戦う民主主義
昨日の宮本佳林のブログが、個人的には衝撃的だった。元ハロプロエッグ、元ハロプロ研修生、元Juice=Juiceのエース、元ハロプロのエースの宮本佳林の12月8日のブログ。
週末11日、東京お台場ゼップ東京でおこなわれる、ハロプロOGによるコンサート、エムラインスペシャルコンサートのリハーサルだったとのブログ。
そのブログのなかで、昔の自分の動画を見て、ダンスなどの振り付けを確認する、思い出す。ふりおこしをする佳林。
そこで、こんな文章がいきなり私の目にとびこむ。正確には、私は目の見えない視覚障碍者、網膜色素変性症な視覚障碍者なので、音声読み上げソフトが読み上げてくれた佳林のブログ文章が、耳にとびこんでくる。
@ここから、宮本佳林12月8日ブログの引用
リハーサルをするにあたり
自分のJuice=Juiceデビュー当時とか
研修生時代のビデオみる時とかもあって
今の自分が負けてる気がして
なんだろう
技術とかは成長してるけど
その時にしか出せなかった
全力の感じというか
なんというか
その時の自分が大嫌いだったけど
今もその時の内面に戻りたいとは
思わないんだけど
あの全力を取り戻さなきゃいけないなって
思いました。
まだまだ出来ることはあるぞぉう
出典
オリコンウィークリー7位ありがとうございます | 宮本佳林オフィシャルブログ「かりんの頭の中」 Powered by Amebaはこちら
@ここまで
佳林が、研修生時代やJJデビュー当時の自分のことを、大嫌いだったと告白している。
これにはびっくりの私。悲しくなる私。
かつて、アイドルからアーティストに移行していくときに、多くのアイドルがが通るのが、過去の自分の否定。あややも、アイドル時代の自分のことを、あれはやらされていた、本意ではなかったとかあとで、ぶっちゃけていた。
これは絶対やってはいけないこと。アイドル自身が過去の自分を否定するということ。それを成長というのかもしれないけども、そうではない。アイドルというものは、アイドルだと認めてくれる人たちがいてこそアイドルであり、それはファン。ファンが彼女こそアイドルだと認知してはじめて、彼女はアイドルになる。自分自身が私これからアイドルです、私もうアイドルじゃありません、あの時の私は全部うそでした。それは余計なことであり、アイドルの定義を書き換えるに等しい、アイドルそのものの存在意義を否定するもの。
かつて、私が司法試験合格を目指して勉強していたころ、戦う民主主義という概念をおそわった。
民主主義は、いろんな人の意見、考え、発言を平等にあつかう、だれも、その発言を禁止できない。すべての発言は平等。それが民主主義。
ただ、ゆいいつ、その民主主義が認めない考え、発言が、民主主義を否定するような考え発言。
民主主義だからといって、民主主義を否定する発言をゆるしてしまえば、それはもう民主主義の基盤がうしなわれてしまう。だから、民主主義は、ゆいいつ、民主主義を否定する発言に対しては、民主主義は戦う。その発言は認めない。戦う民主主義。
23歳になった宮本佳林が、14歳のころの宮本佳林を否定する。大嫌いだったといって否定する。これは、23歳の宮本佳林自身を否定することにほかならない。
14歳の時の自分の内面が大嫌いだったと23歳の宮本佳林は小空白するけども、23歳の宮本佳林があるのは、その大きっらいな14歳の宮本佳林がいたからこそ。
私は、宮本佳林ファンとして、佳林のすべてをいとおしいとおもって、すべてを認めてきた。だけど、この、過去の宮本佳林を否定するような現在の宮本佳林の発言は許容できない。戦う宮本佳林。私は戦う宮本佳林ファンでなければならない。
かつて、あややがアーティスト路線になってからのソロコンサートに行った私。夜講演の開園をまっていると、まだ昼公演なのに、客がひとり、ぶつぶついいながら、コンサート客席からでてきた。もうええわ!もう二度とこない!。そうぶつぶつ、だけど激しい大声で、会場からでてきた男性。おそらく、あややのの客伊地知とかで、その男性がいじられたかなにかしたんだうね。
彼が知っていた、カリが好きだった、夢中になったあややはもうそのステージにはいなかったんだろうね。なんか彼の気持ちが今ようやくわかった気がする。
でもきっと、その彼は、夜公演には、なにもなかったかのように参加してたんだろうな。それもわかる。それがアイドルファンというもの。
14歳の宮本佳林、23歳の宮本佳林。23歳の宮本佳林が14歳の宮本佳林を否定しようとも、宮本佳林という存在は、過去から現在そして未来へとつながる連続体であって、いくら、現在の佳林が過去の佳林を否定しようとも、その過去の宮本佳林は決して変わらない、不変。大嫌いだったとは言えるけども、過去を否定してぬりかえられることはできない。もし否定できるとするならば、それは現在の自分をも否定すること。それはありえない。
23歳の宮本佳林の中にも、私が大好きで、23歳の佳林が大嫌いな、14歳の宮本佳林がいる。つまり、23歳の宮本佳林は14歳の宮本佳林である。なので、14歳の私は大嫌いだったという24歳の宮本佳林も、14歳の宮本佳林と同じく私はとてもいとおしく思う。胸がしめつけられるほどいとおしい。むねきゅん。
宮本佳林はこれからもずっと続いていく。連続しているということがすばらしい。
そんなことを、宮本佳林卒業コンサートからとうど1年たつ1日前の12月9日に思う。サイゼリヤでほうれんそうパスタランチをたべながら、トイレにいくのをがまんしながら、そう思う。
