ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

真田幸村のその後3

2018年08月21日 21時24分21秒 | ウォーキング

玉手山公園のいろんな石碑を見たら
さあ下っていきましょう。



ここを降りて行ったら
玉手山の古墳の方に出ていきます。

あ、でもその前に
安福寺の横穴古墳群を
見ていきましょう。



凝灰岩の横に掘られた
32もの横穴は6~7世紀ごろのお墓です。



このころ横穴を開けて
お墓にするというのは
大阪では珍しい行為でした。

なんとも静かな感じの場所でしたねえ。



片隅にはこんな
「あんぷくじみち」と書かれた
道標や力石なんかも
置かれていますねえ。



さあ、ではここからまた
住宅街に入っていって、
玉手山の古墳群を見ていきましょう。



え~この辺り、
道がくねくねしていて
アップダウンもあり。



途中で道がわからなくなって
しまいましたが。
まあ何とかたどり着いたのが

「玉手山1号古墳」でしたねえ。



今自分のいる当りが
ややこしくなってきましたし、
この辺りから見える山の景色も
あまり知らないので、
まあとにかくこちらが
電車の駅だろうという
予想をつけて峠道を
下っていくことにしました。



下から頑張って登ってくる
高齢者なんかを眺めながら
進んでいくと、
河内国分の駅の方へと
ええ加減に降りてきましたねえ。

さすがにdoiron。

毎日人生の下り坂を
転げ落ちているだけあって、
下り坂は得意です。

道はここからしばらくは
線路沿いに南下していきましょう。

あ、その前にぼちぼちお昼です。
コンビニがあったので、
昼食にしましょう。
今日のお昼は
このおにぎり一個です。



ううっ、ダイエットはつらい。

この国道沿いには葡萄の
道端販売のお店があります。



以前の職場で実家が
こういう葡萄畑をされている方がいて、
よく葡萄をお世話いただきました。

そんな先輩がお店に出ていたら
面白いのになあなんて思いながら、
遠目に店をのぞき込んでいきます。

まあそんな出会いは
ありませんでしたけどねえ。

そうして田辺の交差点まで
来たら鋭角に左折です。



この辺りは道がきれいに
整備されていますねえ。

道端にはガマの穂なんかも
咲いています。

そんな道の突き当りにあるのが



国分神社

鎌倉時代の神社といわれています。

境内のなかはとてもきれいでしたねえ。
そして神社の関係者の人も
ここはとても親切でした。

この丘陵のてっぺんにある
松岳山古墳への道を聞いたら
ちゃんと教えてくれました。



「木はかなり切ってあるんですが、
大和川まで見れるほどには
なってないでっすよ」とのこと。

「はい。わかりました」と
お礼を言って登っていきます。


こんな急坂を上がっていくと、
てっぺんには石棺のようなものが
置かれていました。



さあこれで玉手山周辺の
見どころは大体回りましたねえ。

では河内国分の駅の方に
向かっておりてゆき、
そこから大和川を渡って
JRの高井田駅へと向かって行きましょう。





このあたりは旧奈良街道と言って
ちょっと雰囲気のある道ですねえ。



こんな虫籠窓のある
古い家なんかもありますねえ。
街道のような道を歩き始めたら、
道は大和川の橋を渡る道に出てきます。

その橋というのが、ここ。



国豊橋といいます。

大和川はこんな感じね。



この橋の突き当りのところに
高井田の古墳群もあり、



横穴なんかも面白そうなんですが、
さすがにこの日は暑かったです。

近くまで来てるのですが、
横穴に行くのはやめて
もう今日は終わりましょう。
また別の日にゆっくりと
ここはせめてみたいなあと思います。

右折して高井田駅前の
白坂神社に立ち寄って、



駅へと向かいました。



この日あるいたのはこんなコース。



距離は約8キロでしたが
暑くて大変な一日でした。

たまたまではなく、
歩きの延長でやってきた玉手山。

真田幸村は九度山を逃れ
ここにやってきて戦いにやぶれ
大阪市内で打ち死にしたとか
逃れたとかいわれています。

いずれにしても、彼が晩年
最後に見た景色の近くを
歩いてきました。

町は今も発展あるいは縮小を
続けているのですが
彼が生きてきた歴史の断面は
いまもなお地域に根強く
残っているのですねえ。

これにて真田一族訪ね旅
おしまいです。


真田幸村のその後2

2018年08月20日 20時51分38秒 | ウォーキング

玉手橋を渡ったところは
柏原市内です。



マンホールのふたもなんとなく
ブドウ狩り的なデザインですねえ。

石川を越えたところに
水道局があります。



ここからずっと柏原市内の
玉手山公園を目指して
歩いていきましょう。



静かな住宅街ですねえ。



道のずっと先に
伯太彦神社があります。
式台の神社です。
この神社があったのか、



