愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

昔日に想いを馳せた週末の朝

2012-06-12 22:48:36 | わが家のわんこたち

☆土曜日の朝はルイとふたりだけで
 土曜日は朝からあいにくの曇天、気分まで灰色に染まりそうな週末のはじまりだった。
 早めに起きて、雨が降る前にルイと散歩に出た。家人は、金曜日の夜遅くまで仕事をしていたのでぼくたちが散歩から戻ってもまだ寝ているに違いない。となると、ぼくもルイもすぐに朝食に簡単にはありつけそうにないので、途中のコンビニでハムサンドとトマトジュースを買った。

 まだ雨の気配も遠かったし、涼しかったので、いつもの休日より遠くまで足を伸ばしてみることにした。この地にきて10年、シェラやむぎと気まぐれにあちこち歩いてはいたが、住まいから少し離れればはじめての道はいくらでもある。そんな道をたどって歩いた。
 だが、それでもいつのまにかシェラやむぎと歩いたことのある道に出てしまう。ふたりの記憶がよみがえるたびに当時を思い出し、つい、ルイから意識が離れそうになる。ルイはまだ油断をすると路面の何か舐めたり、落ちているものをくわえたりしかねない。そればかりか、ただでさえ行動が奔放なのでいつもルイに意識を集中していないと何が起こるかわからない。。
 
 “集中”というとおおげさかもしれないが、シェラやむぎの時代から、散歩のとき、ぼくはできるかぎり視界の片隅に彼らの姿を入れて歩くようにしていた。歩道を平気で突進してくる自転車や、歩道のない路地をわがもの顔で走るクルマからわんこたちを守らなくてはならないし、ときには、悪意あるよその犬の突然の襲撃だってある。


☆シェラやむぎを守らなくては
 過去に二度、シェラがそんな犬に襲われ、噛まれたのをぼくは防いでやれなかった。一度はいきつけの公園で飼い主がトイレにいっている間にゴールデンレトリバーが縛られていたリードを解き、のっそりと近づいてきていきなりシェラの背中に噛みついた。幸い、シェラもぼくも寸前に気づき、とっさにかわしたので傷はかすり傷程度ですんだが、ゴールデンにも獰猛なヤツがいるのだと知って愕然としたものだった。仕返しに近くの杭へ飼主も容易に解けない縛り方でリードをくくりつけた。
 
 二度めは、近所の公園の脇を通ったとき、公園の中から躍り出た大きな日本犬が不意にシェラを襲った。シェラのほうも必死に防御したが口のまわりに傷を負った。このとき、ぼくが割って入らなかったらもっと深刻な状態になっていただろう。なぜなら相手の飼い主は犬の名前を呼ぶだけでほとんど制止する意志をみせなかったからである。ちなみにこの公園は犬の入場が禁止されている。
 
 三度目は、それから1年ほどして、同じ公園で、冬の早い夕暮れどき、同じ日本犬が飛び出してきてシェラに襲いかかった。このころは、ぼくも用心していたので相手の犬がシェラに届くより先に撃退できた。見ているだけでなかなか捕まえようとしない飼主にぼくはいった。
 「あんた、わざとリードを離したでしょう。これで二度目だよ。三度めはこの犬、殺しますよ」


☆ルイとふたりでキャンプへいったら
 わざとシェラを襲わせた――ぼくには確証があった。最初の襲撃以来、散歩の途中で出逢いそうになると、この犬はシェラを狙うようになっていた。シェラもこの犬の姿を見ると怯えた。だからだろうが、70代半ばとおぼしき飼主はわざとぼくたちに近づいてこようとする。またリードを振りほどかれたと弁解しながらシェラを襲わせるかもしれない。すでにシェラを守る自信はあったが、無用なトラブルは避けるべきだし、何よりもシェラが可哀そうなので、彼らの存在に気づくやいなやぼくはいつもコースを変えていたのである。

 そんな果ての二度目の襲撃だった。またしても突然だったが、心の備えができていたので余裕をもって反撃できた。激昂はしたが、相手の飼主を殴らずにすむ冷静さを失わなかったのがせめてもだった。
 この犬との一件があって、シェラには可哀そうなことをしたが、おかげでむぎは守りきれたし、いまもルイを守ってやる備えを忘れずにいることができる。

