついでだから、その悲しい愛の物語を書くことにいたしますわ。
楚の国の歌声が周りから聞こえるものでござ~♪~ますから、項羽の下で戦っていた兵隊達は戦意を失ってしまいました。
飢えと郷里への想いもあり、最早自分たちだけ戦っても意味はないと思い兵士達は次々と逃げ出します。
将校や部隊長の中にも、これまでの項羽への不満から項羽を見限り、兵隊たちに混じって逃亡する者がたくさん出てくる始末です。
漢の軍師・張良は部下に楚歌を習わせ歌わせたばかりではなく、部下たちに更に次のように言ったのです。
「故郷へ帰ろうとする敵の者は、身分の上下を問わず、皆、逃がしてやるように」
このような訳で、包囲する漢軍は武器を捨てた楚兵を黙って通してあげたのですわよ。
楚陣に残ったのはたったの八百騎のみとなったそうです。
信頼する部下からこの知らせを聞き、項羽はほとんど空となった自分の陣を見て「最早、これまで!」と覚悟を決めたのでした。
ここで悲しい愛の物語が始まるのでござ~♪~ますわよ。
項羽は愛妾の虞美人と信頼する部下と共に最後の宴を開いたのです。
そして、有名なあの「垓下の歌」を詠(うた)ったのでござ~♪~ますわ。
「力は山を抜き、気は世を覆う。
時、利有らずして、騅行かず。
騅行かざるを如何せん。
虞や虞や汝を如何せん。
この虞美人さんはきれいな人だったのでしょうね。
項羽はもうこれまでだと思ったわけですけれど、虞美人には生きて欲しいと思ったわけなのでござ~♪~ますわよ。
この虞美人は虞姫(ぐき)とも呼ばれます。
虞は姓である(漢書)とも名(史記)であるとも言われていますわ。
「美人」も後宮での役職名であるとも、その容姿を表現したものであるとも言われているのです。
いわゆる側室か二号さんなのですが、小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれている事が多いようです。
でも、これほど有名な虞美人も項羽との馴れ初(そ)めについては、史記にも漢書にも一切記載されていないのでござ~♪~ますわ。
ただ垓下の戦いで、劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍には、いつも虞美人がおり項羽は片時も彼女を放すことがなかったと紹介されています。
項羽が上の歌を詠ったあとで垓下から脱出するのですが、小説では項羽の足手まといにならぬようにと虞美人は自殺しています。
しかし、『史記』や『漢書』では、その後の虞美人については一切書いてないのでござ~♪~ます。
虞美人の自殺が語られるようになったのは、女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からだと言われていますわ。
とにかく、自殺した虞美人の伝説は、ヒナゲシに虞美人草という異名がつく由来となったのでした。
どうですか?ケシの花ですわよねぇ~。
何とはなしに生々しい美しさですよねぇ~。
虞美人が自殺してその血を吸いながら、その場に咲いたのが虞美人草だそうですわ。
悲劇、悲恋を吸い取ったような妖艶で鮮(あざ)やかなヒナゲシの別名ですわ。
ところで夏目漱石の作品に『虞美人草』があります。
この作品を漱石自身は最も嫌悪していたそうでござ~♪~ますわ。
なぜ?
衆知のようにこの作品は漱石が大学教師を辞めて朝日新聞社の専属作家になった時の第一作で、極めて通俗性の濃い作品でした。
つまり、通俗性が強かったために嫌ったようですわ。この作品は勧善懲悪の小説です。
善玉は思索の人である甲野。悪玉は甲野の異腹の妹・藤尾です。
この藤尾が漱石の頭の中で“虞美人”あるいは“虞美人草の花”のイメージになっていたのでしょうか?
藤尾は魔性を兼ね備え、男を誘惑する女として登場します。
『虞美人草』は漱石の作品中、唯一の失敗作と見なされることの多い作品です。
なぜ?
