神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしが神を信じても、神に得なことはひとつもない。

2018年04月02日 | キリスト教
【山高帽の男】ルネ・マグリット


 タイトルどおり、わたしがキリスト教の神であるイエス・キリストのことを信じても、イエスさまには実際、なんの得なところもなかったのではないかと思います(^^;)

 イエスさまが十字架におかかりになったのは、確かに二千年以上も昔にただ一度だけ起きた歴史的出来事ですが、それと同時に神さまは今も生きて働いてくださるので、わたしたちが何か罪を犯すたびに十字架に再びかかってくださいます。そして悔い改めたわたしたちが御前に出る的、その贖いの血によってすべての罪からわたしたちを清めてくださいます。


 >>神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

(ヨハネの手紙第一、第4章9~11節)


 唐突ですが、「あなたにはこの神さまの愛がわかりますか?」と聞かれたりしたら、ノンクリスチャンの方はたぶん、「え~っと。なんでしょうな。わかるような、わからないような……」といったように非常に困惑されるのではないでしょうか(^^;)

 イエスさまは、自分を救世主(メシア)と信じようとしない人々に、わたしを神の子と信じられなくても、わたしの行う業を信じなさいとおっしゃいました。

 それはどういうことかというと、イエスさまは目の見えない方の目を癒して見えるようにしてくださったり、長く精神病で苦しんでいる人の体から悪霊を追い出して正気に戻してくださったり、さらには自分がこれから行うことのしるしとして、ラザロという一度死んで四日も経った方を甦らせてくださったりしました。

 つまり、自分の言っていることを信じられなくても、こうした自分の奇蹟の業を信じて神を崇めなさいとおっしゃったのです。

 もちろんイエスさまは、自分がいくらそう言ったところで、あるいは自分がどんなに優れた業を行ったところで……のちに自分を十字架にかけることになるパリサイ人といった人々が信じることはないとご存知でした。

 けれどもイエスさまは、「自分がどんなに善に励もうとも、結局最後は十字架にかかって死ぬんだから、こんな人間どものために何ひとつとしていいことなんかしてやるまい」とは思わず、愛と慈しみを施すことを決して厭いませんでした。

 何故でしょう?わたしたち人間も最後には<死>ということが定められているわけですが、もし自分がいつ死ぬのか、またどんなふうに死ぬのか、その死に方まで最初からわかっていたとしたら――「あなたは三十三歳くらいで、十字架にかけられ苦しみの極みを味わい尽くして死ぬよ」とわかっていたら……正直、わたしなら自分以外の誰かを助ける気力など、微塵もわいてこないような気がします。

 それなのに、イエスさまは出会うすべての人に愛と慈しみを施すことを惜しまれませんでした。つまりは、それが他でもない「無償の神の愛」であり、イエスさまはそのことを行動でお示しになったのでした。

 今のこの世の中でも、「神の愛など感じたことがない」という方はきっとたくさんいらっしゃると思います。また、聖書の言葉だけを引用して、「イエスさまってこんな方」とか「イエスさまは愛の方」とか言われても……もしかしたら「へえ~。そうなんですか」くらいな感じかもしれません。

 けれども、真実の信仰には必ず業が伴うというのは本当のことですし、それはたとえばこんなことです。

 たとえば、あなたに誰かとても憎い人がいて、出来ればその人のことなど考えたくもないのに、その人にされたあんなことやこんなことについて繰り返し考えてしまうとか、過去に起きたあんなことやそんなことについて、くよくよ悩んでも仕方がないのに、何故自分はあの時ああしてしまったんだろうとかこうしてしまったんだろう……といったように習慣的に考えていたとします。

 こうした種類の「考えたくもないのに考えてしまう」とか、あるいはアルコール中毒や麻薬中毒など、「自分の努力でやめようとしてもやめられない」といった事柄があるとして……神さまによって、祈りによってそれらのことから解放されるといった場合、イエスさまを信じると、聖霊さまによって次のようなことが起きることがあります。

 これはあくまでたとえ話ですので、どんな人にもイエスさまを信じるならまったく同じことが起きるというのではなく、起き方や癒され方は様々あるにしても、聖霊さまによって癒されるというのは、こんな感じのことです。

 ある時、「わたしはこのことを繰り返しくよくよ悩んでしまいます。こうした物思いから解放されたいと思うのですが、ふと気づくといつでもそのことを考えているのです。どうかイエスさま、こんな惨めなわたしのことをお助けください」……と祈っていたら、頭の中を目に見えない真っ白な鳩がサッと走っていき、以降、その悩み抜いたことについて、ほとんど何も頭に浮かんでこなくなった――といったようなことです。

 こうしたことって、「自分の力によっては無理」、「努力してやめられることではない」という種類のことだと思うのですが、そのようなことが祈りの中で起きて以降、まったくアルコールや麻薬のことを考えなくなったり、くよくよ思い悩むことをやめた……といった方がおっしゃることというのは、「自分には出来ないことを、神さま、イエスさまが代わりになしてくださった」ということです。

 また、こうした救いの経験を祈る中で、神さまを賛美する中で、教会の中で経験するからこそ……キリスト教というものはその発祥以来、信者数が伸び続けているのであり、今も信じる人々が絶えないのだといっていいのではないでしょうか。

 わたしが神さまのことを信じても、神さまにはなんの得なところもないはずなのに、神さまは今日も、今この瞬間も、わたしだけでなく、御自身を信じる人々のために、ありとあらゆるよいことをし続けてくださいます。

 どうか、「ここに神さまの愛がある」ということを、ひとりでも多くの方が信じ、その救いと解放の業にあずかることが出来ますように

 それではまた~!!





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