 土曜日の朝の散歩は、はじめてのエリアと道ゆえの緊張はあったが、小一時間を無事に終わり、近くの公園に戻った。ルイに水をやり、いきがけに買ったハムサンドをパクついた。ふだん、ぼくはルイに自分の食べ物を一切与えていなかったが、このときばかりはルイも空腹だったろうし、ぼくひとりで食べるわけにいかず、パンの部分だけをちぎって与えた。
 いずれルイとふたりだけでキャンプにいったら、そうやって食事をすることになるだろう。シェラとふたりだけでいったキャンプからもう15年の歳月が流れてしまった。

 曇天の空を見上げながら、遠い昔、シェラとふたりで過ごしたキャンプの日々に想いを馳せる。山梨・道志村の森で、奥日光で、本栖湖で、裏磐梯の湖畔で、あるいはクマの気配に怯えながら水上の山中で……。あのころは、いまのルイのようにシェラも元気いっぱいだった。

 まだ雨は降っていないのに、見上げた空がたちまち滲んで見えなくなった。



はじめての夏は山中湖から湘南の海へ

2012-05-29 23:48:25 | わが家のわんこたち

☆あのころのいたたまれないほどの辛さ
 土曜日、クルマで山中湖へ遊びにいった。翌日の日曜日はクルマを湘南へ走らせ、葉山の海岸で遊んだ。どちらも、高速道路を使えばわが家からは遠からず、近からずの適度な距離にある。そしてどちらも、まだシェラとむぎが健在で元気だったころは、四季をとおして足繁く通った思い出の場所である。

 久しぶりの山中湖だった。むぎを亡くして一度だけシェラときた記憶がかすかにある。まだルイがいなかったはずだから去年の初秋だろう。ぼくたちは寂しさのどん底にあったし、シェラもまた元気なく歩いている姿がほろ苦く思い出される。そこにいるはずのむぎがいないのが不思議に思える……まだそんな気持ちから脱けきれないでいるさなかだった。

 やがて、ルイがきて少しにぎやかになり、むぎのいない空白をルイが埋めはじめたとたんシェラのガンが発覚してぼくたちはまた新たな覚悟を強いられた。山中湖や湘南の辻堂海岸、江ノ島などへ遊びにいこうなどという気はまったくおきなかった。ただひたすらその日その日を息をひそめるようにして送っていた。シェラとの残り少ない日々がいたたまれないほど辛く思えるときがあった。

☆ルイとははじめての山中湖へ
 シェラがいなくなってしまっても、山中湖や湘南の海岸へ足を伸ばそうという気はなかなか戻ってこない。近場でさえシェラやむぎのビジョンが濃密でそこへいくのに勇気を必要としたほどだった。そこに立っただけで夥しい情景が湧き上がってきて哀しみに流されてしまいそうになる。だが、それでもぼくたちは、少しずつひとつひとつの場所にまつわる哀しみを克服してきた。むろん、まだたくさんの思い出の場所が残ってはいるけれど……。

 土曜日は山中湖を克服した。たかだか1年足らずのご無沙汰である。何も変わっていないだろうとタカをくくっていたが、やっぱりそこかしこに変化があった。山中湖の南岸に沿って延びる森林公園を歩きながら、隣接するボートハウスで飼われていた二匹の犬がいなくなっているのに気づいた。
 檻の中からシェラの姿を見て吠えていた白い大きな犬がいない。檻そのものが跡形もなく消えていた。ほかのボートハウスの店先にいた日本犬の姿もない。彼らもシェラやむぎと前後して天国へと旅立ってしまったのだろう。


 ルイとともに静かな浜辺を歩いていると目の前に大型バスがやってきた。水際にしばらく停まっていたと思うまもなく、湖水へと入っていくではないか。背面に「水陸両用」の文字が見える。いつのまにかこんなバスが営業をはじめていたらしい。バスはやがて水に浮き、お尻のあたりに白波を立てて湖水の中央へと去っていった。


 ルイにとってのはじめての山中湖である。先月末のキャンプのときの木崎湖では湖水へ入って泳いだが、この日は午前中に家の風呂場で洗ってやったばかり(写真=上)なので水の中へは入れないように湖水へ近づけなかった。

☆シェラといったはじめての海
 日曜日は湘南へクルマを走らせた。いつもいっていた辻堂海岸は無意識のうちに避けていた。シェラやむぎと辻堂海岸の次に親しんだ江ノ島を目指したが、海岸通まであふれたクルマの列を見て躊躇なくあきらめた。