その根拠としてかならず上げられるのが、作品の執筆を開始してから1ヶ月半ほどが過ぎた明治40年7月16日付で高浜虚子に書いた手紙でござ~♪~ますわ。
「虞美人草はいやになつた。
早く女を殺して仕舞いたい。
熱くてうるさくつて馬鹿気てゐる。
是インスピレーションの言なり」
(書簡番号771)
漱石がなぜこれほど嫌になってしまったのでしょうか?
あたくしは思うのでござ~♪~ますわよ。
歴史の中の虞美人のイメージと小説に出てくる“虞美人・藤尾”の通俗的なイメージがあまりにもかけ離れてしまって、もう書く気がなくなってきてしまったのでは。。。?
これは漱石にとって確かに失敗作だったようです。
なぜならば、漱石が新聞小説三作目に「三四郎」を書いています。
『虞美人草』で取り上げたテーマをもう一度扱っています。
失敗から学び、その原因を突き詰め、スタート地点に戻ってやり直すというのが漱石の生涯を貫く流儀でござ~♪~ましたわ。
漱石は『虞美人草』の通俗性をすっかり洗い落とし、装飾過多の文章を簡素化し、改めて『虞美人草』と同じテーマに挑んで「三四郎」を書いたのでした。
『素面仲尾』より
う~~ん。何度読み返しても卑弥子さんの書評は素晴しいですよォ~。
あ~♪~らぁ~、デンマンさんに面と向かってそう言われると、あたくし照れてしまいますわぁ~。てれてれでれぇ~♪~ うふふふふ。。。
四面楚歌の後の項羽と虞美人のエピソード。。。それとは対照的に『虞美人草』の中で語られる藤尾の通俗的なイメージ。。。漱石でなくても、これほどイメージがかけ離れてきたら書くのが嫌になってしまうかもしれませんよね。漱石が高浜虚子に“早く女を殺してしまいたい”と書いた気持ちが分かりますよ。
そうでござ~♪~ますか?藤尾はそれ程通俗的過ぎて殺したくなるような女なのでござ~♪~ますか?
漱石は卑弥子さんも引用したように高浜虚子に“早く女を殺したい”という手紙を書いているけれど、連載中に三四郎のモデルと言われた弟子の小宮豊隆にも次のような手紙も書いているんですよ。
『虞美人草』は毎日かいている。
藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。
あれは嫌な女だ。
詩的であるが大人しくない。
徳義心が欠乏した女である。
あいつをしまいに殺すのが一篇の主意である。
なんだか漱石先生にしては、すさまじい書き方でござ~♪~ますわね。しかし、それ程殺したい女をなぜ書いたのでござ~♪~ましょうか?
そこなんですよ。そのことをもって正宗白鳥などは勧善懲悪の小説だと指摘していると思うのですよ。
どういうことですか?
正宗白鳥は「夏目漱石論」の中で次のように書いていますよ。
宗近の如きも、作者の道徳心から造り上げられた人物で、
伏姫伝授の玉の一つを有(も)ってゐる
犬江犬川の徒と同一視すべきものである。
『虞美人草』を通して見られる作者漱石が、
疑問のない頑強なる道徳心を保持してゐることは、
八犬伝を通してみられる曲亭馬琴と同様である。
知識階級の通俗読者が、
漱石の作品を愛誦する一半の理由は、
この通常道徳が作品の基調となつてゐるのに
基づくのではあるまいか。
『虞美人草』の登場人物は卑弥子さんも紹介していたように善玉と悪玉にはっきり別れていますよね。そして最後に悪玉が敗北することになっている。まさに絵に描いたような勧善懲悪の小説です。善玉は思索の人甲野、上の引用の冒頭に出てくる正義の人宗近。その妹糸子などです。悪玉は甲野の異腹の妹藤尾とその母親ですよ。善玉と悪玉の中間に東京帝国大学を銀時計で出た頭の良い小野がいる。
それで、藤尾さんはどうするのですか?
藤尾はこの小野に目をつけ、彼を籠絡して意のままに支配し始めるわけですよ。
それで。。。?
小野は恩人の娘・小夜子と婚約者同様の関係にあるのに、藤尾の誘惑に負けて小夜子を捨てようとするのです。
それで、どうなるのですか?
