第四番札所 施福寺に続いてこちらも大阪府。河内地方の古刹です。
地名、藤井寺市と市の名前にもなっているので、ちと紛わしいですが
お寺の方は『紫雲山 葛井寺(しうんざん ふじいでら)』と、漢字が違います。
河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、葛井寺も百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の白猪氏(後に葛井氏と改名)が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、創建された氏寺が始まりのようです。
永正七年(1510)の勧進帳によると、聖武天皇の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。と伝えられてます。
ただし、たびたびの戦火に見舞われ、更に永正七年(1510)の大地震で寺の諸堂がすべて倒壊したようである。そのあと修復は主に江戸時代に再建され、現在の規模になったといわれています。
はっきり言って、今はそれほど大きなお寺ではありません。境内もこじんまり、住宅街に埋もれてる感じ。周りの道も細くて、迷い込んでしまうと大変・・・きっちり迷い込みましたが。(^_^ゞ
少し(いや、かなり?)離れたところに専用駐車場って有料の駐車場があります。
駐車場からてくてく歩くこと数分、南大門に到着。
朱に塗られた仁王門ですが、かなり色あせてます・・・
表には仁王さんが、
そして裏には・・・
のぞき込んで見てみると
片方には千手観音ともう一方には地獄絵?
烏枢沙摩閣(うすさまかく)=お手洗いのことだそうで。
うすさま明王は悪や汚れを清める神です。汚れを清める所=お手洗い。なのかな?
南大門を入って真っ正面が本堂、真っすぐに石畳がひかれてますが、その真ん中に青銅製の灯籠?どう見ても灯籠なのに『青銅鳥居』と呼ばれているそうです。
その先の石灯籠は『紫雲石灯籠』聖武天皇御寄附となってます。
大阪府指定美術品だそうですが、傷みが激しく本物は裏庭で保存、これは明治に作られたレプリカです。
紫雲石灯籠の右手には立派な松の木が。
南北朝の動乱期、楠正成が本尊に戦勝祈願をしたとき、菊水の旗を掛けた木ということで『旗掛けの松』と呼ばれてます。
謂れが書かれているようですが・・・読めへん。(^_^ゞ
この松、「三鈷の松」とも呼ばれ、楠正成が三人の息子にこの松(三葉の松)にちなみ力を合わせるよう誓わせたそうです。
ここにも役行者さん。
そして、「弘法大師修行像」
「大師堂」も建てられてます。
「観音堂」
「鐘楼」なかなかいい感じの鐘楼ですね。
「専心龍乗観世音菩薩」比較的新しい銅像のようですが、凝ったものです。
ありゃ、なんか顔に見える・・・(^_^ゞ
「出世地蔵大菩薩」
どんな出世を望んでいるのでしょう・・・?
きょろきょろしてる内に、本堂へ。
本堂には、国宝『十一面千手千眼観世音菩薩坐像』が置かれています。
毎月十八日の観音会の日だけご開帳され、多くの参拝者で賑わうようです。
この観音像、天平仏像脱活乾漆造。大の手2本、中の手40本、小の手1001本、計1043本の手を持つ。十一面の顔に真数の1043臂千眼の観音菩薩であり、日本最古の千手観音なんだそうです。
よくある千手観音像って後ろから出ている手は40本ほど(1本で25の世界を救うって考え方から)なんですが、ここのは本当に千本(それ以上)あって全ての手の平には目が刻まれているそうです。
唐招提寺の千手観音像などと同様に、千本の手を持つ珍しい観音像なのです。
この中に・・・
もちろん厨子は閉められているので姿は見られませんが、
ご開帳の時も撮影はもとより、双眼鏡などで覗くのも禁止だそうです。
知らずに写真撮ってましたがどうせ、反射で中は写らず。(^_^ゞ
お馴染、賓頭盧さん。
このお寺、ふじい寺の名にちなんでか藤棚がいっぱいありました。
花が咲く季節には見事でしょうね。
「護摩堂」と「手水舎」弘法大師手掘り井戸と書かれてました。
さて、西の門は・・・
『四脚門』慶長6年(1601)に豊臣秀頼により建立された旧南大門を天明5年(1785)にここに移築したものといわれており、葛井寺で現存する最古の建物であり、国の重要文化財に指定されている。
この門のすぐ横は葛井寺商店街?アーケード通りになってます。
第五番札所『紫雲山 葛井寺』(2011.10/16)
○宗派:真言宗御室派 ○開基:行基
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:神亀2(725)年
御詠歌「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」
地名、藤井寺市と市の名前にもなっているので、ちと紛わしいですが
お寺の方は『紫雲山 葛井寺(しうんざん ふじいでら)』と、漢字が違います。
河内文化は、飛鳥時代・奈良時代にかけて発展し、葛井寺も百済王族「辰孫王」の子孫王仁氏一族の白猪氏(後に葛井氏と改名)が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、創建された氏寺が始まりのようです。
永正七年(1510)の勧進帳によると、聖武天皇の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。と伝えられてます。
ただし、たびたびの戦火に見舞われ、更に永正七年(1510)の大地震で寺の諸堂がすべて倒壊したようである。そのあと修復は主に江戸時代に再建され、現在の規模になったといわれています。
はっきり言って、今はそれほど大きなお寺ではありません。境内もこじんまり、住宅街に埋もれてる感じ。周りの道も細くて、迷い込んでしまうと大変・・・きっちり迷い込みましたが。(^_^ゞ
少し(いや、かなり?)離れたところに専用駐車場って有料の駐車場があります。
駐車場からてくてく歩くこと数分、南大門に到着。
朱に塗られた仁王門ですが、かなり色あせてます・・・
表には仁王さんが、
そして裏には・・・
のぞき込んで見てみると
片方には千手観音ともう一方には地獄絵?