先に川の名前があったのか



よくわかりませんが、
石川は昔は博多川または
伯太川と呼ばれていたそうです。

この川沿いで農業に
従事する人達の神社だったそうです。

そんな伯太彦神社に



向かう道を右折して
登っていくとそこにあるのが、



「柏原市立 玉手山公園」です。

この公園の歴史は古く、
民営の公園としては
全国的にも2番目、
西日本では最初に出来た公園です。



でもそれも平成10年には廃止され、
柏原市が近鉄からの土地の寄付を受けて、
こんな形でオープンさせています。

何となく子どものころから
名前を知っていた公園ですが、
今はこんな風に変遷しているんですねえ。



そしてこの公園が、
実は大坂夏の陣の道明寺の戦いの跡。

後藤又兵衛が豊臣方と戦って
戦死した後ともいわれている。

でも亡くなったのは
又兵衛の影武者で
彼は生き残って
奈良山中まで行き、
又兵衛桜のところに逃げた
という説もありますねえ。

この公園に入っていくと、
事務所がありますが
そこに数人の管理人がいました。

あれは柏原市の職員かなあ。
それともシルバーかなあ。

若そうに見えたけどなあ。

この玉手山公園は
近鉄に土地の寄付を受けていますが、
もっと多くの土地が
「安福寺」から借地しており
年間600万円以上の
借地料を払っているそうです。

歴史的にも重要な土地ではあるんですが、
結構経費の掛かる場所では
ありますねえ。

あ、そうそうここには
小林一茶も訪れて
ここで俳句を二句詠んでいるそうです。

その石碑が後で登場します。

そんなこの公園にまつわる
人々の像が入り口のところに
顔写真パネルで立っていましたよ。



各所に建てられた案内に従って
階段をウンコラショと
上がっていきますと、
そこに小林一茶の句碑がありました。



「雲折々 適に青葉みゆ 玉手山」

そしてもう一区が

「初蝉や 人松陰を したふ句」。

ああ、ちょうど一茶が訪れたのも
doironと同じころで、
初蝉が鳴く頃だったんやねえ。

かれは葛井寺や道明寺を訪れた後
ここに着たそうです。
その横に橿原市の展示館がありました。
昔の郷土玩具や玉手山公園の様々な



案内がありますねえ。





そしてその横には、
なぜか貝類の展示館。

結構ウロウロしましたが、
その間一人の管理人もお客もなく、
いやあこれはこんな山の中ではなく
もっと人が来る場所に
作った方がいいのではないかなあ。

さっきの借地料とか維持管理料を考えたら、
この玉手山公園施設の
費用対効果は超疑問ですねえ。

もうちょっと頭を絞って
維持していった方がいいよなあと、
柏原市民ではないけど思いますねえ。

でもまあdoironは散策を続けます。

こういう夏の陣をしのびつつ、



みんなでツツジを植えたりしています。

地元民の熱い想いもあるんだよ
ということでしょうか。

そしてここには後藤又兵衛の碑ですねえ。



名前の付いた枝垂れ桜なんかが
植えられていますねえ。

横にある吉村竹右衛門の碑は、
又兵衛の家来で又兵衛を葬った人
といわれていますが、
又兵衛には逃亡説もありますから、
その辺はよくわからんところです。

あ、ここには小林一茶の碑も
またありますねえ。
句碑でしょうか。



なんか石がよくわからん
漢字で建てられていました。

いやあ、なんかいろいろと
こんな碑がありますねえ。

公園となって100年近く。
いろんな手が加わっています。

続く


真田幸村のその後1

2018年08月19日 21時37分57秒 | ウォーキング

九度山で真田幸村の
蟄居跡なんかを眺めつつ、
いろんなことに思いを馳せた。



なかでも一番感じたのは、
当時の侍の熱い心である。



幸村は10年以上の蟄居でも
サムライ根性を失わず、
かつての豊臣の息子の求めに応じて、
大阪へと隠れて蟄居先を
後にするのである。

村人に真田紐(さなだひも)を伝授し、



ある意味で暮らしの中で
関係してきた蟄居先の人々と
10年以上の別れを告げて
大阪に到着した。

そこから豊臣と徳川の間に立ち
戦に従事してきたが、
徳川方に敗れて戦死をした
(一方で逃走したという話もあるが)幸村。

いやあ、なかなかの人生だったろう。

doironも引退して6年。
もうそんなばりばり働ける
歳ではないが、同じような年でも
働いている人はいっぱいいる。

そんな人々のような
働く人生に帰っていくことは、
もうほぼないだろう。

残りの人生はもう楽しみのみで、
蟄居のようにぼちぼちと
過ごしていくのだ。

そんな自分を描きながら、
幸村ってすごいなあ
なんて考えてしまったよ。

丹生川沿いの静かな村で、



弘法大師の面影も見つめながら
過ごした彼がそうして
立ち上がったんやからねえ。

では一体彼が大阪に着て
中心になって戦ってきた場所って
どんなとこだろうと
今度はその辺を歩いてみるのも
いいかもしれんと思い、
出かけて行ったのが、
道明寺から玉手山周辺でした。

