Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「白磁」いろいろ

2021年08月31日 17時12分12秒 | 古伊万里

 今回は、いろんな古伊万里の「白磁」を、まとめて紹介いたします。

 これらの「白磁」は、平成15年に(今から18年前に)買ったものです。

 これを売っていた古美術店の店主の言によりますと、これらは一括して蔵出しされたものだとのことでした。

 同じところから一括して出てきたとなれば、資料的にも貴重になりますから、数が多くなってその分値段も高くはなりますが、思い切って、全部まとめて購入することにしたわけです。

 

 

一括購入した白磁(全14点)

上段の左側2点:白磁蓋付碗  上段の右側2点:白磁筒形蓋物(右端は蓋欠損)

中段の左側2点:白磁碗  中段の右から2番目の重ねられた2点:白磁輪花深皿

中段の右端の1点:白磁向付

下段の左側2点:白磁蓋茶碗(左端から2番目は蓋欠損)

下段の右から2番目の1点:白磁小蓋茶碗(蓋欠損)

下段の右端の重ねられた2点:白磁輪花豆皿

 

 

 ところで、この中で、上段の左側の白磁蓋付碗(2点)は、先日(2021年8月17日)紹介しました「鍋島白磁 蓋付碗」とよく似ていることに気付きます。

 そうであれば、この白磁蓋付碗(2点)も「鍋島白磁」となり、その他の全部の白磁も「鍋島白磁」となる可能性が高くなりますね、、、。

 しかし、どうなんでしょうか、、、?

 それでは、さっそく、この白磁蓋付碗(2点)のみを取り出して良く見てみたいと思います。

 

 

白磁蓋付碗(2点)

立面

左側の白磁蓋付碗の陽刻紐状線の下側に更に鈍い紐状の線のようなものが

見えますが、それは補修痕です。

 

 

立面(代表の1個)

 

 

蓋を外し、本体を伏せたところ(代表の1個)

 

 

蓋を外し、蓋を裏返したところ(代表の1個)

 

 

 また、ここで、もう一度、先日(2021年8月17日)の紹介記事の中の「小さな蕾 2000年7月号」の中の小木先生が書かれた文章を再度転載いたします。

 

 

             鍋島白磁蓋付碗

                           小 木  一 良

                           (戸栗美術館常任評議員)

 

 

(1)出土陶片と一致する伝世品

 写真1イ・ロ・ハの白磁蓋付碗(以下本品と記す)を鍋島作品だと言ったら肯定する人が何人いるだろうか。

 しかし、本品は明確に鍋島作品と特定しうるものと言える。理由は全く一致する陶片が鍋島藩窯跡から出土しているからである。

 写真2イ・ロ・ハの白磁陶片は伊万里市教育委員会蔵の鍋島藩窯跡出土品である。これを本品と対比すると大きさ、器形、釉調などいずれの面からみても同一とみられる。

 私は再三この陶片を観察し、本品と並べてみたりしたが、両者は全く一致するとみざるを得ず、本品は鍋島作品と特定しうるものと結論するに至った。

 

(2)製作年代

 本品の製作年代は大体元禄後期頃と考えられよう。それは「元禄十二年柿銘小鉢」(写真3)との対比からみてである。両者を比べてみると器形が極めて類似ている。この元禄十二年柿銘小鉢も最初はおそらく本品と同様に蓋がついていたものと思われる。このような器形品は当時上手の作品によく用いられていたものであろう。

 両者で少し異なる点は元禄柿銘作品は体部に廻らされている陽刻紐状線が二重であるが、鍋島出土陶片と本品は一重であることと、器体下部の曲線が僅かながら異なっている。しかし、おおよその器形、全体的作ぶりからみて、両者の制作時代にそれほどの年代差があるとは考えにくく、本品は大体元禄十二年頃の作品とみて良いのではないかと思われる。