 シェラやむぎとはあまりいったことのない葉山へ向かった。葉山はぼくが子供のころに親しんだ海だけに愛着もひとしおである。だが、アクセスの易さと駐車場の関係でシェラやむぎとは辻堂海岸ばかりにいった。
 この日、目指した海岸にはハマヒルガオが群生していた。江ノ島から鎌倉材木座あたりにかけての混雑が嘘のように静かな海岸だった。ルイにとってははじめての海である。


 シェラがわが家にやってきてまもないころ、大磯に近い海岸へクルマではじめて連れていったことがある。まだ赤ん坊わんこに過ぎなかったこのときのシェラは、往きに車酔いに苦しみ、海岸では元気いっぱいに走って何度も波をかぶり、好奇心から海水を飲み、砂を食べた。
 帰りは再びの車酔いに喉の渇きも加わってなおさら辛そうにして家人の膝でへばっていた。翌日から呆れるほど何日もウンコに黒い砂が混じった。

☆次は海水浴の準備をしていこう
 4年後、むぎが家族の一員になったころの辻堂海岸は、わが家の庭のように慣れ親しんでいた。当時、若いころのシェラはいまのルイ同様、いつもぼくを追いかけていた。そこへむぎが加わると、ぼくを追いかけるシェラをむぎが必死になって追いかけることになり、それは楽しい遊びを満喫することができた。

 ちょっと目を離した隙にカラスがトートバッグの中から弁当を持ち去ってしまったことがある。ぼくが逃げるカラスを追いかけ、石を投げて威嚇したりして以来、ふだんでもシェラはカラスを敵視し、散歩の途中でカラスと逢うと吠えかけ、あるいは走っていって追い払うのをやめなかった。
 そんなことを思い出しながら、はじめての海に戸惑うルイをぼくは目を細めて眺めていた。






 
 ルイはシェラのような大胆さも見せず、寄せくる波には用心深く対していた。
 次に海へいくときには、ぼくもいっしょに水遊びができる準備をし、海水に濡れたルイの身体を洗い落としてやれるだけの真水も用意しようと思った。やっぱりわんこ用のライフジャケットと細引きを準備しなくてはならないだろう。ついでに調子が悪くなった防水機能付きのカメラも新たに買い替えるとしよう。
 ちょっとわくわくする。



シェラはなぜ「シェラ」という名前になったのか

2012-03-07 22:28:35 | わが家のわんこたち

☆最初から決まっていた名前
 ぼくが齢50にして犬を飼おうと思い立ったのは、たまさか家人の母と一緒に住むための家を建てることになったからだった。家が建ちあがるまで仮住まいしたマンション暮らしの間にぼくがシェラを見つけて連れてきた。
 見つけたのは近所のペット病院だった。前日、見知らぬ女性が子犬を抱いてきて、「捨てられていてかわいそうだから誰かもらってくれる人をさがしてください」といって置いていったそうだ。「あの人が飼主だったんだろうね」と医師は苦笑いした。そんな飼主が少なくないのだろう。

 シェラと会う前から、すでに名前は「シェラ」と決めていた。オスだろうがメスだろうがどちらでもよかった。出逢ったわんここそがわが家の子だと決めていた。ぼくがなぜ犬を飼いたかったかというと、いっしょにアウトドアを楽しみたかったからである。
 ぼくの趣味は唯一キャンプである。そのキャンプとそれに付随するアウトドアをともに楽しんでくれる犬がほしかった。当時のアウトドアの世界では、カヌーイスト・野田知佑さんの愛犬であるガクがカヌー犬として活躍していた。ぼくはカヌーはやらないが、ガクのようにいっしょにキャンプを楽しんでくれる犬がうらやましくてならなかった。


 ぼくが雑種しか頭になかったのはそのガクが雑種だったのと、かつて実家でガクによく似たコンリーというわんこを飼っていたからだった。ガクの活躍ぶりを野田さんの著作で読むと、ガクとコンリーがピッタリと重なる。性格のみならず、見た目まで似ている。だからぼくも雑種のわんこしか関心がなかった。

☆ガクのような犬がいてくれたら
 「シェラ」という名は、アウトドアの象徴的なアイテムの「シェラカップ」からいたただいた。もし、ぼくが自分のわんこを「シェラ」と呼んだとき、キャンプ好き、アウトドア好きの耳に入った瞬間、彼は思わずニヤリとして、たちまちぼくの趣味を見抜くはずである。