たまたま玉手に行ったわけではありません。
理由があって玉手に行ったわけなのです。

ここは前の職場にも
近いので名前はよく
聞いたところですが、
実際に降りて歩き回ったり
したことがない地域です。

すこし歴史的なことや
関連施設を学んでコースを作り、
幸村の痕跡などをたどりつつ
歩くために電車でとことこと
出かけて行くことに
したのでありました。

まずは近鉄南大阪線で
道明寺を目指します。

大和川をこえると前に
前の職場の地域に入っていきます。

ああ、ここの道路は新しいなあ。
まだ一回も通っていないので
車で行ってみなくちゃなあ。
ああ、あそこのお風呂屋さんが
なくなったんやあ。

いろんな思い出とともに
当時のことがよみがえってきます。

そんなことなんかを思い出しながら、
電車は道明寺の駅に到着です。



以前、道明寺のお寺に
行くときに雨の中
降り立ったことがありましたねえ。

今回はここで降りて
お寺とは反対の方に
歩いていくことになります。

まず駅前で降りたところに、
「道明寺合戦記念碑」
があります。



後藤又兵衛が討たれ
(彼にも逃走説があり、
doironの家の近くを
通ったこともあるという伝説あり)、
その後幸村がこの近くまできて
戦ったという説が残っています。

いわゆる「大坂夏の陣」である。

そんな石碑を見ながら
ナビもセットして、
さあではまずは石川の方を
目指して歩いていきましょう。



線路沿いにはこんな
情報版がありますよ。

ああ、こんな関係の仕事にも
従事していたなあ。

あっ、ここには世界文化遺産の
啓発用の展示板もありますねえ。



残念ながら大阪には
世界遺産がありません。

まあこの古墳なんかが
認められたとしても、
あまり外国観光客が
増えすぎても困りませんかねえ。

右手には道明寺の寺の方を
眺めながら、やがて踏切を渡り、
石川の堤防の方へと
上がっていきます。



この階段を上がると・・・



おお~見えてきました。
あれが玉手山の方へと
渡っていく歩行者の橋

「玉手橋」です。

車の通れない橋ですから
快適ですねえ。




これが玉手橋で超えていく
石川です。



ああここは昔よく走りましたねえ。
フルマラソンからウルトラを
走るにはこの河川敷の道を
ウロウロしていました。

トライアスロンを始めたころも、
この辺を走る藤井寺市・羽曳野市の
人らと交流するきっかけに
なったところです。

たぶん今も彼らはこの辺りを
よく走ったりしているでしょうねえ。



続く


真田幸村蟄居の里3

2018年08月18日 21時28分47秒 | ウォーキング

九度山の駅には3回くらいは
降りたことがある。
いずれも慈尊院から
高野山大門までの
町石道を走る大会に出た時と
町石道を練習で走った時だ。



ここからスタートの慈尊院まで
結構歩いて行ったのだが、
九度山の街中の事なんて
少しもおぼえていなかったなあ。



階段を上がっていくと駅舎があります。

う~ん、電車は一時間に
2~3本くらいですが、
結構便が多いですなあ。



ここからまた九度山の
道の駅の方へ戻っていきますが、
帰りは真田みちを通っていきましょう。



この辺りは近畿自然歩道にもなっています。

なんか九度山の人たちが
楽しんでいそうなお店なんかを
横切りながら、
道端に生えているキキョウなんかに
田舎を感じます。



ていうか、キキョウって
秋の花やのにもう咲くんだったっけ。
最近は7月の豪雨なんかのように、
季節感がなんか変な感じに
なってきますねえ。



ここは九度山焼きのところです。

米金という金時が立っていますが、
これがすべて陶器なんだそうです。

九度山の土の風味を生かした
焼きものだったそうですが、
もう作っていないのかなあ、
他の作品もあまり残っていないようです。
そしてその先に土産物屋さんが
ありましたので立ち寄ってみました。

