【天使と聖母】ウィリアム・アドルフ・ブグロー
>>肝硬変で余命宣告
私は、1972年に主を仰ぐようになりました。それまで私は宗教人で教会に通ってはいましたが、新しく生まれた体験がありませんでした。自分が好きで教会に行っていたのではなく、義務的に行っていたのです。ですから、やはり信仰生活は世間的なものでした。私は元カトリックでした。アメリカに来たのは1962年です。当時はカトリック教会に韓国人の神父はいませんでした。だから告白(告解)ができません。カトリックでは告解しないと罪が赦されませんね。英語で十分話せませんから、どうしてもアメリカのカトリック教会に行く事ができませんでした。それで仕方なく当時、長老教会があったので、たまに行っていました。
しかし、飲み過ぎて、飲むというのは水をたくさんならいいですけど、アルコールをたくさん飲んで体がダメになってしまい、アルコール中毒になりました。そして、肝硬変になりました。私のお医者さんはとっても正直な方で、それは幸いだったんですが、日系2世のドクター・オガワという、その方が私に言いました。「あなたはもう最後ですよ。もうあきらめなさい」、「冗談でしょう」、「いいや冗談ではない。もうどういうドクターでもあなたを治すことはできません。手術なんてしたって治らない」と。そして私は死の問題を考えました。もちろんそれまで天国とか地獄とか、教会でたくさん説教を聞きましたけど、でも自分自身はどこに属しているか知らなかったのです。ドクターが私は死ぬと言ったので、死んだらどこに行くんだろうと考えたんですが、私は全く知らなかった。天国はあるかもしれないし、地獄はあるかもしれない。そして、本当に主が生きておられるかも知らなかったんですよ。
では、死ぬ前に一度主に会ってみましょうと心を決めて悔い改めたのが、一月半くらい経った時でした。そして御霊(=聖霊なる神様)の声を聞くようになったんです。びっくりしました。誰もいないのに声がして、お前は死なないぞって。そしてそれから私が御霊から語られたのは、ヨハネの15章、ぶどうの木のたとえのところです。ぶどうの枝が木と離れていると乾いて死んでしまいます。しかし、そこにつながっているとそこから養分をとって、花も咲く、実もなるというのを。それから私は、はっと一人にわかに立ち上がりました。そして死ということにまったく恐れがなくなったのです。それから、コリント第2の手紙5章17節のみことばです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」ハレルヤ、アーメンです。それを私は体験したのです。どこかの有名な先生が私に教えたのでもなく、勉強して学んだのでもなく、悔い改めをしたら天国が来たのです。天国が来る方法は悔い改めをすることです。だからヨハネも言ったし、主イエス・キリストも一番最初のメッセージがそれだったのです。「悔い改めなさい。天国が近づいた」天国を体験するのは悔い改めしかないのです。それを体験した後、私はもう死の問題は恐れもなにもなくなりました。
その後、6日目から聖霊様に導かれて、路上に出て、路傍伝道をしました。ロサンゼルスのダウンタウンに行って、叫び出したんです。私は伝道する方法が全然わかりませんでした。でも大胆になって、「みなさん。主イエス・キリストは生きておられます。主は愛です。みなさん戻ってきなさい。そうすれば、あなたも生きます。あなたも救われて、あなたの家族も救われます」と英語で叫び出したんです。その時始めて以来、ずっと今まで38年になっています。オガワ先生は、「3カ月ないし、4カ月残っていますよ」と言われたんですけど、いままで38年生きてもまだ元気です。ハレルヤ。栄光を主に差し上げます。
(『奇跡の祈祷院~荒野に道が、荒地に川が①~ピーター・ナウン』雲の間にある虹、2012年6月号より)
「父と子と聖霊の御名によって」って、「なんか聞いたことあるけど、意味はよくわかんない」とか、「キリスト教のなんかだよね?」っていう場合が多いかもしれません。
わたしも高校生くらいの時、世界史の授業で、父なる神と子なる神(イエス・キリスト)と聖霊、これをキリスト教の三位一体の神という……みたいなことを習い、本当の実質的な意味はわからないながらも(先生もそこまでは説明してくれませんしね^^;)、テストで( )の中の空欄に「三位一体」とか書いて点数をもらった記憶があります。
ここでは三位一体について詳しくは触れませんが、「聖霊(御霊)」さまというのは、キリスト教における三位一体の神の第三位格です。そしてこの「聖霊」ということについて、ノンクリスチャンの方にもわかるように説明するにはどうしたらいいのかな……というのをずっと思っていて、そんな時に「雲の間にある虹」のバックナンバーを読み、ピーター・ナウンさんの証を何年かぶりにお読みしたのでした。
ピーター・ナウンさんの場合は、聖霊さまの声をかなりはっきり聴いたという形ですけれども、こうした経験というのは実は「誰でも」「いつでも」とはいかないかもしれません。わたし自身の場合でいうと、教会へ通いはじめて牧師さんに「聖霊のバプテスマを求めるように」と勧められ、それで祈りの中でずっと「聖霊のバプテスマが与えられますように」と祈っていました。