 次に本品を柿右衛門白磁と対比してみると、柿右衛門作品より、やや釉調に青味があり両者間の釉調は僅かながら異なっている。

 これは柿右衛門白磁との鑑別上の一つにポイントになることかもしれない。しかし、中白川窯出土の上手白磁陶片をみると、こちらはやや青味を帯びており、なかなか区別はしにくい。白磁について肉眼的に釉調のみで制作窯の判断をすることはよほど熟達した人でも無理のように思われる。

 製作窯の特定には釉調のほか、器形が出土陶片と全く一致していることが絶対的必要条件とされよう。

 興味深いことに、本品と同一器形で小形の伝世品が存在しているので、いろいろの大きさのものが作られたのだろうと思われる。鍋島といえば木杯形皿が典型的な形として頭にうかび、それ以外の器形のものは考えにくいのが一般的であろう。

 しかし、鍋島藩窯跡出土陶片類をみると、さまざまの形態、器形品がみられる。特に白磁、青磁で染付文様の無い陶片類の中にはその完器伝世品をみたとき、鍋島とは認定されにくいだろうと思われるものも少なくない。

 本稿にあげた白磁蓋付碗もその一つだが、次回は青磁作品のこうした例品をあげてみたい。

 出土陶片が明示されなければ鍋島作品とは判断のつけ難いものがいろいろ存在している点を考えると、公的機関の保有陶片と共に個人的所有陶片も含めて木杯形以外の器形陶片類ができるだけ多数公表されてほしいものである。

 

 鍋島藩窯出土白磁陶片(写真2イ・ロ・ハ)は伊万里市教育委員会蔵品を撮影、掲載させていただきました。

 

 

 こうしてみますと、やはり、この白磁蓋付碗(2点)も、上掲の鍋島白磁蓋付碗と非常に良く似ていることが分かります。

 上掲の説明文にもありますように、「鍋島」は、

 

「 興味深いことに、本品と同一器形で小形の伝世品が存在しているので、いろいろの大きさのものが作られたのだろうと思われる。鍋島といえば木杯形皿が典型的な形として頭にうかび、それ以外の器形のものは考えにくいのが一般的であろう。

 しかし、鍋島藩窯跡出土陶片類をみると、さまざまの形態、器形品がみられる。特に白磁、青磁で染付文様の無い陶片類の中にはその完器伝世品をみたとき、鍋島とは認定されにくいだろうと思われるものも少なくない。」

 

ということですね。そうしますと、この白磁蓋付碗(2点)も鍋島白磁の可能性が高いと思われるわけです。

 そうであれが、今回紹介します14点の白磁も、全て、鍋島白磁と言えるのではないかと思うわけです。

 と言うわけで、今回紹介します14点の白磁の生産地につきましては、問題提起の意味も含め、全て、「生産地:肥前 鍋島藩窯」とさせていただきます。

 

白磁蓋付碗

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 本体部口径;12.7cm 高台径;6.0cm 高さ;5.8cm 高さ(蓋共);8.7cm 蓋口径;13.3cm

 

 

  以下、順に、その他の白磁についても、個別に紹介いたします。

 

白磁筒形蓋物(2点)

立面(右側は蓋欠損)

 

 

立面(代表の1個)

 

 

蓋を外し、本体を伏せたところ(代表の1個)

 

 

蓋を外し、蓋を裏返したところ(代表の1個)

 

白磁筒形蓋物

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 本体部口径;9.3cm 高台径;4.8cm 高さ;7.0cm 高さ(蓋共);8.8cm 蓋口径;10.1cm

 

 

白磁碗(2点)

立面

 

 

立面(代表の1個)

 

 

見込面(代表の1個)

 

 

底面(代表の1個)

 

白磁碗

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 口径;11.6cm 高さ;7.4cm 高台径;5.4cm

 

 

白磁蓋茶碗(2点)

立面(右側は蓋欠損)

 

 

立面(代表の1個)

 

 

蓋を外し、本体を伏せたところ(代表の1個)

 

 