途中のお家にかかっていた
奇妙な飾りなんかも売っているようですねえ。

いろいろ見てると、
なかから店の男の人が出てきて
いろいろと解説してくれますが、
なかなか面白い口調で
話してくれます。

そこでも売られていた
「真田紐」についてもいろいろと
説明をしてくれました。

この真田紐なんかは
手持ちのバッグの皮ひもに
くるくると巻き付けて使うと
オシャレな感じですよと
説明してくれたりいろいろと親切です。

何種類かの色合いがあったんで、
doironはこれを選んで購入しましたよ。



使い道はこれと言って考えていないけど、
何かと色々使えそうなので
また工夫してみましょう。

またバッグの紐にしたりするんなら
追加で来ますよ~と言ったら

「そのころまでは頑張って
お店やってると思いますわあ」
と返されましたね。

まあ頑張って是非そうしておいてください。

あ、ここは屋根が特徴的ですね。



ところどころにこんな桃の付いた
瓦をつけてはりましたねえ。



ここは「松山常次郎」の記念館だそうです。

案内板によりますと、
どうも政治家のようでした。

さあ、九度山をぐるりんと回って、
車をとめた道の駅がもう見えてきましたよ。



本来なら、ここから今度は
西の方に行って慈尊院から
町石道の入り口あたりを
眺める歩きもしようと思ったのですが、
もう暑くって暑くて。



夏場は歩きも少なめに
しないといけませんね。



高原を歩くとかそんな
ロケーションのよさそうなところを
かんがえないとあかんかなあ。

まあ今日はこれくらいに
しといたろとナビをとめたdoiron。

歩いたのはこんな感じで、
距離は5キロ強でしたねえ。



道の駅で、柿ジュースではなく、
屋台のコーヒーを飲んで
今回の旅は終わりです。

お疲れさまでした。


真田幸村蟄居の里2

2018年08月17日 21時26分43秒 | ウォーキング

え~玄関を入っていきますと、
おおここでも赤備えの甲冑の姿です。



写真を頼んで撮ってもらったら、
赤いウェアも借りれますよ
とアドバイスがありましたので、
せっかくなのでお借りしました。

うう~、こ、これはもう
役立たずな雑兵です。
戦さの邪魔じゃあと叱られそうです。

他にも作品や年表など





いろいろとありましたねえ。

でも写真はこんな六文銭のベンチや、



幸村ゆかりの地の日本地図なんかは
うつしたほかは撮影はあきませんね。

他にはいろいろと映像なんかを
見ながら勉強してきました。

これはテレビドラマの題字ですね。



「狭土秀平」という人が描いた作品です。
この人は有名な人で全国各地に
作品を残しています。



北海道洞爺湖サミットにも
作品を残しているようで、

次の首Dさんたちとの旅で
ここに行ったら必ずチェックですねえ。

さあ、ではここから「真田庵」の方に
むかいましょう。



ああ、この寺のようですねえ。
瓦に六文銭が刻まれています。

ここが入りぐち。



「一礼合掌」と書かれています。

十数年ここに蟄居していた
彼らの熱い想いは重かったでしょう。
そんな感情に一礼です。



蟄居していたころって
お金はどうなってるんやろなあ。
豊臣や徳川から出ていたのかなあ。
それとも真田紐とかで、
自分らで稼いでいたのかなあ。

お金の話なんかはあまり
ドラマとかでも出てこないので、
その辺はなんか不思議ですねえ。

そして不思議と言えばもう一つ。

十数年も蟄居していて、
いきなり豊臣に呼び出されて
武士に戻れるほどの
気持ちは持っていたんですねえ。

もうdoironなんか普通の仕事に
なんかつけないように思うなあ。

それくらい気持ちは緩んじゃってます。

それにしても、こんなお寺の中で
真田家は静かに次の機会を
待ち静かに暮らしていたのですねえ。

さあではお寺を見て
またもとの道に戻りましょう。

そこにあったのが幸村庵
という蕎麦屋さんです。



時刻もちょうど正午に
なったくらいですので、
ここでお昼を食べていきましょう。

いただいたのは、タヌキそばと



柿の葉寿司のセットです。

ここには、言葉を聞いてて
わかったのですが、
北陸から来た団体さんなんかが
昼食をされていましたよ。



さすがにここは外国人も少ないようです。

なかなかねえ、
お蕎麦って食べにくいのかも
しれませんがね。

さあ、ではまだまだ歩いていきましょう。

その先にあるのが、
真田の抜け穴伝説の場所です。



なんでもここ真田山から
大阪城まで地下道を作ったんだ
といううわさがありますが、
でもねえそれは無理でしょう。

いくら何でもそんな地下道ほったら、
タイのサッカー選手たちが
入っていくでしょう。



いやあ、個人が彫ったトンネルとしては
世界最大となるやろうねえ。



あの大阪城近くの玉造の
真田トンネル跡でも
絶対繋がっているはずはないだろうって
思ってたもんね。

確かに実際は横穴式古墳
だったそうですがね。

ここから坂道を上がっていきますと



分岐点に出ます。
駅へ向かう道と真田道といわれる道です。

doironはまず九度山の駅へと
向かいましょう。