正直、わたしの場合は一体いつ聖霊さまが注がれたのか、自分ではよくわかっていません(^^;)ただ、ずっと祈っていた時に「あーっ、そっか。これが聖霊さまっていうことだ!」みたいに、体験的に理解したという形でした。
よく言われるのは、聖霊の注ぎかけを受ける時に異言の賜物が開かれるということだったのですけど、わたしの場合はそういうことはなかったんですよね。けれど、教会の日曜礼拝で牧師さんご夫妻や教会員の方などが異言も交えて祈ったりされていたので、「異言」というのが何かというのはわかっていました。
なんにしても、「聖霊さまの声を聴く」、「聖霊さまを通してイエスさまの語りかけを聴く」というのは、クリスチャンにとっては普通のことであり、キリスト教信者、クリスチャンというのはこうした「ああ、あなたもあの体験をされたのですね」ということで一致している宗教集団といっていいのではないでしょうか。
ピーター・ナウンさんもおっしゃっておられるように、カトリック信者・プロテスタント信者の双方に、この聖霊を受けている人・受けていない人の両方が存在すると思います。つまり、カトリック・プロテスタントの双方に、両親が信者で教会へ連れていかれ、その後習慣的に通い続けたけれども実は聖霊を受けていない……といった方というのは実際におられます。
イエスさまが我々全人類のために十字架にかかってくださったとか、キリスト教の教義については教師並に詳しく、日曜礼拝にも欠かさず出席し、多額の献金もし、聖書研究会や祈り会などにもなるべく出席する――といった生活を仮に送っていたとしても、もし聖霊さまの注ぎかけを受けてないなら、そうした信仰生活というのは壁にぶち当たった時に挫折しやすいと思うんですよね。
前回「隣のイエスさま」という記事で、わたしたちの汚い感情や醜い物思いといったものも、イエスさまは引き受けてくださる……と書いたのですが、このことも、イエスさまの十字架の「信じ方」が違う方であれば、反発を覚えるかもしれません。つまり、そのようなものをイエスさまにお預けするなどとんでもない――といったように考え、そうした事柄については自分自身で背負うべきだといったように行動するということですよね。
でも、これは本当にイエスさまのせっかくの恵みを無駄にする、もったいない信じ方だと思います(^^;)
今回、わたしのこの文章のほうはまるでなっていませんが(笑)、ピーター・ナウンさんのお証が本当に素晴らしいので、次回はイエスさまの恵みを最大に受けるためにはどうしたらいいのか……について、少し書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
>>肝硬変で余命宣告
私は、1972年に主を仰ぐようになりました。それまで私は宗教人で教会に通ってはいましたが、新しく生まれた体験がありませんでした。自分が好きで教会に行っていたのではなく、義務的に行っていたのです。ですから、やはり信仰生活は世間的なものでした。私は元カトリックでした。アメリカに来たのは1962年です。当時はカトリック教会に韓国人の神父はいませんでした。だから告白(告解)ができません。カトリックでは告解しないと罪が赦されませんね。英語で十分話せませんから、どうしてもアメリカのカトリック教会に行く事ができませんでした。それで仕方なく当時、長老教会があったので、たまに行っていました。
しかし、飲み過ぎて、飲むというのは水をたくさんならいいですけど、アルコールをたくさん飲んで体がダメになってしまい、アルコール中毒になりました。そして、肝硬変になりました。私のお医者さんはとっても正直な方で、それは幸いだったんですが、日系2世のドクター・オガワという、その方が私に言いました。「あなたはもう最後ですよ。もうあきらめなさい」、「冗談でしょう」、「いいや冗談ではない。もうどういうドクターでもあなたを治すことはできません。手術なんてしたって治らない」と。そして私は死の問題を考えました。もちろんそれまで天国とか地獄とか、教会でたくさん説教を聞きましたけど、でも自分自身はどこに属しているか知らなかったのです。ドクターが私は死ぬと言ったので、死んだらどこに行くんだろうと考えたんですが、私は全く知らなかった。天国はあるかもしれないし、地獄はあるかもしれない。そして、本当に主が生きておられるかも知らなかったんですよ。
では、死ぬ前に一度主に会ってみましょうと心を決めて悔い改めたのが、一月半くらい経った時でした。そして御霊(=聖霊なる神様)の声を聞くようになったんです。びっくりしました。誰もいないのに声がして、お前は死なないぞって。そしてそれから私が御霊から語られたのは、ヨハネの15章、ぶどうの木のたとえのところです。ぶどうの枝が木と離れていると乾いて死んでしまいます。しかし、そこにつながっているとそこから養分をとって、花も咲く、実もなるというのを。それから私は、はっと一人にわかに立ち上がりました。そして死ということにまったく恐れがなくなったのです。それから、コリント第2の手紙5章17節のみことばです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」ハレルヤ、アーメンです。それを私は体験したのです。どこかの有名な先生が私に教えたのでもなく、勉強して学んだのでもなく、悔い改めをしたら天国が来たのです。天国が来る方法は悔い改めをすることです。だからヨハネも言ったし、主イエス・キリストも一番最初のメッセージがそれだったのです。「悔い改めなさい。天国が近づいた」天国を体験するのは悔い改めしかないのです。それを体験した後、私はもう死の問題は恐れもなにもなくなりました。
