蝶々夫人(PART 1 OF 3)
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デンマンさん。。。あんさんは、どうしてオペラの『蝶々夫人』など持ち出してきやはったん?
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めれちゃんも、オペラの『蝶々夫人』を知っているのんか?
あんさんが小百合さんと話していましたやんかぁ~。
あれっ。。。めれちゃんも、その記事を読んだのかぁ~?
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■『密かな愛を込めて』
(2010年3月17日)
読みましたわ。。。また、しょうもない写真をコラージュして貼り付けましたなぁ~。
ん。。。? しょうもない写真。。。?
そうですう。小笠原玲子さんとかいう女の人のファンレターを持ち出してきて、一緒に写真も貼りだしていましたやんかぁ。
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めれちゃんも、やっぱり見たのかぁ~?
記事を読めば、当然、目にしますやん。
それで、めれちゃんは、どう思うねん?
どう思うってぇ~。。。、あんさんがコラージュしてでっち上げた写真ですやろう!?
やっぱり、分かるかぁ~?
分かりますがなぁ。。。本物の写真を出すわけにはゆかへん。。。それにしても、あんさんはオッパイの大きな女性が好みのタイプやのォ~?
いや。。。別に、わてはオッパイにこだわってぇ、え~へんでぇ~。。。うししししし。。。めれちゃんぐらいの大きさならば、十分やでぇ~。。。
そんな事よりも、どうして『蝶々夫人』など持ち出してきやはったん?
もちろん、めれちゃんを慰めて、励ますためやんかぁ~。
わたしは、別に、あんさんに慰めてもらわなくてもええねん。
そやかてぇ、めれちゃんは落ち込んでいるようやがなぁ。。。3月10日に詩を書いてから、何もしてへんなぁ~。。。また、交通事故に遭ってドタマを車にぶつけたのかぁ~?
ちゃいますがなぁ~。。。あれ以来交通事故には気をつけてますねん。
だから、めれちゃんを励まして、また詩や短歌を書いてくれるようにと、わては励ますつもりで『蝶々夫人』を持ち出してきのやぁ~。
『蝶々夫人』
(Madame Butterfly)
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プッチーニによって作曲された2幕(初版)もののオペラである。
いわゆるプッチーニの「ご当地三部作(あとの2作は「西部の娘」、「トゥーランドット」)」の最初の作品である。
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。
物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものである。
1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっている。
色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもありプッチーニの作品の中では日本人に最もなじみの深い作品である。
特に第2幕の詠唱「ある晴れた日に」は非常に有名である。
反面、蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多いため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため『ソプラノ殺し』の作品とも言われる。
ヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、「蝶々夫人」を世界三大オペラに数える説もある。
蝶々夫人との出会い
プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びた。
その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出した。
彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期であった。
「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。
1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれた。
その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇。
英語で上演されていたため、詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。
あらすじ
第1幕
時と場所:1904年の長崎。
アメリカ海軍の戦艦アブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートン(Pinkerton)は日本人の少女と結婚することになった。
結婚斡旋屋のゴロー(Goro)が、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキ(Suzuki)や下男を紹介して機嫌を取っている。
そこへ駐長崎領事のシャープレス(Sharpless)がやってくる。
シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し、戸惑う。
だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すのであった。
そこへ蝶々さん(Cio-Cio-San)が芸者仲間とともに現れる。
シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は大村の没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露する。
それにより、座は一時しらけてしまうが、ゴローによって結婚式の準備が進められる。
蝶々さんは前日にキリスト教に改宗したことを告げる。
三々九度など一連の結婚の儀式が済んだ頃、蝶々さんの叔父のボンゾ(Bonze)が現れる。
