Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

大名気分にしてくれる古伊万里の釘隠し

2019年06月29日 13時36分03秒 | 古伊万里

 我が家に、古伊万里の釘隠しが2個あります。

 それは、「伊万里色絵雲龍文釘隠し」です。

 今から29年前の平成2年に東京の骨董屋から買てきたもので、我が家の10畳の和室の長押(なげし)に飾ってあります。

 

1個(釘隠しA)は、10畳の和室の北側の長押に飾ってあります。

 

 

もう1個(釘隠しB)は、その反対側の 南側の長押に飾ってあります。

 

 

 ところで、「釘隠し」とは、辞書などによりますと、「長押(なげし)などに打った釘の頭を隠すため、その上にかぶせる飾りの金具」とありますから、普通は金属製のものが多いようですので、このように陶磁器製のものは珍しいようです。

 買ってきた当初は、汚れが酷く、裏面には長押に貼り付けるためのニカワのような物が付着していました。また、頭頂部には竹釘でも刺すためのものか、小さな穴があるんですが、それもニカワのような物が付着して目詰まりしていました。

 そこで、漂白剤に漬けて汚れを落とし、裏面に付着していたニカワのような物も、できるだけ慎重に剥がし、小さな穴に付着したニカワのような物も除去して目詰まりをなくして穴を復活させました。

 

   左(釘隠しAの表面)           右(釘隠しBの表面)

 

 

   左(釘隠しAの裏面)           右(釘隠しBの裏面)

 

 

釘隠しAの表面

 

 

 

釘隠しAの頭頂部の小さな穴 (表面側)

 

 

釘隠しAの裏面

 

 

 

 釘隠しAの頭頂部の小さな穴(裏面側)

 

 

釘隠しBの表面

 

 

釘隠しBの頭頂部の小さな穴 (表面側)

 

 

釘隠しBの裏面

 

 

釘隠しBの頭頂部の小さな穴(裏面側)

 

 本来は、釘隠しは、裏面にニカワのような物を塗って長押に貼り付け、更に、ずり落ちないようにするため、頭頂部の小さな穴に竹釘のようなものを刺し入れ、それを長押に打ち込んでいたようですね。

 我が家では、頭頂部の小さな穴に金属の釘を差し込み、その釘で長押に引っ掛けて飾っているだけのため、本来の位置よりはずり上がっています(一番目と二番目の写真参照)。本来ですと、長押の真ん中に位置するわけです。

 

 なお、この釘隠しですが、このように立派なものは珍しいようで、私は、その後、このように立派な物に出会ったことがありません。

 恐らく、どこかのお城か大名屋敷にでも使われていたのではないかと思っております。

 私は、この和室で本を読んだりして過ごしていますが、常日頃、そのように思っていることもあるのでしょう、好きな戦国時代の歴史小説などを読んでいて、ふと、長押に目をやり、この釘隠しと目が合うと、自分が大名屋敷で書見をしているような錯覚を覚えます(^^;

 一瞬、私を大名気分にしてくれるんです(^-^;

 

製作年代: 江戸時代中期

大 き さ : 長径・・・釘隠しA、B共に10.3cm


「宇喜多の楽土」

2019年06月27日 08時56分48秒 | 読書

 「宇喜多の楽土」(木下昌輝著 文藝春秋 2018年4月25日第1刷発行)を読みました。

 

 

 内容は、宇喜多秀家の、幼い頃から、関ヶ原に敗れて八丈島に配流されたところまでを書いたものでした。

 宇喜多秀家は、備前備中美作57万石の大大名宇喜多直家の嫡男として生まれますが、秀家が11歳の時、父直家が病没してしまいます。

 宇喜多家は、毛利家との間に大きな領地争いを抱えており、宇喜多直家の弟宇喜多忠家を名代として生き残りを模索します。

 その解決策の一環として、宇喜多家は、豊臣秀吉に領地問題を解決してもらうべく、宇喜多家の嫡男宇喜多秀家を豊臣秀吉のもとに送ります。人質みたいなものですね。

 秀吉は、直ぐには毛利家との間の大きな領地争いを解決してはくれませんでしたが、秀家は秀吉に気に入られ、秀吉の元で育ちます。

 また、秀吉の養女となり、秀吉の元で育っていた、前田利家とまつとの間に生まれた豪姫と結婚します。

 長じて、宇喜多秀家は宇喜多家の当主となり、秀吉のために懸命に働き、秀吉晩年には五大老の一人にまでなりました。

 秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍の大将として働きましたが、武運拙く敗れ、薩摩の島津家に落ち延びます。その後、徳川家康の元に出頭し、一時、駿河国久能山に幽閉されますが、まもなく八丈島に配流されます。