蓋を外し、蓋を裏返したところ(代表の1個)

 

白磁蓋茶碗

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 本体部口径;10.1cm 高台径;4.1cm 高さ;4.8cm 高さ(蓋共);6.4cm 蓋口径;9.5cm

 

 

白磁小蓋茶碗(蓋欠損)(1点)

立面

上掲の「白磁蓋茶碗」より一回り小さな蓋茶碗です。蓋は欠損しています。

 

底面

 

白磁小蓋茶碗

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 本体部口径;9.3cm 高さ;3.4cm 高台径;3.5cm

 

 

白磁向付(1点)

立面

 

 

見込面

 

 

底面

 

白磁向付

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 辺径;9.1cm 高さ;6.7cm 高台径;4.8cm

 

 

白磁輪花深皿(2点)

立面

 

 

立面(代表の1枚)

 

 

表面(代表の1枚)

 

 

底面(代表の1枚)

 

白磁輪花深皿

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 口径;14.2cm 高さ;5.1cm 高台径;7.4cm

 

 

白磁輪花豆皿(2点)

立面

 

 

見込面

 

 

底面

 

白磁輪花豆皿

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期(元禄後期)

サ イ ズ : 口径;9.9cm 高さ;2.3cm 高台径;5.6cm


染付 網目文 小角徳利

2021年08月29日 12時44分06秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 網目文 小角徳利」の紹介です。

 これは、平成15年に(今から18年前に)手に入れたものです。

 買う時点では、江戸中期くらいの古伊万里かなと思って買ったのですが、眺めているうちに、だんだんと、違和感を覚えるようになってきました(~_~;)

 「伊万里にしては土が違うな~」と感じるようになったからです(~_~;)

 結局、「瀬戸辺りで作られたものではないだろうか、、、」との結論に達しました。瀬戸で作られたとなりますと、作られた時期も江戸中期ではなく、江戸後期になりますね。

 でも、一輪挿しにちょうどいい大きさでもありますので、時々、花生けとして活躍してくれています(^_^)

 

 

立面

写真では、下にゆくにしたがって少しすぼまってみえますが、

実際にはずんどうで、ほぼ同じ太さです。

 

 

やや斜め上から見た面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 瀬戸

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 高さ;17.3cm 上辺径;6.0cm 底辺径;6.0cm


染付 草花文 小皿

2021年08月28日 14時48分32秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 草花文 小皿」の紹介です。

 この「染付 草花文 小皿」につきましては、このブログでも、既に、2020年5月9日に『「初期伊万里の小皿」と「くらわんか手の小皿」』という記事の中で、チラリとは紹介しているのですが、ここで改めて紹介したいと思います。

 これは、いわゆる「くらわんか皿」と言われるものですね。

 

表面

 

 

裏面

 

生 産 地 : 肥前・波佐見

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ ; 口径;12.3cm 底径;4.9cm

 

 

 ところで、私は、これを、平成15年に(今から18年前に)、骨董市で買ったものです。

 その頃は、私も、まだまだ不勉強で、これは有田で江戸時代前期に作られたものと思っていました(~_~;) ただ、時代的には初期伊万里よりは新しいものだとは思っていましたが、、、。

 その後、平成24年3月1日に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介していますけれども、その頃になりますと、私の勉強の成果も少しは上がってきたとみえ、この「染付 草花文 小皿」を江戸後期に波佐見で作られたものとして紹介しています。

 そのようなことなものですから、役には立たないでしょうけれども、そのかつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でこの小皿を紹介した部分の文章を次に紹介したいと思います。

 蛇足の感を免れませんが、暇潰しにお読みいただければ嬉しいです(^_^)

 

 

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       <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー168  伊万里染付くらわんか手小皿     (平成24年3月1日登載)

 

 

 この小皿には、

① 成形が厚手で、その分手取りも重い。
② 陶石に鉄分を多く含むため、鼠色がかった地肌である。
③ 重ね積みして焼成するため、熔着防止用に、見込みを蛇の目状に釉剥ぎしている。
④ 高台が小さい。
⑤ 絵付けは粗雑である。