あ、ここには対面石というのがありますよ。



高野山の弘法大師がここで
槇尾さんの明神と対面したところ
といわれています。



月に9度もここに降りてくるのですから、
槇尾山の明神とここで対面する
というのはかなり便利な
出来事だったでしょうねえ。

明治以降は、ここで弘法大師と
母が出会ったところと
言ったりしているそうです。

あ、ここが六文銭に見立てた
タコ焼きが食べれるところですねえ。



車じゃなかったらタコ焼きで
ビールいっぱいというのも
いいかもしれませんねえ。

そして坂道を降りていくと、
そこが南海高野線の九度山の駅です。



続く


真田幸村蟄居の里1

2018年08月16日 20時59分19秒 | ウォーキング

信長道1.2を歩いたり、
神戸三宮を歩いたり、
ドジ旅で四条畷、奈良の五條。
六甲山ろくから淡路七福神、
そして八尾を歩いてきました。

ということは数字つながりで
次は九度山ということになります。

なあんて、ちょっと強引に
つなげたわけですが、
実際九度山は何度も行ってるけど
ここらあたりでしっかり
歩いておかなくてはねと
考えていたところだったのです。

ここは町石道のマラソンに
行くときはよく歩きました。

そして最近では大和街道を
歩いているときに、
紀ノ川の向こう側から眺めていた場所です。

今回は暑い中歴史のぎゅっと詰まった
この場所にぷらりと
歩きに行くことにしました。

え~後でジダンのブログを見ていて
気が付いたのですが
何と、doironの4日前に
彼もここにきているもようでした。
どうりで、あそこの土産物屋さんで・・・
なあんてことはなかったですがね。

車で鍋谷峠を越え、
京奈和自動車道で
高野口インターへ向かいます。

そして車をとめるのは
「道の駅柿の郷くどやま」です。



この辺りはほんとに近くなりましたねえ。

以前は河内長野から
紀見トンネル超えてきてたのにねえ。
まあこの辺の旅はしやすくなりました。

さあ、ここが道の駅です。



スーパーとかもありますが、
まずはここの展示館で
九度山の資料をあさっていきましょう。



あ、このブログを読む人には
もうわかっているかと思いますが、
念の為に言っておきますと、
「九度山」というのは弘法大師の
お母さんが住んでいたところで、



高野山から月に9度会いに
降りてきていたから
こういう名前になっていたんですね。

え~ジダンブログでも書いてましたがね。

だいたい片道20キロありますから、
往復40キロ。
月に9度で360キロは
移動していたことになります。
まあ市民ランナーだったら
フルマラソンをサブスリーに
近いペースで走れる人
だったかもしれません。

展示館では空海の勉強コーナーもありましたし、
また少し前のブームとして
真田幸村の勉強コーナーもあります。



幸村の甲冑である
「赤備え」とも写真撮影しておきましょう。



え~っと、係のおばさん、
doironのポーズはこんな感じでよろしいですか。



あ、秋にはこんなイベントも
あるのですねえ。

前みたいに元気だったら参加するのになあ。
残念です。

九度山周辺の地図や資料を
色々と手に入れ、さあそれでは
歩きに行きましょう。

あっ、ここには自転車の
駐輪スタンドがありますねえ。



さっきのイベントと言い、
紀ノ川周辺は自転車野郎が多いようです。

さてではこんな道案内や、



道標を見ながらナビも入れてっと。



まずは東の方へと進んでいきます。
こんな丹生川の橋わたると、
石の道標があります。



真田庵と大和街道ですかあ。

今日は真田庵を目指しましょう。

関ヶ原の戦いで敗れた真田軍は
死罪をもうしつけられるところ、
とりなしがあってここ高野山に
十数年の蟄居となっています。

真田庵はそんな蟄居の折に
父と住んでいた場所のお寺です。
こんな小さな案内なんかにも
誘導されて進んでいきます。

おっと、九度山のマンふたも
チェックしておきましょう。



ここはやはり名産のカキが、
モチーフになっていますねえ。

こんな風に一本25000円で
柿の木オーナーなんかも
募集しているようです。



え~っと、柿が一個100円として
250個のカキが取れたりするのかなあ、
と思ったらその下に,
気象条件に左右されますが
だいたい1本で200個のカキが
取れるそうです。

う~ん、微妙な値段設定やなあ。
こんなアップダウンの道を
民家の空き缶風車をみたり、



ちょっと変わった飾り
(これはたくさんありました)を
見ながら進んでいくと、
前にちょっとした施設が見えてきました。

ここが、真田昌幸、幸村、大助三代の
物語を長く後世に語り継ぐことを
目的として建てられた



九度山真田ミュージアムです。

入場料金が500円必要ですが、
せっかく来たので
入っていくことにしましょう。

続く


続・ぽんせん

2018年08月15日 21時29分08秒 | 生活

以前、好物であるぽんせんのことを
書いたブログは、たまに自分の
ブログの人気記事ランキングに
アップされたりします。
まあそれだけ「ぽんせん」に
興味を持っている人も多いのでしょう。

