さて、いよいよ『関ヶ原ウォーランド』の合戦場へ、いざ!
ここでは400年の時を経て、今でも戦が続いてます。
そこそこ広い敷地内に実物大のコンクリート像が、これでもかっ!ってくらい
数多く配置されてます。
笑っちゃいけませんよ、ごくごく真面目に作られてると思われます。
・・・維持管理は、かなり手抜きのようですがw
それでも人物や要点の解説立て札も数多くあり、興味があれば楽しめます。
関ヶ原の地は、ほぼ四方を山に囲まれた窪地と言える地形、
中山道(R21)、北国街道・伊勢街道(共にR365)が交わる交通の要所。
名神高速も通ってます(カンケイナイカ)
西軍は満を持して山手「笹尾山」「天満山」「松尾山」「南宮山」と東軍を
囲むように完璧な鶴翼の陣形。全てが三成の采配通り働けば、勝利間違いなし。
・・・だったはずですが。
「南宮山」の様子かな?西軍総大将にまつられた毛利輝元により派遣された
毛利秀元の大軍が陣取ります。(輝元は関ヶ原には来ていない)
写真手前は安国寺さんかな、やる気マンマンのは長宗我部くんかな。
しかしこの軍勢、結果的に戦うことなく山を越え伊勢街道から逃げ帰ります。
「ちょっと、にいちゃん。どいたりぃや」
その訳は、この吉川くん。毛利さんの身内ですが、家康と内通。
家康から「ご褒美沢山あげるよ、毛利さんの責任も問わないし領地も
そのまま保護するからね」って確約してもらってたから、毛利のためと
味方の進軍をはばんじゃった。三成の命令通り進軍してれば、家康本陣の
背後に回り東軍を囲めてたのに・・・
ちなみに戦後、毛利は領地減封、萩に追いやられます。
戦は たけなわのようです
あれっ!・・・ピクニックですか~
狙われてますよ~!
思いっきり頑張ってる人もいます。
ルンルンな人もね・・・
颯爽とカッコいい赤揃えのこの人は、東軍 井伊直政さんです♪
この戦での功績で、戦後は三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)
18万石をもらっちゃいました。そして彦根城を築城、しかし完成を見ずに
この時の戦闘で受けた傷により死去。その亡霊が今、ひこにゃんとして・・・ウソ
これはまた、イメージダウンな、島左近くん。鬼の左近と言われたほどのお人が。
官僚である三成は戦の経験も自信もなく「島さんに所領の半分やるから
軍師になってくれ」って頼んだほどの猛将だったのに・・・
実は戦闘が始まってすぐに鉄砲で撃たれて瀕死の重傷w
石田軍の戦意も喪失気味に・・・
笹尾山に陣取る三成本陣、前陣のしまさこちゃんが戦闘不能になったのは
痛手だったでしょう。
頼みの島津軍は三成の進軍要請を拒否、動きません。
あろうことか戦況不利とみるや果敢にも敵中突破の敗走をするはめに。
前面の徳川軍を蹂躙しながら進む勢いは凄まじかったようで、1,500の軍勢が
80にまでになりながらも敗走に成功、その軍力が攻めに使っていたら・・・
内通、内応(寝返り)と謀反が相次いだ この戦い。
最大のキーポイントとなったのは、やはり小早川秀秋の内応と言われてます。
鶴翼の陣形では重要、且つ戦況がひと目で見渡せる松尾山に、本来は違う部隊が
居たのを押しのけて陣取った小早川軍。
三成の再三の出撃要請にも知らん顔。内応の約束を取り付けていた家康からも
早よ、寝返りせい!の要請が・・・
それでも動かない秀秋くんにしびれを切らした徳川軍が松尾山に向けて一斉射撃。
家康のおっちゃん、怒ってるぅ~っと慌てて、西軍に向けて攻撃開始。
「天下の裏切り者」と後々まで言われることに・・・
大軍で反逆するも、裏切りを察知していた大谷吉継の部隊に押し返され
なかなか突破できずにいるのをみて、これまた内応していた
赤座、小川、朽木、脇坂の各隊が一斉に大谷隊に襲いかかり、大谷隊はあえなく全滅。
これをもって、西軍は総崩れとなり、戦いの体勢は決着することに。
ちなみにその後、秀秋くんは、ご褒美いっぱいもらったのに2年後に発狂、
死後はお家断絶・・・
赤座、小川、朽木、脇坂は、ご褒美もなく。それどころか領地没収されたり。
裏切りを唆しておきながら、裏切るような奴は味方にできん!ってことでしょうか?