という特徴がある。 

 これは、従来、「初期伊万里」の特徴と言われてきたものとほぼ同じである。
 従来の鑑賞眼からすれば、この小皿は、「初期伊万里」に該当するであろう。 

 しかし、これらの特徴は、いわば、古伊万里を美術鑑賞の面から捉えたものであろうと思う。

 でも、そもそも、伊万里が、美術工芸品として作られたものではなく、産業として作られたものであることに思い致せば、見方もまた自ずと違ってこよう。 

 ここで、江戸後期になり、鍋島藩の隣の大村藩内の波佐見で、伊万里よりも低価格のものを大量に生産し、流通市場に打って出ていった「くらわんか」というものがあることに注目しなければならない。
 今で言う、価格破壊商品というものであろう。

 その「くらわんか」は、結果的に、従来言われてきた「初期伊万里」の特徴によく似ているのである。
 この小皿は、やはり、「くらわんか」に属するものと思っている。

 

江戸時代後期    口径 : 12.3cm   高台径 : 4.9cm 

 

 

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*古伊万里バカ日誌99  古伊万里との対話(くらわんか小皿)(平成24年3月1日登載)(平成24年2月筆)   

登場人物
  主    人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  くらわんか  (伊万里染付くらわんか手小皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、押入れ内をガサゴソ物色していたが、何やら、粗雑な作りのパットしないものを見つけたようで、さっそく引っ張り出してきて対話をはじめた。

 


 

主人: お前は何時見てもパットしないな~。いかにも安っぽく見えるね~。

くらわんか: しょうがないでしょう! もともとそのように作られて生まれてきたんですから(プンプン)。
 でも、「初期伊万里」さんなんか、私と同じようでしょう。それでも、高く評価され、値段も高いではないですか!

主人: そうなんだよね。私も、お前を見た瞬間、「あっ、これは初期伊万里だ! 否、それよりももっと古い草創期の伊万里だ!」と思って飛びついて買ったんだよね。
 だがね、買ってきて、手元に置いてしばらく眺めていたら、なんか、違和感を覚えるようになったんだ。

くらわんか: なにか根拠があるんですか。

主人: 草創期の伊万里は、造形法についてのみならず、登り窯で焼くとか、砂目積して重ね焼きをするとかの窯詰め法や焼成法等の基本的な部分については李朝陶技によっているけれど、染付技術は朝鮮半島からの渡来の陶工にはなかったと思われるので、染付技術などは中国陶技によるものだと言われているんだ。つまり、伊万里焼については、当初から、より高度な中国陶技の影響もあったと言われているわけだね。だから、磁器である伊万里焼は、当初から、より高度な技術も取り入れられて作られているので、そんなに粗雑で稚拙ではなかったわけだ。

くらわんか: でも、草創期のものは、素朴で稚拙に見えるというではないですか。そこにナイーブな美があるとか・・・・・。

主人: それは作られた神話だね。
 こと伊万里に関してはそんなことはなかったと思っているよ。
 そもそも窯業は、半農半陶の田園的・牧歌的な作陶生活の中で生産するならともかく、専業として、製陶業として成り立たせるためには、大量生産し、しかも高級な商品として生産し、広範囲に流通させなければならなかったと思う。そうでなければ、採算が合わず、成り立たなかったと思うからだ。その点、伊万里の場合は、流通に関しては、既に唐津焼が先導的役割を果し、開拓していたから恵まれていたといえるね。
 だから、伊万里の窯も、当初は、陶器である唐津焼と磁器とを同一の窯の中で併焼していたが、磁器が商品として大量に売れる、磁器が専業として成り立つという見込みが立つや否や、続々と磁器専業窯に転向していったわけだ。 

くらわんか: そうは言っても、現実には、その草創期に作られた磁器は、私のような、素朴で稚拙ともいえるようなものだったのではないですか?