烏枢沙摩閣(うすさまかく)=お手洗いのことだそうで。
うすさま明王は悪や汚れを清める神です。汚れを清める所=お手洗い。なのかな?
南大門を入って真っ正面が本堂、真っすぐに石畳がひかれてますが、その真ん中に青銅製の灯籠?どう見ても灯籠なのに『青銅鳥居』と呼ばれているそうです。
その先の石灯籠は『紫雲石灯籠』聖武天皇御寄附となってます。
大阪府指定美術品だそうですが、傷みが激しく本物は裏庭で保存、これは明治に作られたレプリカです。
紫雲石灯籠の右手には立派な松の木が。
南北朝の動乱期、楠正成が本尊に戦勝祈願をしたとき、菊水の旗を掛けた木ということで『旗掛けの松』と呼ばれてます。
謂れが書かれているようですが・・・読めへん。(^_^ゞ
この松、「三鈷の松」とも呼ばれ、楠正成が三人の息子にこの松(三葉の松)にちなみ力を合わせるよう誓わせたそうです。
ここにも役行者さん。
そして、「弘法大師修行像」
「大師堂」も建てられてます。
「観音堂」
「鐘楼」なかなかいい感じの鐘楼ですね。
「専心龍乗観世音菩薩」比較的新しい銅像のようですが、凝ったものです。
ありゃ、なんか顔に見える・・・(^_^ゞ
「出世地蔵大菩薩」
どんな出世を望んでいるのでしょう・・・?
きょろきょろしてる内に、本堂へ。
本堂には、国宝『十一面千手千眼観世音菩薩坐像』が置かれています。
毎月十八日の観音会の日だけご開帳され、多くの参拝者で賑わうようです。
この観音像、天平仏像脱活乾漆造。大の手2本、中の手40本、小の手1001本、計1043本の手を持つ。十一面の顔に真数の1043臂千眼の観音菩薩であり、日本最古の千手観音なんだそうです。
よくある千手観音像って後ろから出ている手は40本ほど(1本で25の世界を救うって考え方から)なんですが、ここのは本当に千本(それ以上)あって全ての手の平には目が刻まれているそうです。
唐招提寺の千手観音像などと同様に、千本の手を持つ珍しい観音像なのです。
この中に・・・
もちろん厨子は閉められているので姿は見られませんが、
ご開帳の時も撮影はもとより、双眼鏡などで覗くのも禁止だそうです。
知らずに写真撮ってましたがどうせ、反射で中は写らず。(^_^ゞ
お馴染、賓頭盧さん。
このお寺、ふじい寺の名にちなんでか藤棚がいっぱいありました。
花が咲く季節には見事でしょうね。
「護摩堂」と「手水舎」弘法大師手掘り井戸と書かれてました。
さて、西の門は・・・
『四脚門』慶長6年(1601)に豊臣秀頼により建立された旧南大門を天明5年(1785)にここに移築したものといわれており、葛井寺で現存する最古の建物であり、国の重要文化財に指定されている。
この門のすぐ横は葛井寺商店街?アーケード通りになってます。
第五番札所『紫雲山 葛井寺』(2011.10/16)
○宗派:真言宗御室派 ○開基:行基
○御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩 ○創建:神亀2(725)年
御詠歌「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」
あの藤井寺市の藤井寺は藤井寺ではなくては葛井寺だったんですか!
知らなかった(^^ゞ
わりと近くの葛城山の字ですよね。
「葛井寺」って単独で書かれていても「ふじい寺」とは読めへんもんね。(^_^ゞ
まさに「葛」か「藤」なのか葛藤してしまいます。
地名はいつのタイミングかで「藤井」に変わったようです。葛井氏も藤井氏に。
寺名だけが残ったのかな?
ちょっと離れたところにあったんだ、専用駐車場。
お寺は簡単に発見できたのに・・・・
そこへ行くまでの道が・・・迷って、車幅ギリギリ、自転車とも離合できないような道だったりして。(^_^ゞ
お寺もなかなか発見できなかったです。