ん、何やら深刻な顔で憂鬱そうですが、見つめる先は
うへっ!家康の元に続々と運ばれていく生首・・・
家康が首実検(敵将の確認)する床几場。
こんなん見たら、子供が怖がるやろに・・・泣き出す子もいるんちゃう?
平気なようで・・・w ゲームやアニメで慣れてるのかな。
あれ?こちらではラブシーン?
タイマンのようでした(一騎打ちって言えや!)
アイタッ! 私のような平和主義者を・・・やめてよね。
何で武田信玄やねん!と思うのはさて置き、
この悲惨な戦国史上最大の合戦。戦死者は両軍合わせて36,600余人(推測)
午前8時開戦から午後3時、東軍勝利で終結。
ちなみに8.30総選挙は原則午前8時30分~午後8時00分ってとこでしょうか。
ま、とにかくこの戦いの3年後には家康は徳川幕府を開き、維新までの間
以後260余年の長きにわたりその政権は続くことになります。
長期政権は不満を募らせ、新たな政権へと移行…それは歴史が教えてくれます。
現在の日本の民主主義は太平洋戦争後だとすれば、わずか60数年。
今後の日本の姿は・・・それは我々ひとりひとりが考えねばネ!
※関ヶ原の合戦に関しては、その経緯などまだまだ書きたりませんが・・・
ひとつふたつ、かい摘んで補足しておきます。
まず、西軍の一大勢力でありながら戦場には来なかった上杉景勝・直江兼続は・・・
山形にて、家康の意向を受けた伊達・最上連合軍と裏関ヶ原というか
長谷堂城の戦いなど激戦ちゅうでした。もちろん上杉軍には前田慶次も居りましたよ。
元はと言えば、この年の正月。家康が「わしに挨拶に来いや」と大名達を
呼びつけたにもかかわらず、上杉だけは「嫌や!何でお前なんかに」って拒否したのが始まり。
家康は、それを上杉謀反と決めつけたのに直江兼続が反発、
「エエ加減にしときやオッサン、あほちゃう!調子乗ってたらあかんでぇ、
やれるもんならやってみぃ~!出て来いやぁ!!!ボケーッ!」ってな内容の
『直江状』を叩きつけた。家康それに激怒(想定内だったとも)大阪で兵を挙げて
上杉を討ちに行く最中、留守になった大阪ですかさず三成が家康打倒の兵を起こし
伏見城に残る家康家臣の鳥居元忠を攻め滅ぼす。
この時の三成は、その前に豊臣家臣の武闘派7人衆から命を狙われ、
家康の仲裁により保護されていた身、その条件は謹慎、更迭といったところか。
後で思えばこの武闘派達(福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長)関ヶ原では東軍。
家康はすぐさま取って返すかと思えば、江戸で各大名にメールを打ちまくる!