主人: そうだよね。昔はそのように思われてきた。初期伊万里の中でも最も早い頃の物だとね。私もそのように思い込んでいたものだから見誤った。
 しかし、より高度な技術が駆使され、大量生産の中で高級品として商品化されて生まれてきたものには、もっとシャープな、キリットしたところがあるね。素朴で稚拙なナイーブさを売り物にするような、感傷的で甘ったれた態度は微塵も伺えないな。そのことは、発掘出土品が明瞭に証明しているよ。

くらわんか: それでは、私は、何時頃作られたんでしょうか?

主人: 初期伊万里が作られた時代よりはず~っと遅く、江戸時代も後期の頃になって作られたのではないかな。
 それに、作られた場所も、鍋島藩領内の有田ではなく、その近くの、鍋島藩のお隣の大村藩領内の波佐見で作られたものだと思う。

くらわんか: そうしますと、私は、「古伊万里」とは言えないんですか・・・・・。

主人: そうね。人によっては、「伊万里焼」ではなく「波佐見焼」だと言うね。
 ただ、私は、肥前地域一帯で焼かれた磁器はすべて「伊万里焼」と考えているんだ。その内の古いものを「古伊万里」と考えているわけだ。だから、波佐見で焼かれたお前も「古伊万里」だと考えているよ。平戸で焼かれたものでも「古伊万里」と考えているね。
 でも、「波佐見焼」や「平戸焼」を「伊万里焼」と一緒にしたくはないとの意見も強いので、それらの意見と妥協し、当面、「波佐見焼」の場合は、その代表的なものが「くらわんか」なので、「伊万里○○くらわんか手××」というように表示し、「平戸焼」の場合は、「伊万里○○平戸手××」というように表示しようと考えているんだ。

くらわんか: そうしますと、私は、俗に言う「くらわんか皿」に属するんですね。

主人: そうだね。

くらわんか: しつこいようですが、「くらわんか皿」と言いますと、例えば、「古伊万里ギャラリー130」にある中皿(このブログでは、2021年3月19日紹介の「色絵くらわんか中皿」

)のようなものが典型的なもので、これに類似しているのであれば、私も納得しますが、私の場合は、どうも、これとは違うように思うんですよね。

主人: お前は、「古伊万里ギャラリー130」の中皿(このブログでは、2021年3月19日紹介の「色絵くらわんか中皿」)よりもず~っと古そうに見えるけど、残念ながら、「古伊万里ギャラリー130」の中皿(このブログでは、2021年3月19日紹介の「色絵くらわんか中皿」)よりは若干古い程度じゃないのかな。古伊万里草創期からはずれると、そこにしか行き場がないんだよ。

 

(注) 文中、対話形式としましたことから、その流れの中で、「伊万里」、「伊万里焼」、「古伊万里」と、呼び方がいろいろになってしまいました。混乱されるかもしれませんが、基本的には、「伊万里」=「伊万里焼」=「古伊万里」としてお読みいただければ幸いです。

 

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色絵 唐子人形 水滴

2021年08月27日 15時47分44秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 唐子人形 水滴」の紹介です。

 これを最初に見たとき、水滴にしてはちょっと大き過ぎるように見えましたので、伊万里の風俗人形かなと思いました。でも、しっかりと水滴を垂らす穴がありましたので、水滴にまちがいないだろうと思い、買うことにしました。

 案外、伊万里の水滴というのは、有りそうでないんですよね(^_^)

 

 

正面

首の左側の付け根付近に、水滴を垂らす穴が開けられています。

 

 

右側面

右肩の付け根付近に空気穴が開けられています。

 

 

背面

右肩の付け根付近に空気穴が開けられています。

 

 

左後方から見た背面

「寿」字の左下方にも文字らしきものが書かれています。「開」でしょうか、、?