彼は蝶々さんの改宗を怒って詰問するが、ピンカートンに追い払われる。
うろたえる蝶々さんを慰めるピンカートン。
第2幕
結婚式から3年が過ぎた。
ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまっていた。
彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。
蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。
きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌う。
その頃、シャープレスはピンカートンがアメリカ本国でアメリカ人女性と結婚したことを本人の代わりに蝶々さんに告げることになっていた。
しかし蝶々さんの夫への信頼を見た彼は、それを壊すようなことはできなかった。
蝶々さんはピンカートンの手紙を見て喜ぶ。
そこへゴローが裕福な紳士ヤマドリ公(Prince Yamadori)を連れてやってくる。
ヤマドリ公は蝶々さんに結婚を申し出るが、夫からの手紙に喜んでいる蝶々さんはそれを拒否する。
ゴローは蝶々さんは離婚された妻であると説明しようとしたが、蝶々さんは激しく断る。
「それは日本の習慣に過ぎない。今の私はアメリカ人である」と。
ゴローとヤマドリ公がすごすごと帰ってしまうと、シャープレスと蝶々さんは「友よ、見つけて」を歌う。
そして、シャープレスがピンカートンが帰ってこなければどうするのか、と蝶々さんに問うと、芸者に戻るか、自刃するしかないと答え、困惑したシャープレスが「ヤマドリ公の申し出を受けてはどうか」と勧めると、「あなたまでがそんなことを言うのか」と怒り、シャープレスに彼女とピンカートンとの子供を見せ、「わが夫がこの子を忘れようか」と言い放ち、「子供のために芸者に戻って恥を晒すよりは死を選ぶわ」と泣き叫ぶ。
シャープレスはいたたまれずに去っていく。
スズキは蝶々さんの悪評を拡げようとするゴローを捕まえる。
蝶々さんにとって悪い話が次々と届く中、遠くにピンカートンの所属艦アブラハム・リンカーンが兵員の到来を礼砲で告げた。
それを望遠鏡で見つけた蝶々さんとスズキは喜び、家を花で飾り、二重唱「桜の枝を揺さぶって」を歌う。
そして自分達と子供を盛装させ、障子を通して、ピンカートンの帰りを凝視する。
夜が過ぎ、長いオーケストラとのハミングコーラスのパッセージが演奏される中、スズキと子供は眠ってしまう。
第3幕
夜が明けた蝶々さんの家。
蝶々さんは寝ずの番をしていた。
スズキは目覚め、子供を蝶々さんのもとへ連れて行く。
スズキは憔悴した蝶々さんを休むよう説き伏せる。
ピンカートンとシャープレスが登場し、スズキに恐るべき真実を告げる。
しかし、ピンカートンは罪悪感によって深く打ちひしがれ、自身を恥じていた。
余りに卑劣なことで自分の口から蝶々さんに告げることはできず、彼は義務を放り出して去ってしまう。
スズキは、はじめは猛烈に怒っていたが、シャープレスから、蝶々さんが子供を渡してくれれば、ピンカートンのアメリカ人妻がその子を養育するということを聞き、説き伏せられてしまう。
蝶々さんはピンカートンと会えると思い、目を輝かせて登場する。
しかしピンカートンの代わりに彼のアメリカでの妻ケイト(Kate Pinkerton)と対面させられる。
蝶々さんは感傷的な穏やかさをたたえつつ真実を受け止め、礼儀正しくケイトを祝福した。
これで平穏が見いだされるであろうと。
それから、ケイトやシャープレスにお辞儀をし、子供を渡すことを約束する。
そしてスズキに家の障子を全部閉めさせ一人きりになる。
障子越しに侍るスズキに対しては、「子供を外で遊ばせるように」と命じて下がらせる。
蝶々さんは仏壇の前に座り、父の遺品の刀を取り出し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」の銘を読み自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。
蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせる。
そして、刀を喉に突き立てる。
今際の際でも子供に手を伸ばす蝶々さん。
そこへ異変を聞きつけたピンカートンとシャープレスが戻ってくるが、とき既に遅く、蝶々さんは息絶える。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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長々と引用しやはりましたけれど、あんさんは『蝶々夫人』のどこがわたしを励ますと言わはるのォ~?
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だから、めれちゃんにも分かるように、わては赤字にしたやんかぁ。
名誉のために生けることかなわざりし時は、
名誉のために死なん
この部分がわたしを励ますと、あんさんは言わはるのォ~。
ちゃうねん。
そやけど、あんさんは今言うたばかりやないかいなぁ。わたしが分かるように赤字にしたと。。。つまり、上の語句がわたしを感動させ、激励することになると、あんさんは思いはったのですやろう?
ちゃうねん。。。あのなぁ~、『蝶々夫人』を作曲したプッチーニは、「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材を探していたのやがなぁ。1900年に「トスカ」が英国で初演された時、プッチーニはロンドンに招かれた。そして観たのが、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」やったのや。
それで。。。?
残念ながら、プッチーニは英語が流暢(りゅうちょう)ではなかった。だから、詳しい内容は良く理解できなかった。それでも感動した。それで、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだのや。
それが、どうだと、あんさんは言わはるの?
つまり、内容が良く分からなかったのに、プッチーニはいったいどこに感動したのか?
その感動した部分が、次のところやと、あんさんは言わはるのォ~?!