もちろん内容は、沢山のご褒美とハートマーク。
上杉、佐竹の北の脅威を抑え込む手はずを整えて、いざ関ヶ原へと向かうことに。
合戦場に間に合わなかった東軍と言えば、二代目将軍となった徳川秀忠。
38,000の大軍を率いて、途中2,000の兵が守る上田城を落とせず、てこずってたのです。
上田城には徳川軍を離脱、西軍に味方した真田昌幸・真田幸村の父子が居りました。
さて、天下の裏切り者とされてる小早川秀秋ですが・・・
もともと秀吉の養子であり、豊臣家の跡継ぎ候補でもあったのですが、
秀吉は、実子(秀頼)ができてその子に家督を継がすため必死、すでに関白職を譲り
跡継ぎ同然だった甥の秀次に謀反の気配ありと、秀次の血筋をことごとく殺してしまいます。
そして、秀秋も追放同然、小早川家に養子に出されてしまうわけで・・・
秀秋は三成のチクりによって所領を減らされたり、恨みを持っていたし、逆に
家康には再三、助けられてますから。家康大好き。でもお家の立場上は西軍。
寝返るのも当然、責められません。
毛利輝元も然り、家康とは義兄弟の契りを結んだほど親家康派。
西軍総大将になりながら、戦場には来ず、その大軍を戦わずして退いたのも
せめてもの報い。内通していた吉川広家にしても毛利家大事でしたこと。
後に毛利領地減封の裁定の際は、自分がもらった領地を毛利にと進言したほど。
この裁定を下した家康にしても実は、毛利の総大将は有名無実であると聞かされて
いたのに、実は輝元は諸大名に西軍加入の激を飛ばしていたのが発覚したからであり
騙した訳では無いようです。
さてさて、話は尽きることが無いようですが・・・
石田三成にしろ、徳川家康にしろ、豊臣政権内に生じた対立を修復し、
天下を安定させ自分の理想政治を望んでのことだったのでしょう。
ここでは400年の時を経て、今でも戦が続いてます。
そこそこ広い敷地内に実物大のコンクリート像が、これでもかっ!ってくらい
数多く配置されてます。
笑っちゃいけませんよ、ごくごく真面目に作られてると思われます。
・・・維持管理は、かなり手抜きのようですがw
それでも人物や要点の解説立て札も数多くあり、興味があれば楽しめます。
関ヶ原の地は、ほぼ四方を山に囲まれた窪地と言える地形、
中山道(R21)、北国街道・伊勢街道(共にR365)が交わる交通の要所。
名神高速も通ってます(カンケイナイカ)
西軍は満を持して山手「笹尾山」「天満山」「松尾山」「南宮山」と東軍を
囲むように完璧な鶴翼の陣形。全てが三成の采配通り働けば、勝利間違いなし。
・・・だったはずですが。
「南宮山」の様子かな?西軍総大将にまつられた毛利輝元により派遣された
毛利秀元の大軍が陣取ります。(輝元は関ヶ原には来ていない)
写真手前は安国寺さんかな、やる気マンマンのは長宗我部くんかな。
しかしこの軍勢、結果的に戦うことなく山を越え伊勢街道から逃げ帰ります。
「ちょっと、にいちゃん。どいたりぃや」
その訳は、この吉川くん。毛利さんの身内ですが、家康と内通。
家康から「ご褒美沢山あげるよ、毛利さんの責任も問わないし領地も
そのまま保護するからね」って確約してもらってたから、毛利のためと
味方の進軍をはばんじゃった。三成の命令通り進軍してれば、家康本陣の
背後に回り東軍を囲めてたのに・・・
ちなみに戦後、毛利は領地減封、萩に追いやられます。
戦は たけなわのようです
あれっ!・・・ピクニックですか~
狙われてますよ~!
思いっきり頑張ってる人もいます。
ルンルンな人もね・・・
颯爽とカッコいい赤揃えのこの人は、東軍 井伊直政さんです♪
この戦での功績で、戦後は三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)
18万石をもらっちゃいました。そして彦根城を築城、しかし完成を見ずに
この時の戦闘で受けた傷により死去。その亡霊が今、ひこにゃんとして・・・ウソ
これはまた、イメージダウンな、島左近くん。鬼の左近と言われたほどのお人が。
官僚である三成は戦の経験も自信もなく「島さんに所領の半分やるから
軍師になってくれ」って頼んだほどの猛将だったのに・・・
実は戦闘が始まってすぐに鉄砲で撃たれて瀕死の重傷w
石田軍の戦意も喪失気味に・・・
笹尾山に陣取る三成本陣、前陣のしまさこちゃんが戦闘不能になったのは
痛手だったでしょう。
頼みの島津軍は三成の進軍要請を拒否、動きません。
あろうことか戦況不利とみるや果敢にも敵中突破の敗走をするはめに。
前面の徳川軍を蹂躙しながら進む勢いは凄まじかったようで、1,500の軍勢が
80にまでになりながらも敗走に成功、その軍力が攻めに使っていたら・・・
内通、内応(寝返り)と謀反が相次いだ この戦い。
最大のキーポイントとなったのは、やはり小早川秀秋の内応と言われてます。
鶴翼の陣形では重要、且つ戦況がひと目で見渡せる松尾山に、本来は違う部隊が
居たのを押しのけて陣取った小早川軍。
三成の再三の出撃要請にも知らん顔。内応の約束を取り付けていた家康からも
早よ、寝返りせい!の要請が・・・
それでも動かない秀秋くんにしびれを切らした徳川軍が松尾山に向けて一斉射撃。
家康のおっちゃん、怒ってるぅ~っと慌てて、西軍に向けて攻撃開始。
「天下の裏切り者」と後々まで言われることに・・・
大軍で反逆するも、裏切りを察知していた大谷吉継の部隊に押し返され
なかなか突破できずにいるのをみて、これまた内応していた
赤座、小川、朽木、脇坂の各隊が一斉に大谷隊に襲いかかり、大谷隊はあえなく全滅。
これをもって、西軍は総崩れとなり、戦いの体勢は決着することに。
ちなみにその後、秀秋くんは、ご褒美いっぱいもらったのに2年後に発狂、
死後はお家断絶・・・
赤座、小川、朽木、脇坂は、ご褒美もなく。それどころか領地没収されたり。
裏切りを唆しておきながら、裏切るような奴は味方にできん!ってことでしょうか?