今日はそんなぽんせんにまつわる
最近の話を一つ紹介しましょう。

ぽんせんに興味を持っていて、
新しいスーパーなんかに
行ったりすると新しい製品が
出ていないかなあとチェックしたりします。

でもねえこれがなかなか
成果がないのです。

ああ、新しい製品が出たり
しないかなあと期待を
持っているんですがねえ。

これまでいろんなポンセンを見てきました。

一味アジ、サラダアジ
胡麻アジ、ネギアジなど
混ぜている添加物で
いろんな味付けをしているものもあったし、
なかには黒大豆アジなど
地域のお土産風に売り出している
ものもあった。

とまあ、バリエーションは
色々あるのだが、
メーカーを見てみると
2つの業者がメインなのだ。

ひとつが「満月ポン」でおなじみの
松岡製菓。



現場も見に行ったが
こんな大阪市内の住宅みたいな
ところが工場だ。



最近はしょうゆの量を増やした
濃い味ポンセンなんかも出している。

そしてもう一つがこういう
製品を出しているマルサ製菓。



これも工場を見に行ったが、
田園地帯の倉庫風の工場で
製造しているようだ。



味的にはこちらの方がdoiron好みである。

これらのポンセンはいずれも
カロリーも低く、かつては
糖尿病の人にも最適なんて
表示を出していたなあ。

通勤時に車なんかの中で
かぶりながら出勤していたなあ。

ほかにメーカもなくて、
沖縄なんかには塩せんべいという名の
製品を出している業者がいるくらいだった。

ところが先日、ミセス誕生日に
和歌山方面を
旅したときに土産物屋さんの
店先で見つけたのです。

ぽんせんと名前の付いた製品で
今まで見たことのない製品、
それがこれなんです。



そもそも小麦粉を主原料として
生産されるこのお菓子ぽんせんは
doironは大好きなのだ。

あなたの一番好きなお菓子は何ですか?
と聞かれたらこのお菓子をあげるだろう。

先ほどのこんな製品には
和歌山さん玄米も使用しているらしい。

それを加太で見かけたのである。

製品を裏返してみると、
おお~、初めて見るメーカーだ。



これはポンセン業界への殴り込みかあ
と思い、じゃ味を確認してみようと
3袋買うことにしました。

これだけのボリュームで
400円とはちと高いが
まあ味を見てみましょう。

帰りの車の中で、「パリ」。
もぐもぐ・・・う~ん、味は悪くない。

和歌山産玄米を使用した素朴な味だ。

で、食感はというと、
これがねえ。
悪くはないんですよ、
おいしいんですよ。
でもふわふわ感が若干物足りない。

松岡製菓のように
万民向けに整った食感ではなく、
どちらかと言えばマルサ製菓型なんだが、
ふわふわ度の中に若干の
気持ちの甘さが残っている感じ。

心の片隅に、少しだけ惜しいなあ
という感触が残るのだ。

まだ慣れていないからかなあ。

しかしまあこういう新たな業者を
見つけるのはいいことだ。
場所は、な、なんと大和街道の
高野口近くらしい。

次回歩きに行くときは
是非工場をチェックしてみよう
と思っている。

帰宅後このぽんせん一袋を、
マージャン友達にあげることにした。
それを食べた友達奥さんの感想は
「こりゃーうまい」と宣伝みたいに
言ってましたよ。

このメーカー、ネットでは
他のあじのぽんせんも
出している模様なので、
これから和歌山方面に行くときは
必ずチェックしてみよう
と思っているのでした。


ミセス誕生日とポイント整理

2018年08月14日 20時46分56秒 | 生活

国民休暇村は、国立公園及び国定公園の
集団施設地区に設置された
総合的休養施設のことをいい、
旧厚生省により、昭和36年度から
整備が始められた施設である。

doironはこの国民休暇村の会員なのである。

全国には37施設が建っていて、
doironはこれまで9カ所の施設で
宿泊をしたことがある。

最近では、ランニングの合宿などで
加太や近江八幡で宿泊しているし、
竹乃海岸へのどぐろを食べに行った
という旅行も経験しているのだ。

そんな会員になっていると、
宿泊や飲食など施設の使用に応じて
ポイントがたまる仕組みになっている。

doironもたまった分は次回の宿泊
もしくは飲食などの支払いに
回したりしているところだ。

ただしねえ、このポイントには
期間制限があるのだ。

ちょっと期限の長さはよくわからないけど、
ポイントが期限的に消えそうな
感じになってくると、はがきが届き

「お客さんのポイントが切れそうになってまっせー」

と通知されてくるのだ。

実は、先月そんなハガキが届いた。
失いそうになっているポイントは
数1000円。

そうかあ、これを使うには
ちょっと期限が開いているから
結構たまっているなあ。

先日歩き友達らと歩きの帰りに
食事で寄った時もあったのですが、
あれも急だったのでポイントカードを
持っていなかったもんなあ。

うまかったなあ、シラスどんぶり。



なくなりそうなポイントの還元を
考えたときに、これはあんな
食事に活用するのもいいなあ
と考えてみた。

間もなくミセスの誕生日である。
そのお祝いに、食事に出かけるのも
いいかと考え、先日出かけて
いくことにしたのだ。
いつも近所の焼肉屋さんと
いうよりはいいかもしれない。