 ぼくのキャンプのスタイルはソロ(単独)が原則だった。なまじ仲間がいると飲み会の延長になったり、同行者に何かと気をつかってしまい、疲れてしまうというのが理由だった。
 もっとも、その数年前からときどき家人がついてくるようになっていたが、それでもまだぼくはソロのキャンプにこだわっていた。ぼくのソロキャンプの理想の姿は必ずしもたったひとりのキャンプではなかった。湖のほとりにテントを張り、満天の星の下、焚火の前に坐って小さな炎をぼんやりと眺めているその横に一匹の犬が寝そべっている。そんな情景がぼくの理想のキャンプだった。
 
 それまでもソロでさんざんキャンプをやってきた。ひとりだからといって寂しくはなかったが、もし、かたわらに犬がいたらどれだけ楽しかろうと勝手に想像していた。だから名前は「シェラ」なのである。
 ガクのような、あるいはコンリーのようなわんこがいっしょならこれにまさる喜びはないが、それは見果てぬ夢であろうと最初から望まなかった。

 だが、奇跡が起こったのである。前の稿にも書いたが、まるでぼくの心のうちをのぞいて、「はい、わかりました。それがお父さんのお望みのわんこですね。おまかせください」と請け負ったかのように真っ黒な子犬は成長とともにガクやコンリーによく似たわんこに変身していったのである。
 キャンプにいく先々で、「わぁ、ガクみたいだ」とほかのキャンパーたちにいわれたものだった。


☆弱虫アウトドア犬の誕生
 幼いころからアウトドアをさんざん経験させたシェラは、たしかにキャンプの大好きな犬に成長した。キャンプサイトにつくと身体を地面にすりつけて喜んだ。水があれば、そこが川であれ、湖であれ、飛び込もうとする。最初に驚かされたのは中禅寺湖でダイビングされたときだった。流れの強い渓流だろうと、汚い沼だろうと見境なく飛び込んでいくので油断できなかった。

 だが、1歳を過ぎたあたりからアウトドア犬としては致命的な欠陥を持っていることに気づいた。雷鳴と花火を怖がるのである。雷は、人間には聞こえなくてもよだれをたらして怖がるしまつ。これらは家にいても同じだった。だが、シェラが遠雷で雷を察知してくれるため、早めに避難の準備ができるというメリットもあった。

 音だけではない。弱虫わんこのシェラは、野生動物に対してもビビってしまって知らん顔を決め込むやら、ときにはパニックになる。キツネ、イノシシ、そのほか、よくわからない動物の接近がいまとなっては懐かしい思い出になっている。


 シェラという名前に、最初は原生林の深い森が放つ重々しさを連想したが、わが家のシェラによって、自然がみせてくれるやさしい抱擁の感触に変わってしまった。
 シェラやむぎと過ごしたたくさんの森や湖畔や河畔の夜は、たいていおだやかでやさしさにあふれていた。
 きっと、これからも焚火の前でぼんやり過ごすぼくの横にはいつもシェラとむぎもいて、穏やかな夜を感じさせてくれるだろう。


シェラを送って一か月

2012-03-06 22:08:08 | わが家のわんこたち

☆まぶたから離れないシェラの瞑目
 シェラを送ってきょうで1か月になる。
 シェラはもういないという実感とともに、ふと、いないことが不思議に思えてしまう瞬間がある。17年間、ずっと一緒に生活してきたから、シェラの姿がないことが不思議に思える。むぎのときもそうだった。
 
 そんな空白をルイが埋めてくれる。寝ている以外はいたずらのしほうだい。ときどき、隠れてオシッコもしてしまう。休まるヒマがないと家人は嘆くが、相手をしてもらおうと手当たりしだいなんでもくわえて逃げていく姿が愛しくて、ぼくは本気で怒ったりしない。むしろ、振りまわされている現在(いま)がこよなくうれしい。ルイがおとなしくなってしまったら寂しくて寂しくて、「おい、なんでもいいからパフォーマンスやってくれ!」と頼みたくなるだろう。
 
 そんなルイから目を離すと、いつも真っ先に浮かぶのが、病院で麻酔薬を打たれながらシェラが二度と開かないまぶたをゆっくりと閉じた情景である。家人とせがれの肩越しにぼくはシェラの顔を見つめていた。
 ひと晩添い寝し、痛みに耐えるシェラの身体を撫でいたので、最期のときはふたりにゆずった。あまりにもおだやかに、やすらかに眠りについたので、ぼく同様、家人もせがれもシェラの目の前の死を落ち着いて受け容れることができた。むしろ、痛みや苦しみから解放されたことでホッとしていただろう。