ん、何やら深刻な顔で憂鬱そうですが、見つめる先は
うへっ!家康の元に続々と運ばれていく生首・・・
家康が首実検(敵将の確認)する床几場。
こんなん見たら、子供が怖がるやろに・・・泣き出す子もいるんちゃう?
平気なようで・・・w ゲームやアニメで慣れてるのかな。
あれ?こちらではラブシーン?
タイマンのようでした(一騎打ちって言えや!)
アイタッ! 私のような平和主義者を・・・やめてよね。
何で武田信玄やねん!と思うのはさて置き、
この悲惨な戦国史上最大の合戦。戦死者は両軍合わせて36,600余人(推測)
午前8時開戦から午後3時、東軍勝利で終結。
ちなみに8.30総選挙は原則午前8時30分~午後8時00分ってとこでしょうか。
ま、とにかくこの戦いの3年後には家康は徳川幕府を開き、維新までの間
以後260余年の長きにわたりその政権は続くことになります。
長期政権は不満を募らせ、新たな政権へと移行…それは歴史が教えてくれます。
現在の日本の民主主義は太平洋戦争後だとすれば、わずか60数年。
今後の日本の姿は・・・それは我々ひとりひとりが考えねばネ!
※関ヶ原の合戦に関しては、その経緯などまだまだ書きたりませんが・・・
ひとつふたつ、かい摘んで補足しておきます。
まず、西軍の一大勢力でありながら戦場には来なかった上杉景勝・直江兼続は・・・
山形にて、家康の意向を受けた伊達・最上連合軍と裏関ヶ原というか
長谷堂城の戦いなど激戦ちゅうでした。もちろん上杉軍には前田慶次も居りましたよ。
元はと言えば、この年の正月。家康が「わしに挨拶に来いや」と大名達を
呼びつけたにもかかわらず、上杉だけは「嫌や!何でお前なんかに」って拒否したのが始まり。
家康は、それを上杉謀反と決めつけたのに直江兼続が反発、
「エエ加減にしときやオッサン、あほちゃう!調子乗ってたらあかんでぇ、
やれるもんならやってみぃ~!出て来いやぁ!!!ボケーッ!」ってな内容の
『直江状』を叩きつけた。家康それに激怒(想定内だったとも)大阪で兵を挙げて
上杉を討ちに行く最中、留守になった大阪ですかさず三成が家康打倒の兵を起こし
伏見城に残る家康家臣の鳥居元忠を攻め滅ぼす。
この時の三成は、その前に豊臣家臣の武闘派7人衆から命を狙われ、
家康の仲裁により保護されていた身、その条件は謹慎、更迭といったところか。
後で思えばこの武闘派達(福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長)関ヶ原では東軍。
家康はすぐさま取って返すかと思えば、江戸で各大名にメールを打ちまくる!
