【黄色いキリスト】ポール・ゴーギャン
今日、買い物に出かけたら、いつもは通らない道の角のところに「キリストの血は罪を取り除く(聖書)」とありました。
いえ、わたしノンクリスチャン時代からこの黒に黄色の文字の看板をよく見かけてたんですけど、「世の終わりは近い」とか、なんかちょっと怖いことが警句的に書いてあって、あれ見て思うのは大抵の人が「やっぱりキリスト教ってちょっとおかしいんだな☆」っていうことなんじゃないかなっていうことだったり(^^;)
なんにしても、今回のテーマ(?)は「何故キリストの血は罪を取り除くのか」ということでした。
今から約2000年以上も昔に、エルサレムという場所で十字架にかかって死んだ男の死が、今日一体わたしたちになんの関係があるというのか――というのが、普通の感覚だと思います(わたしもノンクリスチャン時代はずっとそうでした)。
また、イエス・キリストのことを神の子と告白する者は天国へ行くことが出来る……というキリスト教の教義についても正直「は?」というのが普通の反応ですよね。
これは、逆に「では、クリスチャンになった途端に何がどう変わるのか」と考えてみるとわかりやすいかもしれません。
わたし自身を含めたキリスト教徒が思うのは、「このわたしこそが、イエスさまに唾をかけて罵り、荊の冠をその頭にのせ、イエスさまが十字架にかかり、苦しみの極みにあった時に顧みるでもなく見捨てたのだ。だが、そのようなわたしの罪をも、主イエスは赦し、愛してくださっている」……ということです。
「え?なんで急にそーなんの?そこまで話飛ぶの?」っていう感じですよね(^^;)
わたしは二千年ほど前にエルサレムにいたわけでもなく、主イエスが十字架にかかるところを目撃したわけでもありません。
けれど、これは結局今という現代、あるいはどの時代のどの場所にキリスト(救世主)が生まれようとも、人間というのはまったく同じことをイエスさまにするであろうということを示していると思います。
十字架、という言葉だけを聞くと、たとえば「彼はあの交通事故で一生償えない十字架を背負った」といった、あまりよくない悲劇や苦難などが連想されますが、その苦難と悲劇の先には、実は「たとえようもない喜び」があるのです。
そしてこの「喜び」を与えるためにこそ、イエスさまはわたしたち人類ひとりびとりのために十字架にかかってくださり、全人類の罪の贖いとして血を流されたのでした。
人殺しや窃盗といった、明らかに法に触れる犯罪ではなくても、わたしたちは日々何がしかの罪を犯しています。
ある人の妻や夫、あるいは子供であって、毎日職場や学校といった場所に通い、社会的に見て立派な「普通の人」であるというのは、実際とても大変なことですよね。きちんと仕事をし、税金も納め、ゴミの分別もきちんとして、社会的に誰から責められることもない――ということの裏には、実は物凄いストレスが隠れている場合が多いと思います。
借金=必ずしも罪とは言えないでしょうし、パチンコや競馬といった賭け事もまた、行き過ぎない限りは罪とは言えないかもしれません。また、誰か人に嘘をついたとしても、それは社交辞令上のことであったり、相手を優しく思いやればこその嘘というのも多くあります。けれど、自分の良心と照らし合わせて「小さいことかもしれないけれど、これは罪に当たることではないだろうか」と思うことは、わたしたちひとりびとりが必ず心当たりがあるのではないでしょうか。
一般社会で「普通の人」であるために、そこで溜まったストレスが何がしかの形で「罪」という形を取るというのはよくあることだと思います。
あるいは、学校や会社行くのにいつもビクビクし、実は毎日胃の痛い思いをしていることや、何かのことで不安や緊張で常に覆われている、それがわたしにとっての普通の日常だ……といったこともあると思います。
そして、そういう時にイエスさまがおっしゃったのは、「そうしたあなた方の罪や苦しみといった重荷をすべてわたしに寄こしなさい」ということでした。何故なら、イエスさまはすべての人のそうした罪や苦しみ、悲しみをすべて引き受けるためにこそ十字架にかかってくださったのですし、わたしたちが時に抱く卑劣な思いや汚い感情、醜い物思いも、すべてわたしに寄こしなさいと、イエスさまは今に至るまでずっとそう言い続けておられるのです。
そしてそうすることでこそ、わたしたちの罪や心の汚さ、醜さはイエスさまの十字架の血潮の力によって清められ、また自分の罪を心から悔い改め、祈りの中で告白するごとに日々赦されることが出来るのです。
主イエス・キリストは、きのうも今日も明日も同じです。わたしたちが自分で背負いきれないこうした重荷をすべて引き受けてくださり、かわりにわたしが十字架にかかってすべての罪の贖いをなしたことを喜びなさいと、そうおっしゃっておられるのです。
>>「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
(マタイの福音書、第11章28~30節)
では、次回は「父と子と聖霊の御名によって」の「聖霊」のことについて、記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