本当なら、それに入浴と
ボディケアサービスなど
つけてあげれたらいいのだが、
年金暮らしなのでそうもいかない。
だいたい、お風呂は午後からなので、
ちょっとタイミング悪い。

天気のいい日に軽自動車で、
この春よく歩いた泉南を眺めながら
運転していった。

まずは臨海高速を南下してゆく。



そしてりんくうから旧26号線をさらに南下。
昔はこの道も夏は大渋滞だったのに、
いまは新26号のおかげでがらすきです。

便利にはなりましたけどね、
地域の食堂や商店にしてみれば
打撃だろうて。

みさき公園を越えて、
先日ジダンと歩いた多奈川あたりを抜けて、
加太のトンネルも越え
加太国民休暇村に到着となる。

食堂がひらくのが11時30分。

ああ、時間ピッタリに到着だ。

この施設にはプールなんかもあり、
駐車場は結構混んでました。

食堂に行き、この日頼んだのは

「お刺身定食」



doironはノンアルコールで
ミセスは生ビール付きです。
まあ誕生日なので仕方ないだろう。

「え~っと、古稀おめでとう」
というと、そんな歳とってない
と怒ってはりました。

食事をしながら、孫の誕生お話をしたり、
窓の外に友ヶ島を眺めながら、
その解説をしたりして過ごしました。

それは歩くことでいろんな知識を
身につけていることを強調し、
再び歩きに行くことへの
理解を深めてもらうためのことでもあります。
うまいことやってるでしょ。

ゆっくりと時間を過ごし、
ポイントを活用してお支払い。
帰りはお土産屋さんとかにも
寄ってあげましょう。



そうそうこの日見つけた、
超貴重なお土産は
大興奮でしたね。
それは明日にでも紹介しましょう。

帰りは岬の道の駅にもよって
野菜を買い足し、ミセスはビールで
大眠りしながら26号線を帰宅。

これからはこういう誕生日プレゼントも、
doironも楽しいし、
のんきに喜んでもらえて
いいかもしれないなあと
ひそひそと考えているのでありました。


河内を歩いた泉州のおっさん5

2018年08月13日 21時05分10秒 | ウォーキング

小野 篁は公卿で文人でありました。
その彼が唐に派遣される命令に
そむいたため、隠岐島へ流されました。
その地で阿古那(あこな)という
娘が歯痛で苦しむのを見て
篁が地蔵像を刻み
阿古那に与えると歯痛がとまった
ということがあります。