 

 

左側面

 

 

底面

ブツブツした跡は、砂のようなものがめり込んで出来たもので、汚れではありません。

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期

サ イ ズ : 高さ;10.4cm


染付 菊絵 大角皿

2021年08月26日 17時00分29秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 菊絵 大角皿」の紹介です。

 

表面

 

 

裏面

 

生 産  地: 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 辺径;15.3cm 高台径;9.5cm 高さ;3.8cm

 

 

 これは、いわゆる「後期鍋島」と言われるものです。

 この類品が、「鍋島 後期の作風を観る」(小木 一良著 創樹社美術出版 平成14年発行)に掲載されていますので、まず、次に、それを紹介いたします。

 

 

(30)菊絵大角皿(1)

 写真(30)と(31)の表文様と器形を見たとき、殆んど差違は見出し難い。

 写真(31)は天保10年銘の箱入品であり、写真(30)も同年頃の作かと考え易いが、裏側面カニ牡丹文をみると、(31)は葉数が26枚であり、(30)は30枚で描かれている。詳細に見ると高台作り、高台櫛目文にも違いが見られる。

 又、(30)は辺径が15糎を超えているが(31)は14.7cmである。

 本品は安永3年に近い年代の作品と考えられる。

 

 

(31)菊絵大角皿(2)

 本品は「天保10年(1839)」在銘箱に入り伝世したもので、先著「伊万里の変遷」に掲載している。染付の色合い、釉調共に美しく造形も良い作品である。しかし、裏側面カニ牡丹文の葉数は26枚である。裏文様は(30)と比べ大きな変化が見られる。

 この文様は元々、将軍家お好みで始まっている点を見れば、その後も殊に入念に製作されたのかもしれない。

 ほぼ同形の方形皿で先の「山水絵中角皿」とこの「菊絵大角皿」は何故、中皿と大皿と区別されているのだろうか、その理由は論考中に記しているので参照いただきたい。

 

<参考>「中皿と大皿の区別」・・・論考中から抜粋(P.218)

 次に江戸時代と現代で大きさを示す呼称が変化している点を付記しておきたい。

 方形皿で「山水絵中角皿」と「菊絵大角皿」の記載が見られる。

 私は江戸期の伊万里箱書品は多数調査してきたが、丸皿で口径14~5cmの皿はすべて「中皿」記されており、口径18cm程度になると「大皿」と記されている。例外は見た記憶はない。

 「山水絵角皿」は伝世品をみると大体辺径14.2cmくらいである。一方、「菊絵角皿」の伝世品には口径14cm台のものも存在するが古作と見られるものは大体15.2~3cmくらいのものが多い。これらを同面積の円形皿に換算してみると、前者は口径16.ocm、後者は17.3cm程度となる。山水絵角皿を「中角皿」、菊絵角皿を「大角皿」と記したのは当時の一般的呼称によっているものである。

 

 

 以上の「鍋島 後期の作風を観る」の解説によりますと、今回紹介の「染付 菊絵 大角皿」は、裏側面カニ牡丹文の葉数が30枚ですし、辺径も15糎を超えていますので、「鍋島 後期の作風を観る」の図(30)菊絵大角皿(1)に近いことが分かります。つまり、今回紹介の「染付 菊絵 大角皿」は、安永3年に近い頃に作られたものであることが分かります。

 ところで、余談になりますが、「鍋島」は、鍋島藩から将軍家への献上品、或いは、各大名等への贈答用の食器だったわけですよね。そして、各大名等は、贈られたそれら食器を、茶道具等の美術品を納めた蔵である数寄方にではなく、日用品等を納めた蔵である納戸方に保管していたということですね。

 そうであれば、大名達は納戸方に保管していたくらいですから、これらを下級武士等に簡単に下賜したことも考えられますね。

 そのようなことを考えますと、現代では、これらが、とんでもない所から出てこないとも限らないわけですね。

 「鍋島」獲得にはまだまだ高い可能性が秘められているのではないでしょうか! まだまだ大きな夢が残されていると思います!!