☆まだ写真を見ることができない
 そして、きょうひと月目を迎えた。
 この間、ルイのおかげで家族の全員が救われてきたが、家人は休日に出かけた先ざきで待ちかまえているシェラとむぎの思い出に悲しみを新たにして涙ぐむ場面がしばしばあった。ぼくはというとシェラとむぎの思い出を追っている。彼らのさまざまな面影をしのぶことができないような場所ならいくつもりはない。
 
 家人はシェラやむぎの写真をまだ見ることができないでいる。悲しさがこみあげてくるからだという。一方でぼくはシェラやむぎの写真を見て悲しみから逃れている。だが、最近、シェラが病魔におかされてからの写真を避ける自分に気づいた。
 むぎが突然逝ってしまったとき、たくさんあったはずの写真なのに、気に入った写真は数えるほどしかなくてショックを受けた。なぜ、もっとたくさん撮っておいてやらなかったのだろうかと悔やんだ。それはシェラについても同じだった。

 シェラが病魔に侵され、短くかぎりある命だと知ったときから、ぼくは狂ったようにシェラの写真を撮り続けた。きっと異常なほどのぼくの姿だったのだろう。散歩に出かけて公園で、ぼくがシェラの写真を撮り続ける理由を家人から聞いた方が事情を知って涙ぐんでくれたこともある。

 どれだけシェラを撮っただろうか。毎朝の散歩、夜の散歩、週末の散歩、そして、家でも、ひたすらカメラのシャッターを切り続けた。シェラがいなくなってしまったあとでも、シェラにいつでも会えるようにと……。


☆半世紀を経ても風化しない悲しみ
 このブログでも写真の一部を載せてきた。だが、いざ、シェラが逝ってしまうと、ぼくはそんな写真を見ることができなくなった。病魔に魅入られた痛々しいシェラの肖像を冷静にながめることができる余裕はまだない。もしかすると、これから先も同じかもしれない。元気だったころ、むぎがいて、ふたりでいきいきとしている写真しか見たくないのである。

 昨夜、たまたまiPadに保存してあるシェラとむぎの写真を見た。この数年のふたりが元気だった姿に出逢った。のぞきこんだ家人も引き込まれ、涙ながらに世が更けるのも忘れて見入ってしまった。
 「やっぱりまだ飾ってはやれないわ」
 ため息まじりに家人がいった。
 シェラの写真をあわてて飾るにはおよばない。瞑目してぼくの腕に抱かれたむぎと、覚めない眠りについた瞬間のシェラの映像はぼくのまぶたに鮮明である。きっと死ぬまでこの情景を忘れない。
 
 ぼくが中学生のときに実家で飼ったペルというオスのテリアのわんこは、ジステンバーにかかり、たしか1歳になるやならずで死んでしまった。息を引き取る寸前、寝床の箱から這い出し、ぼくの前に座って自分から二度、三度とお手をして、そのままぼくの膝に崩れ落ちて絶命した。きっと、毎日、母からもらった500円札を握りしめて病院へ連れていったぼくへ「兄貴、ありがとう」といいたかったのだろう。

 大量のよだれをたらし、苦しげに呼吸しながらぼくに別れを告げたペルの姿は半世紀を経たいまもぼやけることはない。思い出すたびにペルのけなげさにいまも涙がにじんでくる。愛するものを失った悲しみはたやすく枯れはしない。シェラとむぎへの愛惜もそんなひとつである。


わが家の大切なわんこたちの系譜

2012-03-01 18:44:36 | わが家のわんこたち
☆父母の遺品の写真から……
 11月に母が不帰の旅へ発って以来、身辺で懸案になっていたいくつかの事柄がようやくかたづいた。ぼくの手元に父が遺した2冊の写真アルバムと数十枚の写真、そして、父がファイルしていた古い新聞や書きつけの類が届いた。

 アルバムは「戦前」と「戦後」の2冊に整理してあった。戦前編は明治初期のものにまでさかのぼる。戦後編も昭和30年代までページがなくなり、あとの写真は封筒にまとめておさめられていた。アルバムには、子供のころ、何度か見た懐かしい写真がたくさんならんでいる。わが家を支えてくださった人々の肖像であり、わが家の歴史の一部ものともいえる。