あごが落ちるくらいの歯痛だったそうです。

いやあ西郷どんもそうですが、
当時の島流しはなかなか
いい話を作りますね。
二人はその歯痛事件以来深い仲となり
一児を授かったそうです。

しかし、その子供も2歳で夭折します。
そして西郷どんと一緒ですねえ。
篁は罪を許され帰京することになりました。

それを悲しむ阿古那に人形を
ほって残していったそうです。

そんな話が背景にあって、
こういうあごなし地蔵ができたんだ
といわれています。



したがって歯痛なんかに
効能があるとかないとか。

いやあ頼めるところには
いろいろと頭を下げておきましょう。
泉州のおっさんはええとこどりなんです~。

「歯痛になりませんように」っと。

そんな通りの終点のところにあるのが
「麟角堂創建遺址」です。



昔ここでいろんな講演とかが
行われたところで
いわばまあ私塾のような
ところですかねえ。

久宝寺の人たちの熱い想いが
伝わってきます。

そしてその通りをいったん
右に回って進んでいくと、
こんなところが目に入ります。

長曾我部が視察に来たところの
物見の松なんだそうです。



ただ、今植えられているのは
新しい松です。

ここで藤堂軍を視察したそうですが、
果たしてどうだったんでしょうねえ。

さあ、こうして久宝寺の村の
様々なものを見てきました。

まだまだこんな安産地蔵や



西口地蔵などもありますが、



ぼちぼちこの辺で久宝寺地内町も
終わりです。

あ、そうそうここには
まちなみセンターなんかもありましたねえ。
トイレが借りれてよかったです。

そしてこんな風情のある灯りが
置かれたような通りを、



久宝寺の駅の方に向いて進んでいくと、
右手に大きな神社が現れてきます。



ここがずっとのぼり旗を
あげていた許麻神社ですね。



ここは聖徳太子の建立で
境内は戦国時代なんかにも
焼失しましたが、
復興に復興を重ねて今に至っています。
地元の人たちにもしっかり
根付いているんでしょう。



境内は広く、茅の輪くぐりなんかも
行われています。



そうそうこんな神社の奥の
森の中では高齢者のおばさんが二人、
優雅な音楽を流しながら
太極拳のようなものを舞っていましたね。



河内のおっさんだけではなく、
河内のおばちゃんも元気な町なんでしょう。

そこから約1キロほど歩いていきますと、





久宝寺の駅です。



周りの様子はこんな感じ。



昔ながらの地内町が残っている
と思ったら、こんなに暮らしやすそうな
景色も見えていて、
何となく明るいいい町だったように思います。

ほわーんとして、どこかに
河内のおっさんの雰囲気が漂っていたかなあ。

さあ、ではここから電車で帰宅しましょう。
今回歩いたのは、こんな感じ。



距離的には6.3キロとあまりありませんが、
まあ暑い時期ですから
こんなところにしときましょう。

帰宅時に昼飯でラーメン屋さんに入って、
おもわずビールを注文してしまいましたねえ。

泉州のおっさんは、
ええとこどりで
おチョーシ乗りが多いのかもしれませんなあ。

河内と接した旅、おしまい。


河内を歩いた泉州のおっさん4

2018年08月12日 21時03分31秒 | ウォーキング

こんな商店街を見ながら進んでいきますと、



大信寺に出ます。



八尾僧正、八尾地蔵、八尾明神と
これまでありましたが、
ここは「八尾御坊」と言われてます。



中に入っていくと、
ここに「河内県庁跡」があります。



河内県は明治政府によって
明治2年に設置された県ですが、
半年で「堺県」に編入されます。

そんなところの庁舎があった跡ですねえ。

この時代は自治が生まれたばかりで
どんどん変化していった時期。
堺県なんて奈良も含んでいたり
したんですねえ。

大信寺を出て少し行きますと、
ああここにお逮夜市の案内が
張られていますねえ。



このお逮夜市に来て
揃わないものはない
といわれるほど
にぎわっていたそうです。

その先に行くとこんな
小さな橋が立っています。





「成思橋」だそうです。

この橋のことはよくわかりませんでしたが、
小さな橋柱でもしっかり
残しているのがありがたいねえ。

大信寺の交差点から少し
歩道を歩いていきますと、
長瀬川に出ていきます。



この川はもとは大和川本流で
重要な川でした。
そしてここに架かっている橋が
「本町橋」でその横には
こんな立派な道標が建っています。



「右 かしわら 国分 すぐ信貴山道」

とあります。
この辺りは柏原への船便なんかが
あったようですから
こんな道標になっているんですねえ。



「北 左 信貴山道」
まあこれは信貴山への案内板。

「右 大坂道 すぐ 平野 天王寺」
そして「すぐ玉造道」となっています。

立派な道標でしたねえ。

で、ここの顕証寺の交差点のところから、

コースは久宝寺の方へと入っていきます。

あ、ここの家の名字は変わってますねえ
「包丁」だって。
ああ子どもが生まれたら
「一本」って名も面白いなあ
なんて考えてしまいました。
世の中にはいろんな名字が
あるんやなあとか
考えてしまいますよねえ。

ところがねえ、この地域は
この苗字の人が多いみたいで、
沿道の家の表札を見ていると
次々とこの名前が登場します。

そしてずっと奥の方に行くと、
この名前の家々の本家のような
感じのお家がありましたねえ。

神社の氏子総代と書いてありましたね。

上り旗から見て許麻神社の
総代かなあ。



久宝寺のこの辺りは
戦国時代に寺内町として
建設された古い町です。

多くの真宗門徒が集まって、
1500年頃に町内のここにある
顕証寺の周りで自治が行われました。

この通りには今もいろんな
遺跡が残っているし、
道の構成など500年前と
あまり変わらず古い歴史を
抱いたまま今も各地に
残っているところです。

ここがその顕証寺です。



中に入っていくと
立派なお寺でしたねえ。



真宗西本願寺の別院
となっています。

そしてその周辺には、
遺跡がいろいろと残っています。

これが「札ノ辻地蔵尊」。



室町時代末期の石仏です。
この地蔵尊の横には高札場があり、
こういう名前で呼ばれていたのでしょう。
そして寺井戸もありました。



この井戸は村民の飲用水をまかない、
水代として1軒当り
年1升の米を久宝寺御坊(顕証寺)に
納めたそうです。

古くは屋形を組み、
夜には錠が掛けられ、
大正12年に簡易水道が設けられるまで、
村内唯一の上水だったそうです。

ああ、こんな道標もありましたよ。



「左 大坂 平野道」
平野ってこういう道標では
よく出てくる地名ですねえ。



「右 和州信貴山 八尾地蔵尊道」。

こうして道標が建つということは、
昔は多くの人が集まったりする
場所だったんでしょうねえ。

そしてその近くには
「あごなし地蔵尊」もあります。



このあごなし地蔵尊の由来はというと、
そこには平安時代、
小野篁(おのの たかむら)の
物語が関連してはるそうです。

続く