昨日の宮本佳林のブログが、個人的には衝撃的だった。元ハロプロエッグ、元ハロプロ研修生、元Juice=Juiceのエース、元ハロプロのエースの宮本佳林の12月8日のブログ。
週末11日、東京お台場ゼップ東京でおこなわれる、ハロプロOGによるコンサート、エムラインスペシャルコンサートのリハーサルだったとのブログ。
そのブログのなかで、昔の自分の動画を見て、ダンスなどの振り付けを確認する、思い出す。ふりおこしをする佳林。
そこで、こんな文章がいきなり私の目にとびこむ。正確には、私は目の見えない視覚障碍者、網膜色素変性症な視覚障碍者なので、音声読み上げソフトが読み上げてくれた佳林のブログ文章が、耳にとびこんでくる。
@ここから、宮本佳林12月8日ブログの引用
リハーサルをするにあたり
自分のJuice=Juiceデビュー当時とか
研修生時代のビデオみる時とかもあって
今の自分が負けてる気がして
なんだろう
技術とかは成長してるけど
その時にしか出せなかった
全力の感じというか
なんというか
その時の自分が大嫌いだったけど
今もその時の内面に戻りたいとは
思わないんだけど
あの全力を取り戻さなきゃいけないなって
思いました。
まだまだ出来ることはあるぞぉう
出典
オリコンウィークリー7位ありがとうございます | 宮本佳林オフィシャルブログ「かりんの頭の中」 Powered by Amebaはこちら
@ここまで
佳林が、研修生時代やJJデビュー当時の自分のことを、大嫌いだったと告白している。
これにはびっくりの私。悲しくなる私。
かつて、アイドルからアーティストに移行していくときに、多くのアイドルがが通るのが、過去の自分の否定。あややも、アイドル時代の自分のことを、あれはやらされていた、本意ではなかったとかあとで、ぶっちゃけていた。
これは絶対やってはいけないこと。アイドル自身が過去の自分を否定するということ。それを成長というのかもしれないけども、そうではない。アイドルというものは、アイドルだと認めてくれる人たちがいてこそアイドルであり、それはファン。ファンが彼女こそアイドルだと認知してはじめて、彼女はアイドルになる。自分自身が私これからアイドルです、私もうアイドルじゃありません、あの時の私は全部うそでした。それは余計なことであり、アイドルの定義を書き換えるに等しい、アイドルそのものの存在意義を否定するもの。
かつて、私が司法試験合格を目指して勉強していたころ、戦う民主主義という概念をおそわった。
民主主義は、いろんな人の意見、考え、発言を平等にあつかう、だれも、その発言を禁止できない。すべての発言は平等。それが民主主義。
ただ、ゆいいつ、その民主主義が認めない考え、発言が、民主主義を否定するような考え発言。
民主主義だからといって、民主主義を否定する発言をゆるしてしまえば、それはもう民主主義の基盤がうしなわれてしまう。だから、民主主義は、ゆいいつ、民主主義を否定する発言に対しては、民主主義は戦う。その発言は認めない。戦う民主主義。
23歳になった宮本佳林が、14歳のころの宮本佳林を否定する。大嫌いだったといって否定する。これは、23歳の宮本佳林自身を否定することにほかならない。
14歳の時の自分の内面が大嫌いだったと23歳の宮本佳林は小空白するけども、23歳の宮本佳林があるのは、その大きっらいな14歳の宮本佳林がいたからこそ。
私は、宮本佳林ファンとして、佳林のすべてをいとおしいとおもって、すべてを認めてきた。だけど、この、過去の宮本佳林を否定するような現在の宮本佳林の発言は許容できない。戦う宮本佳林。私は戦う宮本佳林ファンでなければならない。
かつて、あややがアーティスト路線になってからのソロコンサートに行った私。夜講演の開園をまっていると、まだ昼公演なのに、客がひとり、ぶつぶついいながら、コンサート客席からでてきた。もうええわ!もう二度とこない!。そうぶつぶつ、だけど激しい大声で、会場からでてきた男性。おそらく、あややのの客伊地知とかで、その男性がいじられたかなにかしたんだうね。
彼が知っていた、カリが好きだった、夢中になったあややはもうそのステージにはいなかったんだろうね。なんか彼の気持ちが今ようやくわかった気がする。
でもきっと、その彼は、夜公演には、なにもなかったかのように参加してたんだろうな。それもわかる。それがアイドルファンというもの。
14歳の宮本佳林、23歳の宮本佳林。23歳の宮本佳林が14歳の宮本佳林を否定しようとも、宮本佳林という存在は、過去から現在そして未来へとつながる連続体であって、いくら、現在の佳林が過去の佳林を否定しようとも、その過去の宮本佳林は決して変わらない、不変。大嫌いだったとは言えるけども、過去を否定してぬりかえられることはできない。もし否定できるとするならば、それは現在の自分をも否定すること。それはありえない。
23歳の宮本佳林の中にも、私が大好きで、23歳の佳林が大嫌いな、14歳の宮本佳林がいる。つまり、23歳の宮本佳林は14歳の宮本佳林である。なので、14歳の私は大嫌いだったという24歳の宮本佳林も、14歳の宮本佳林と同じく私はとてもいとおしく思う。胸がしめつけられるほどいとおしい。むねきゅん。
宮本佳林はこれからもずっと続いていく。連続しているということがすばらしい。
そんなことを、宮本佳林卒業コンサートからとうど1年たつ1日前の12月9日に思う。サイゼリヤでほうれんそうパスタランチをたべながら、トイレにいくのをがまんしながら、そう思う。