呼ばれて縁の下から緊張しながら顔を出したコンリー

 写真の1枚(上)には、実家で飼っていたコンリーという名の雑種のわんこが写っていた。父親にシェパード、母親は、柴犬というふれこみだったが、たぶん、雑種だったろう。ぼくが高校生のとき、中学生だった妹が同級生の家でもらったオスの犬である。ぼくが自転車で迎えにいき、学生服の上着のポケットに入れて連れてきた。

☆雑種の犬ならなんでもいい
 コンリーは、わが家の三匹目のわんこである。初代のペルもペルの弟で、よその家から戻ってきた初代のコンリーも早世だった。それにひきかえ、二代目のコンリーは15歳まで生きて母がずっと世話をしていた。
 わが家がいちばん活力にあふれた時代をともに生きただけに、いまなお、家族が集まると二代目のコンリーの思い出話で盛り上がる。彼もまたわが家の歴史の大切なファクターのひとつである。

 家を建てるにあたり、ぼくが齢50にして犬を飼おうと強く思ったのは、このコンリーが忘れられなかったからである。とはいえ、雑種で同じような犬がいるはずもなく、とにかく「雑種の犬」を探した。出逢いこそがすべてだと決め、出逢った犬を飼うつもりで探しているときにシェラとめぐりあった。

 真っ黒なコロコロした子犬だった。きっと黒いむく犬になるのだろうと想像して、それもまた楽しみにして成長を見守った。たれ目のオヘチャで、きっとまっ黒なチャウチャウみたいになるのだろうと想像していた。
 
☆なんでコンリーがいるの?
 落成した新居にぼくの両親がきたとき、シェラはちょうど生後10か月くらいになっていた。リビングに連れて入ったシェラを見て、父も母も驚いて声を失った。あのコンリーにそっくりのわんこが入ってきたからである。


垂れ目の真っ黒なシェラがすっかり変わってしまった

 生後半年くらいを過ぎたあたりから、シェラの毛並みも顔つきも激変していった。まるで、ぼくの心の奥にあるコンリーの面影を察知したかのように、シェラはコンリーとよく似たわんこに変身していったのである。
 それはぼくにとっては不思議な現象には思えず、ごく当たり前に感じていたが、たしかに、父母が驚いたように、「なんでここにコンリーがいるの?」と思うほうが妥当だった。

 あらためてコンリーの肖像を見ると、細部の違いはあるものの、ぼくにとってシェラはコンリーであり、コンリーもまたシェラだったと思う。オスとメスの違い、性格だって似てはいないが、どちらも従順で、犬としては情緒の豊かな子だった。

☆決して危害を加えない意思表示
 せがれが生まれるまでのおよそ10年間、コンリーは家族の愛情を一身に受けて育った。しかし、わが家に初孫が生まれて状況は一変した。コンリーにとっては受難だった。
 愛情のすべてが小さな闖入者に移ったことを敏感に察知した彼がもっとも心を砕いたのは、闖入者に対して自分には害意がまったくないと家族にわかってもらうことだった。

 家の敷地内を自由に動いていた彼は、昼間、自分の小屋ではなく、縁の下の奥深くに隠れ、自らの気配をけんめいに消そうとした。勇気りんりん、近所の犬たちの番長のようなコンリーが烈しく怖れたのは、突然やってきた小さな闖入者というのがおかしかった。

 この写真は、小さな闖入者にもようやく慣れ、その小悪魔が友達に見せようと呼んだので、縁の下の奥からおっかなびっくり挨拶に出てきた瞬間である。このあと、小悪魔とのキスをしている写真もあるはずだ。


むぎはひたすらおとなしく手のかからないわんこだった

☆ワンパクなんていまだけさ
 こういう写真を見ていると、ぼくにはシェラがコンリーの生まれ変わりに思えてならない。シェラはシェラ、コンリーはコンリーだとわかっていながら、なぜか彼らがかぶってしまうのである。

 むぎを喪った空白をいかんともしがたく迎えたルイではあるが、この子ばかりは、まったく「むぎの生まれ変わり」ではなかった。毛並みだけはだんだん似てきたが、その行動は似てもにつかない。むぎはたおやかなおとなしい子だった。手当たり次第何かをくわえて引きずりまわすようなワルガキではなかった。

 そんなワンパクを絵に描いたようなルイに家人は毎日何度か切れているが、「ああ、あのころのヤンチャなルイは……」となつかしむ日がすぐにくることだろう。いまだけのワンパク、いまだけのヤンチャがぼくにはなんとも可愛くて可愛くてならない。


ぼくのスリッパをくわえて持ち去ろうとしている悪ガキのルイ