今日、買い物に出かけたら、いつもは通らない道の角のところに「キリストの血は罪を取り除く(聖書)」とありました。
いえ、わたしノンクリスチャン時代からこの黒に黄色の文字の看板をよく見かけてたんですけど、「世の終わりは近い」とか、なんかちょっと怖いことが警句的に書いてあって、あれ見て思うのは大抵の人が「やっぱりキリスト教ってちょっとおかしいんだな☆」っていうことなんじゃないかなっていうことだったり(^^;)
なんにしても、今回のテーマ(?)は「何故キリストの血は罪を取り除くのか」ということでした。
今から約2000年以上も昔に、エルサレムという場所で十字架にかかって死んだ男の死が、今日一体わたしたちになんの関係があるというのか――というのが、普通の感覚だと思います(わたしもノンクリスチャン時代はずっとそうでした)。
また、イエス・キリストのことを神の子と告白する者は天国へ行くことが出来る……というキリスト教の教義についても正直「は?」というのが普通の反応ですよね。
これは、逆に「では、クリスチャンになった途端に何がどう変わるのか」と考えてみるとわかりやすいかもしれません。
わたし自身を含めたキリスト教徒が思うのは、「このわたしこそが、イエスさまに唾をかけて罵り、荊の冠をその頭にのせ、イエスさまが十字架にかかり、苦しみの極みにあった時に顧みるでもなく見捨てたのだ。だが、そのようなわたしの罪をも、主イエスは赦し、愛してくださっている」……ということです。
「え?なんで急にそーなんの?そこまで話飛ぶの?」っていう感じですよね(^^;)
わたしは二千年ほど前にエルサレムにいたわけでもなく、主イエスが十字架にかかるところを目撃したわけでもありません。
けれど、これは結局今という現代、あるいはどの時代のどの場所にキリスト(救世主)が生まれようとも、人間というのはまったく同じことをイエスさまにするであろうということを示していると思います。
十字架、という言葉だけを聞くと、たとえば「彼はあの交通事故で一生償えない十字架を背負った」といった、あまりよくない悲劇や苦難などが連想されますが、その苦難と悲劇の先には、実は「たとえようもない喜び」があるのです。
そしてこの「喜び」を与えるためにこそ、イエスさまはわたしたち人類ひとりびとりのために十字架にかかってくださり、全人類の罪の贖いとして血を流されたのでした。
人殺しや窃盗といった、明らかに法に触れる犯罪ではなくても、わたしたちは日々何がしかの罪を犯しています。
ある人の妻や夫、あるいは子供であって、毎日職場や学校といった場所に通い、社会的に見て立派な「普通の人」であるというのは、実際とても大変なことですよね。きちんと仕事をし、税金も納め、ゴミの分別もきちんとして、社会的に誰から責められることもない――ということの裏には、実は物凄いストレスが隠れている場合が多いと思います。
借金=必ずしも罪とは言えないでしょうし、パチンコや競馬といった賭け事もまた、行き過ぎない限りは罪とは言えないかもしれません。また、誰か人に嘘をついたとしても、それは社交辞令上のことであったり、相手を優しく思いやればこその嘘というのも多くあります。けれど、自分の良心と照らし合わせて「小さいことかもしれないけれど、これは罪に当たることではないだろうか」と思うことは、わたしたちひとりびとりが必ず心当たりがあるのではないでしょうか。
一般社会で「普通の人」であるために、そこで溜まったストレスが何がしかの形で「罪」という形を取るというのはよくあることだと思います。
あるいは、学校や会社行くのにいつもビクビクし、実は毎日胃の痛い思いをしていることや、何かのことで不安や緊張で常に覆われている、それがわたしにとっての普通の日常だ……といったこともあると思います。
そして、そういう時にイエスさまがおっしゃったのは、「そうしたあなた方の罪や苦しみといった重荷をすべてわたしに寄こしなさい」ということでした。何故なら、イエスさまはすべての人のそうした罪や苦しみ、悲しみをすべて引き受けるためにこそ十字架にかかってくださったのですし、わたしたちが時に抱く卑劣な思いや汚い感情、醜い物思いも、すべてわたしに寄こしなさいと、イエスさまは今に至るまでずっとそう言い続けておられるのです。
そしてそうすることでこそ、わたしたちの罪や心の汚さ、醜さはイエスさまの十字架の血潮の力によって清められ、また自分の罪を心から悔い改め、祈りの中で告白するごとに日々赦されることが出来るのです。
主イエス・キリストは、きのうも今日も明日も同じです。わたしたちが自分で背負いきれないこうした重荷をすべて引き受けてくださり、かわりにわたしが十字架にかかってすべての罪の贖いをなしたことを喜びなさいと、そうおっしゃっておられるのです。
>>「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
(マタイの福音書、第11章28~30節)
では、次回は「父と子と聖霊の御名によって」の「聖霊」のことについて、記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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