 八丈島には、秀家の他、豪姫との間に生まれた嫡男の孫九郎ともう一人の男の子、そして、従者や乳母などの総数13人が同行したということです。

 その後、前田家は、船を仕立てて八丈島に使者を送り、前田家120万石から10万石を割いて秀家を大名に取り立てる旨を伝えます。そのことは、現在の将軍徳川秀忠のみならず、家康の許しも得ていることを申し添えます。

 しかし、その申し出を秀家は断り、前田家の使者は虚しく島を離れます。

 なお、秀家の重臣の一人だった進藤三左衛門という人物は、家康から旗本に取り立てられ、お伽衆として家康の側にはべり、毎年、米や金を八丈島に送っていたとのことです。

 ところで、私は、以前、本か雑誌かの中に、八丈島からは古九谷の器の陶片が出土するということが書かれていたことを覚えています。

 それは、秀家の正妻の豪姫が、前田家から貰っていた化粧料の中から、何年かに1回、船を仕立てて米や日用品を八丈島に送っていたからだということでした。そのことは、豪姫が亡くなるまで続いたということです。その仕送り品の中に、古九谷も含まれていたからなのだろうということです。

 古伊万里好きの私としては、この本の最後のほうにも、この古九谷のことが書かれているかな~と密かに期待しましたが、残念ながら、それはありませんでした(><)


キュウリの初収穫

2019年06月26日 12時35分35秒 | 家庭菜園

 今朝、キュウリを1本収穫しました(^-^;

 今年になって初めての収穫です。

 毎年、家の東側に、グリーンカーテンを作るべく、ゴーヤの苗とキュウリの苗を植えています。

 今年は、妻が知人から貰ってきたゴーヤの苗3本と、買ってきたキュウリの苗1本が植えてあります。

 ゴーヤよりはキュウリの方が生長が早いものですから、ゴーヤとキュウリを植えているんです。最初にキュウリの葉がグリーンカーテンの役目を果たし、キュウリの葉が衰えをみせる頃に、今度は、ゴーヤの葉が茂ってくるからです。

 でも、今年は、ゴーヤの生育がよく、キュウリとほとんど同じくらいですから、ゴーヤの葉とキュウリの葉のコラボで、早く、立派なグリーンカーテンが出来上がりそうです(^-^;

 その代わり、キュウリの苗が1本ですから、キュウリの実の収穫量は減りそうです。でも、家庭菜園の方には沢山のキュウリが植えてありますので、収量減は問題になりません。

 ただ、我が家の家庭菜園は我が家から遠く離れていますので、採りに行くのが大変ですが、、、。その点、家の東側にグリーンカーテン用に植えてあるキュウリの収穫は簡単です。朝、窓を開けた時に、手を伸ばせば採れますから(^-^;


没落した古伊万里

2019年06月19日 14時58分50秒 | 古伊万里

 我が家に、古伊万里の「染付蛇の目傘文楕円形皿」と「染付蛇の目傘文盃」があります。

 「染付蛇の目傘文楕円形皿」は、昭和59年に東京で買ったものです。

表面 (長径:15.9cm 高さ:2.7cm)

 

裏面  (高台径:6.5cm)

 

 この皿は、我が家では、通常は、額に入れ、壁にかけて飾っています。

 もっとも、買ってきた時点で既に額に入っていたものですから、そのまま飾っているにすぎませんが、、、。

我が家での通常の状態

 

 ところで、この皿の類品は、栗田美術館にもあり、以前は、本館の入口を入って直ぐの、大きな展示室への入り口のところに、やはり、額に入れて飾ってありました。

 故栗田館長さんがその皿を好きだったものですから、別格扱いだったんです。

 下の写真は、栗田美術館所蔵の皿です。「伊万里・鍋島」(財団法人栗田美術館が1985年に作成した図録)から転載しました。

伊万里染付傘形皿 h2.7cm  d16.5cm   宝永、正徳(1704ー15年)