ここで正義の人宗近が立ち上がり、小野を説得して藤尾との関係を絶つことを決断させるわけですよ。結局、小野は藤尾から離れて小夜子のもとに戻るのです。漱石は、自分でもこの藤尾を亡き者にしたかったのだろうけれど、勧善懲悪の話の筋から読者受けをねらったのでしょうね、最後には藤尾に自殺までさせている。
それで、正宗白鳥さんはどのように言っているのですか?
そういうところが漱石と滝沢馬琴が瓜ふたつだと言っているわけです。つまり、犬江・犬川というのは滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の八犬士の最初からふたりですよ。
その二人がどうだとおっしゃるのですか?
漱石が登場させた宗近は馬琴が造型した犬江・犬川と少しも違わないじゃないか、と言っているわけですよ。
つまり、こき下ろしているのでござ~♪~ますわね?
そういうことですよ。実は正宗白鳥の先生は、『小説神髄』を書いた坪内逍遙なのですよ。『小説神髄』には次のようなことが書いてあります。
小説の主脳は人情なり、世態風俗これにつぐ…
彼の曲亭の傑作なりける『八犬伝』中の八士の如きは、
仁義八行の化物にて、決して人間とはいい難かり
つまり、正宗白鳥は自分の先生の教えを忠実に守って漱石を批判したのですよ。
どうのようにでござ~♪~ますか。。。?
要するに、“人間が描けてないじゃないか!”と言っている訳ですよ。勧善懲悪の古くさい作品だと批判したんです。これでは江戸時代の滝沢馬琴と変わりがないじゃないか!?このように言っているわけですよ。
かなり痛烈でござ~♪~ますわね?
ホウ~、卑弥子さんもそう思いますか?
デンマンさんがレンゲさんを批判するようなものですわね?おほほほほ。。。
僕はそれ程痛烈ではありませんよ。なぜなら、僕はレンゲさんを心の底から愛していますからね。うへへへへ。。。
(卑弥子さん白けてます。) それで。。。?
この時代に漱石のような勧善懲悪のできすぎた小説を書くと、そのように言われてしまう風潮があったのですよ。
どういうことですか?
つまり、坪内逍遙や二葉亭四迷が頑張っていた時代ですからね。江戸期の文学というのは否定し葬り去るべきものだ、という考え方が主流を占め始めていた。とにかく文明開化の時代でしたからね。
それ程文明開化というものはすごかったのですか?
そうですよ。新時代の文学は新しい言葉によって書かれなければならない、と言文一致体を主張していたのですよ。昔は卑弥子さんも知っているように書き言葉と話し言葉はまったく違っていた。現在では蝶々のことを“ちょうちょう”と書くけれど、つい最近までは“てふてふ”と書いてちょうちょうと読ませていた。つまり、“てふてふ文学”はやめようじゃないか!という時代だったのですよ。
“てふてふ文学”というのは勧善懲悪小説のことですか?
まあ。。。そういうことですよ。道徳に凝り固まったような化け物を書くのじゃなく、人間を書きなさい、と言った訳ですよ。
デンマンさんはどう思われるのですか?
僕は漱石はかなり悩んだんじゃないかと思いますよ。
どのように?
漱石の評価の一つに、日本の文学者として「自我」の問題を最初に意識的に極め尽くした、というものがありますよ。
もっと分かりやすく言うとどうなるのでござ~♪~ますか?
言い換えれば、当時「自我」という認識そのものが日本にはなかった。現在だって欧米人と比べれば、はっきりと「自我」を持っている人が日本人には少ないですよ。僕のブログの記事を読んだら、“このデンマンという男は自意識過剰ではないのだろうか?”。。。このような印象を持つ人が日本人には多いですよ。少なくともこれまで僕にコメントを書いた人は、このようなことを指摘した人が多かった。
でも、デンマンさんだって日本人でしょう?
確かにそうですよ。日本で生まれて日本で育ちましたからね。でも僕は人生の半分以上を海外で暮らしてきたのですよ。
つまり、欧米並みに自分の考え方をしっかりと持って自己主張をする。早い話が「自我」を意識的に作り上げたという事でござ~♪~ますわね?