もちろん内容は、沢山のご褒美とハートマーク。
上杉、佐竹の北の脅威を抑え込む手はずを整えて、いざ関ヶ原へと向かうことに。
合戦場に間に合わなかった東軍と言えば、二代目将軍となった徳川秀忠。
38,000の大軍を率いて、途中2,000の兵が守る上田城を落とせず、てこずってたのです。
上田城には徳川軍を離脱、西軍に味方した真田昌幸・真田幸村の父子が居りました。
さて、天下の裏切り者とされてる小早川秀秋ですが・・・
もともと秀吉の養子であり、豊臣家の跡継ぎ候補でもあったのですが、
秀吉は、実子(秀頼)ができてその子に家督を継がすため必死、すでに関白職を譲り
跡継ぎ同然だった甥の秀次に謀反の気配ありと、秀次の血筋をことごとく殺してしまいます。
そして、秀秋も追放同然、小早川家に養子に出されてしまうわけで・・・
秀秋は三成のチクりによって所領を減らされたり、恨みを持っていたし、逆に
家康には再三、助けられてますから。家康大好き。でもお家の立場上は西軍。
寝返るのも当然、責められません。
毛利輝元も然り、家康とは義兄弟の契りを結んだほど親家康派。
西軍総大将になりながら、戦場には来ず、その大軍を戦わずして退いたのも
せめてもの報い。内通していた吉川広家にしても毛利家大事でしたこと。
後に毛利領地減封の裁定の際は、自分がもらった領地を毛利にと進言したほど。
この裁定を下した家康にしても実は、毛利の総大将は有名無実であると聞かされて
いたのに、実は輝元は諸大名に西軍加入の激を飛ばしていたのが発覚したからであり
騙した訳では無いようです。
さてさて、話は尽きることが無いようですが・・・
石田三成にしろ、徳川家康にしろ、豊臣政権内に生じた対立を修復し、
天下を安定させ自分の理想政治を望んでのことだったのでしょう。
長男の信康が生きていればですね。
島左近が情けなくされているのは
負け組みに属しているのでしかたなかですね。
最近歴史小説をよんでないなー。。
播磨灘物語(黒田家)も、読もう、読もうと思って3年も経っているし(笑)
島の左近と佐和山の城」
今、ここまでして召抱えたくなる人(政治家)
いませんよね。。。
島左近は北斗の拳でおなじみ原哲夫先生の作品
「SAKON」でメチャクチャ不死身に書かれてます(笑)
「花の慶次」もパチンコは知りませんが、中身は非常に
良い作品です
しかし『日和る・寝返る・二枚舌』の歴史は
繰り返すのね(汗)
ルンルンの武者・・・・(爆)
痛いのいやだから・・
しかし、今時の子供・・・
いくらコンクリート像とはいえ
生首を前に家康に角とは・・
思わず笑っちゃいましたが
おー怖っ
もう少しマシな人形、用意できんかったのかな・・
でも流石は関が原! メジャーな名前がばんばん出てきますね。
オラももう400年ちょっと早く生まれていれば西軍のイケメン若武者として歴史に名を・・
無理か(^^;
きっと メンドクサイから不参加だな。
TVや映画は歴史物が好きなんですけどね、特に甲冑もの(^_^ゞ
播磨灘物語、面白そうですね。映画化してくれないかな。
「かけまよう伊吹の山のさしもぐさ
さしもはかなき身のゆくへかな」三成の辞世の句でした。
過ぎたるモノを得てもはかなく逝ってしまったようですw
島左近、鬼の形相で敵は恐ろしくて顔も見られなかったようですよ。
相当なもんだったんでしょうね。花の慶次、私はパチンコのCMで知りました(^_^ゞ
『愛・義』は難しいですかね・・・
生首、写真を撮っていてブログに出せるかなって思ってましたもん。3枚も出したけど・・・
いつの時代も暴力、殺し合いはヤですね!
みんな2頭身で可愛過ぎる?
聞き覚えのある名前ばかりだけど、戦国時代は苗字や名前が
ころころ変わるし、似たような名前が多くて頭で整理し切れんようになるわ!
不参加!あかんあかん!信念を貫き立派な生首に・・・
カッパさんの記事。
人形はちょっと悲しい感じのつくりですね。この施設採算とれているのかな。
誰がどんな感じでつくったのかな。
この人形。
人形に囲まれて、何か不思議なスペースでした。
でもこの人形なら憑いて来る心配は無さそうでしょ