 

 栗田美術館の物が、傘の柄の根元部分が白抜きになっているだけで、我が家の物とほとんど同じです。

 ただ、栗田美術館では、この皿の製作年代を宝永、正徳(1704ー15年)としていますが、私は、宝永、正徳(1704ー15年)はないんじゃないかな~、もっと若いんじゃないかな~、江戸後期じゃないかな~とは思ってはいましたが、ほとんど同じであることは否定できません。

 私は、この皿を、苦労して、やっとの思いで入手したこともあり、有頂天になり、入手した当座は、周りのコレクターに、「この皿は、栗田美術館の看板古伊万里の一つと同じなんだよ!」と吹聴し、自慢してみせびらかしたものです(^^;

 お陰で、私は、周りのコレクターから、「栗田美術館の看板古伊万里の一つと同じ物を持っている者」として、一目置かれるようになりました。

 

 その後、十数年が経った平成10年のこと、今度は、やはり、東京で、「染付蛇の目傘文盃」を買いました。

立てたところ( 口径:4.6cm 高さ:4.5cm)

 

伏せたところ

 

 この盃を入手した当座は、皿と対になったものですから喜びもひとしおで、「陶説」(日本陶磁協会の月刊機関誌)に投稿したり、ホームページで紹介したりしたものです(^-^;

  しかしね~、栄枯盛衰というものは、こんな古伊万里の世界にもやってくるんですね~(-_-;)

 平成8年に栗田館長さんが亡くなり、この皿の最大の庇護者がいなくなりました。そうしましたら、この皿の製作年代は江戸後期に引き下げられ(詳細年、元号は忘れました)、それまで置かれていた場所も、栗田美術館での特等席の本館の入口を入って直ぐの、大きな展示室への入り口のところから外され、一般の展示ケースの隅のほうに押しやられてしまいました。

 それまで置かれていた場所には、故栗田館長さんの大きな全身像の写真が飾られています。やはり、ここは、栗田美術館での特等席だったんですね。

 現在は、この皿は額から外され、その後、どこから見つけてきたのか、我が家にあるような「染付蛇の目傘文盃」とともに、下の写真のような状態で、一般の展示ケースの隅のほうに展示してあります。

 

 栗田美術館での実際の盃の展示は、立ててあるのか伏せてあるのか、忘れました。

 

 

 おまけ(皿と盃を伏せたところ)

 

  やはり、この皿は、一般的なガラスの入った展示ケースの中ではなく、別途、額に入れて壁面に飾るべきですね。そのほうが、この皿の格が上がるように思います。

 皿と盃を組み合わせて展示すべきではないように思います。それでは、美術品ではなく、食器に成り下がりますから。

 この皿も、落ちるに落ちたものです。庇護者がいなくなると、そんな運命をたどるんですね。何やら、人間世界を連想させますね。

 もっとも、この皿、本来、美術品としての実力がなかったんでしょう。 この皿を愛した人間に振り回されたということでしょうか、、、、、。

 

製作年代:皿、盃とも江戸時代後期


家庭菜園作業

2019年06月17日 19時40分05秒 | 家庭菜園

 今日は、妻と二人で、お弁当とお茶を持参して、午前9時半頃から午後3時半頃まで、家庭菜園作業をしてきました。

 作業内容は、その大部分は雑草取りです(><)

 最大の作業は、里芋を植えてある部分の作業です。まず雑草を取り、追肥をし、鍬を使って畝を作ってやりました。

 それをすると、里芋を植えてある部分が、いかにも畑らしくなるんですよね(^-^; 達成感を感じ、眺めているとウットリとします(笑)。

 後は、作物への追肥などの作業も行いましたが、ひたすら雑草取りに明け暮れました。

 作物も雑草に覆われ、何処にあるのか良く分からないような状態でしたが、雑草を取ったあとは、作物のみが立体的に浮き上がり、家庭菜園全体が、いかにも畑らしく見えるようになりました(^-^;

 でもね~、雑草は、また、直ぐ、生えてくるんですよね(><)

 これからは、雑草の生長と雑草取りとの競争になります(-_-;)