名誉のために生けることかなわざりし時は、
名誉のために死なん
その通りやがなぁ!。。。英語が良く分からへんかったけれど、オペラを見ていれば上の感動は分かるのやあ。その感動がプッチーニに、ヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、世界三大オペラと言われる「蝶々夫人」を創作させたのやがなァ。
。。。で、あんさんは、わたしを励ますために何が言いたいん?
あのなぁ~、その前に言っておかなければならない事があるねん。
もったいぶらないで、はよう言わんかいなぁ!んもお~~。
めれちゃん。。。そのようにせかせんといてぇ~なァ。。。あのなァ~、日本では、そのような感動を与えた蝶々夫人が実際に居たのか?。。。それを調べた人が居たそうや。
それで、蝶々夫人のモデルになる人が居やはったん?
実は、「蝶々夫人(Madame Butterfly)」という短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルさんは、1890年代初頭から鎮西学院五代目校長で宣教師でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいたのや。
それで。。。?
弟のジョン・ルーサー・ロングさんは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を書いたと言われているのや。
つまり、サラ・ジェニー・コレルさんは、蝶々夫人のモデルになった人を実際に見やはったのォ~?
弟のジョン・ルーサー・ロングさんは、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったそうや。
その倉場富三郎って、誰やのォ~?
幕末に活躍したイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーと、彼の日本人妻、ツルさんの間にできた息子やがな。
つまり、そのツルさんが蝶々夫人のモデルやのォ~?
ツルさんは長崎の武士の家に生まれたのや。しかも、「蝶」の紋付を好んで身に着けたと言われている。さらに、長崎の旧グラバー邸が長崎湾を見下ろす南山手の丘の上にあることも、物語と一致している。
もったいぶらないで、はっきり言うたらどうやのォ~?
そやけどなァ、ロングさんの小説で具体的に記述されている蝶々夫人の経歴に、ツルさんの生涯と似ている部分があるけれど、重要部分で異なっている。
たとえば。。。?
まず、相手がアメリカ士官だということが違っているねん。さらに、ツルさんは夫に新しい女ができたために自殺したわけではない。刀を喉に突き立てなかったのやでぇ。
つまり、モデルは居(お)らへんのォ~?
あのなァ~、短編小説を書いたロングさんは小説が実話に基づいて書かれたとは言ってないねん。
つまり、はっきりとしたモデルは居(お)らへんのォ~?
そうなのやァ。突きつめてゆくと該当者は居ないのやがなァ。しかも、そのような境遇にある女が自殺するなんて考えられないという研究者も居る。
どうして。。。?
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人の現地妻となった女性がたくさん居たのやァ。ロシアのニコライ2世が皇太子時代に日本に滞在した時にも洋妾(ラシャメン)と呼ばれる女性と一緒に住んでいた。ドイツ人医師のシーボルトさんにも、長崎滞在中に日本人妻がいた。当時、下級の軍人は売春宿などに通っていたけれど、金銭的に余裕がある高級将校などは日本人妻と自宅で暮らしていた。
つまり、一時的な同棲生活やったのォ~?
歴史的にはそうだったらしいのやァ。長崎居留の外国人と日本人女性との同居は長崎奉行が公認していたのやでぇ。双方が、一時的なものだという事を理解していた。農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘が、生活のために洋妾になった例も多かったのやァ。
互いに割り切った関係やったのォ~?
それが常識のようになっていたらしい。だから、オペラの「蝶々夫人」のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は、もし現実にあったとしたら、極めて稀だったと言う研究成果が出ているのやァ。
つまり、歴史的には、蝶々夫人のような例は無かったと、あんさんは言わはるのォ~?
なかったようやでぇ~。。。あの有名なシーボルトさんの日本人妻だった楠本滝さんも、シーボルトさんの帰国した後では、結婚・離婚を繰り返した。そやから同棲していた外国人の夫が帰国したからって、夫に裏切られたと感じて自殺した女性は記録に無いらしいのや。
つまり、蝶々夫人は創作上の人物だと、あんさんは言わはるのォ~?
いや。。。わてが言うてるのではなくて、そのような研究成果がある、と言うことやァ。。。でもなァ、プッチーニは、まさに蝶々夫人のような壮絶な死を身近に見た。
マジで。。。?
そうなのやァ。すでに引用したけれど、初めて読む人も居るやろうから、またここに書き出すわ。めれちゃんも、もう一度読んでみィ~なァ。
(すぐ下のページへ続く)