その後、6日目から聖霊様に導かれて、路上に出て、路傍伝道をしました。ロサンゼルスのダウンタウンに行って、叫び出したんです。私は伝道する方法が全然わかりませんでした。でも大胆になって、「みなさん。主イエス・キリストは生きておられます。主は愛です。みなさん戻ってきなさい。そうすれば、あなたも生きます。あなたも救われて、あなたの家族も救われます」と英語で叫び出したんです。その時始めて以来、ずっと今まで38年になっています。オガワ先生は、「3カ月ないし、4カ月残っていますよ」と言われたんですけど、いままで38年生きてもまだ元気です。ハレルヤ。栄光を主に差し上げます。
(『奇跡の祈祷院~荒野に道が、荒地に川が①~ピーター・ナウン』雲の間にある虹、2012年6月号より)
「父と子と聖霊の御名によって」って、「なんか聞いたことあるけど、意味はよくわかんない」とか、「キリスト教のなんかだよね?」っていう場合が多いかもしれません。
わたしも高校生くらいの時、世界史の授業で、父なる神と子なる神(イエス・キリスト)と聖霊、これをキリスト教の三位一体の神という……みたいなことを習い、本当の実質的な意味はわからないながらも(先生もそこまでは説明してくれませんしね^^;)、テストで( )の中の空欄に「三位一体」とか書いて点数をもらった記憶があります。
ここでは三位一体について詳しくは触れませんが、「聖霊(御霊)」さまというのは、キリスト教における三位一体の神の第三位格です。そしてこの「聖霊」ということについて、ノンクリスチャンの方にもわかるように説明するにはどうしたらいいのかな……というのをずっと思っていて、そんな時に「雲の間にある虹」のバックナンバーを読み、ピーター・ナウンさんの証を何年かぶりにお読みしたのでした。
ピーター・ナウンさんの場合は、聖霊さまの声をかなりはっきり聴いたという形ですけれども、こうした経験というのは実は「誰でも」「いつでも」とはいかないかもしれません。わたし自身の場合でいうと、教会へ通いはじめて牧師さんに「聖霊のバプテスマを求めるように」と勧められ、それで祈りの中でずっと「聖霊のバプテスマが与えられますように」と祈っていました。
正直、わたしの場合は一体いつ聖霊さまが注がれたのか、自分ではよくわかっていません(^^;)ただ、ずっと祈っていた時に「あーっ、そっか。これが聖霊さまっていうことだ!」みたいに、体験的に理解したという形でした。
よく言われるのは、聖霊の注ぎかけを受ける時に異言の賜物が開かれるということだったのですけど、わたしの場合はそういうことはなかったんですよね。けれど、教会の日曜礼拝で牧師さんご夫妻や教会員の方などが異言も交えて祈ったりされていたので、「異言」というのが何かというのはわかっていました。
なんにしても、「聖霊さまの声を聴く」、「聖霊さまを通してイエスさまの語りかけを聴く」というのは、クリスチャンにとっては普通のことであり、キリスト教信者、クリスチャンというのはこうした「ああ、あなたもあの体験をされたのですね」ということで一致している宗教集団といっていいのではないでしょうか。
ピーター・ナウンさんもおっしゃっておられるように、カトリック信者・プロテスタント信者の双方に、この聖霊を受けている人・受けていない人の両方が存在すると思います。つまり、カトリック・プロテスタントの双方に、両親が信者で教会へ連れていかれ、その後習慣的に通い続けたけれども実は聖霊を受けていない……といった方というのは実際におられます。
イエスさまが我々全人類のために十字架にかかってくださったとか、キリスト教の教義については教師並に詳しく、日曜礼拝にも欠かさず出席し、多額の献金もし、聖書研究会や祈り会などにもなるべく出席する――といった生活を仮に送っていたとしても、もし聖霊さまの注ぎかけを受けてないなら、そうした信仰生活というのは壁にぶち当たった時に挫折しやすいと思うんですよね。
前回「隣のイエスさま」という記事で、わたしたちの汚い感情や醜い物思いといったものも、イエスさまは引き受けてくださる……と書いたのですが、このことも、イエスさまの十字架の「信じ方」が違う方であれば、反発を覚えるかもしれません。つまり、そのようなものをイエスさまにお預けするなどとんでもない――といったように考え、そうした事柄については自分自身で背負うべきだといったように行動するということですよね。
でも、これは本当にイエスさまのせっかくの恵みを無駄にする、もったいない信じ方だと思います(^^;)
今回、わたしのこの文章のほうはまるでなっていませんが(笑)、ピーター・ナウンさんのお証が本当に素晴らしいので、次回はイエスさまの恵みを最大に受けるためにはどうしたらいいのか……について、少し書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます