今回は、「色絵 菊花文 5寸皿」の紹介です。
前回紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」は、平成11年12月に手に入れたものですが、これは、その3ヶ月後の平成12年3月に手に入れたものです。案外、骨董市場には同じようなものが引き続いて登場してくるようです。
ただ、前回紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の方は、かなり薄造りでシャープで、染付も淡く上品に作られており、いかにも「鍋島」の片鱗をうかがわせますが、この「色絵 菊花文 5寸皿」の方は、かなり厚く作られていて重たく鈍重で、染付の色合いも濃く、上品さに欠けると言わざるをえないようです(~_~;)

表面

側面

底面
生 産 地 : 肥前・鍋島藩窯
製作年代: 江戸時代後期
サ イ ズ: 口径;15.7cm 底径;7.9cm 高さ;4.8cm
なお、この「色絵 菊花文 5寸皿」につきましても、前回に紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」と対比しながら、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で詳しく紹介しているところです。
そこで、その際の紹介文を、次に、再度掲載し、この「色絵 菊花文 5寸皿」の紹介とさせていただきます。
=====================================
<古伊万里への誘い>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*古伊万里ギャラリー159 鍋島様式色絵菊花文小皿 (平成23年6月1日登載)

この小皿は、染付部分だけを見ると、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」によく似てはいるが、よくよく見てみると、最上段の菊の花の左下には葉っぱが、また、下の枝の先端の菊の花の上には蕾が描かれており、前回の「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介のところで紹介した「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)に登載されている小皿とそっくりである。
ところで、このように、表文様に微妙な違いはあるものの、この手小皿の伝世品は相当数見られるところであり、果たしてこれらのすべてが本当に鍋島といえるのであろうか? との疑問が生じるところである。
この点に関しては、「鍋島Ⅱ──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成16年11月9日刊)に、次のように書かれている。ちょっと長くなるが、引用し、紹介したい。
(四) 安永三年献上品類後年の変化と藩窯体制の弛緩
安永三年(1774)献上品、十二種類作品について、未確認の「松千鳥絵猪口」を除き、他の十一種文様作品類は幕末まで将軍家への献上のみに限って製作されたのだろうか。私は否と考える。
理由の最大のものは伝世品数が余りにも多過ぎることである。現在、これらの作品の伝世品を調査してみると、実に大量のものがある。中でも最も多いのは「菊絵大角皿」であり、次いで「秋草絵丸皿」「山水絵中角皿」「金魚絵船形皿」などである。
私は平成十四年、前著を上梓する直前三~四年の間に調査した数は「菊絵大角皿」は百点をかなり超え、「秋草絵丸皿」「山水絵中角皿」「金魚絵船形皿」の三種は百点に近い数に及んでいる。その他大皿を除く作品類についてはいずれも五十点前後は調査している。「梅絵大肴鉢」「牡丹絵中肴鉢」にしても伝世品数は決して少ないものではない。
これらの伝世品を全国的に徹底的に調べたら一体どれだけの数が存在しているだろうか。数字的には確認しにくいが膨大な数に上ることは間違いあるまい。
私は昭和四十五年から五十五年頃の間、自宅用食器として「葡萄絵菊皿」の十枚組と、「金魚絵船形皿」の五枚組などを使用していた思い出がある。当時は現在より、市中伝世品ははるかに多く、古美術店の店頭商品は五~十枚組が主であった。
こうしたことを省みると、これら膨大な数の作品類がすべて将軍家に献上されたとはとても考えられるものではない。ある年代以降は相当広範囲にわたり用いられたと考えざるを得ない。この観方を裏付ける二例がある。
一つは図版(63)「菊絵大角皿」であるが、この箱には「天保十亥年(1839)求之 菊絵角皿拾弐入、高島氏」と書かれている。これからみて、この皿は天保十年に高島氏が12枚を有償で購入したものと思われる。「求之」の書き方は先記の(142)「草花文大猪口」の箱書と同じである。高島氏も宇都宮の富裕町人、池澤伊兵衛と似たような立場の町人であったのではなかろうかと思われる。いずれにしても高島氏が将軍家と関わりのある人とは考え難い。
次に写真(66)「菊絵大角皿」は五枚が箱に入り、器物入手時の状況を書いた紙が付けられている。
この紙書には「○四年辰八月吉日、鍋島焼、菊模様角皿五枚、代金三分三朱にて求之」と書かれている。(挿図上)年号を示す部分が欠落しているが、下が四で辰年は「慶応四年辰年」が該当する。従ってこの紙書は慶応四年辰八月の日付であることが判る。翌九月には「明治」に改元されている。
この紙書と五枚の皿は興味深い。皿の裏側面カニ牡丹文の葉数は二十六枚で描かれ、表文様も整っている。一見、天保十年銘箱入品と殆んど差違は認められない。ところが大きく異なるのは重量で、非常に重い。
同文の十八世紀作品皿とこの皿、それぞれ五枚の平均重量を計ってみると、前者は三百グラムであるが後者は四百グラムである。三十三パーセントも重い。造形は極めて厚く鈍重である。
次に紙書には「鍋島焼」と「代金三分三朱にて求之」と書かれている。
この所有者は代金三分三朱を支払って入手したことと、それが鍋島藩窯作品であることを承知していたことが判る。
これらを見ると、慶応四年頃には鍋島作品が市中で販売され、「鍋島」の呼称も一部の人々ではあろうが使用されていたことが判る。
販売者は鍋島藩から受領した人が売却したのか、又は鍋島藩自体が商人を使って何らかの方法で販売したのかのいずれかであろう。
幕末期には鍋島藩窯作品も販売されていたのではないかとの観方は古くから一部では主張されていたが、本例を見て私もそれが事実ではないかとの感を強くしている。
いずれにしても慶応四年には鍋島作品本来の流通秩序は全く崩壊していたことは確実と思われる。
さて、以上の通り、流通状況の著しい変化と並行して、鍋島藩窯体制も安永三年以降、時代と共に大きく緊張感は弛緩したと思われる。それを推測出来る数例をあげてみよう。
(途 中 省 略)
安永三年献上の十二通り作品については古文書を見ると当初は幕府側と緊張した交渉状態が判るが、それは年と共に薄れ、後年、確認出来る年代としては天保十年には贈呈先は多方面に亘っており、幕末には市販か、それに近い状態にまで乱れてきている。
これと並行し、藩窯体制も緊張感が漸次失われていったことが判る。
(193~196ページ)
以上のように、後期鍋島の伝世品は多く存在してもおかしくないのであり、この小皿も本物の「鍋島」と思っている。
ところで、この小皿は、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」に比べると、造形は厚く鈍重で、ずしりと重い。
ちなみに、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の5枚の平均値は、
重さ |
口径 |
高台径 |
高さ |
206グラム |
15.1cm |
7.9cm |
4.5cm |
で、この小皿の数値は、
重さ |
口径 |
高台径 |
高さ |
315グラム |
15.7cm |
7.9cm |
4.8cm |
である。
この小皿のほうが、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」よりはちょっと大きめなので、厳密な比較にはならないかもしれないが、それにしても、この小皿、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」と比較して口径で0.6cmしか大きくないのに、109グラムも重い。百分率にして実に53パーセントも重いのである。
鈍重さと重さを感じる所以である。
こうして比較してみると、この小皿よりは、シャープで薄作りな前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」のほうが若干古いんじゃないかと思っている。
( 江戸時代後期 口径:15.7cm 高台径:7.9cm 高さ:4.8cm )
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*古伊万里バカ日誌91 古伊万里との対話(色鍋島菊花文の小皿)(平成23年6月1日登載)(平成23年5月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
紅 菊 (鍋島様式色絵菊花文小皿)

・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、前回、「鍋島様式染付菊花文小皿」を押入れから引っ張り出してきて対話をしたが、その際、押入れの中のすぐ近くに、その「鍋島様式染付菊花文小皿」に非常によく似た小皿があることを知っていたので、今回は、躊躇なく、その小皿を引っ張り出してきて対話をはじめた。
主人: 前回は「鍋島様式染付菊花文小皿のお菊」(以下「お菊」という。)と対話をしたが、今回は、その「お菊」と非常によく似ているお前に出てもらった。
紅菊: そうですね。「赤」の部分を除くとそっくりですね。
主人: うん、そうなんだ。染付部分だけを見ると非常によく似ているよね。でもね、仔細に見ると、「お菊」とちがって、お前の場合は、最上段の菊の花の左下に葉っぱが描かれ、また、下の枝の先端の菊の花の上に蕾が描かれている。その点では、前回も話題になった、「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)の図166(174頁)とそっくりだ。
紅菊: 瓜二つですね。
主人: ただね、絵付けだけを見ていると、「お菊」とお前は瓜二つとまではいかないけれど、かなり似ているんだが、造形などで比較すると相当に違うんだよ。
「お菊」の場合は、かなり薄造りでシャープだし、染付も淡く上品だ。いかにも「鍋島」の片鱗をうかがわせるな。それに反して、お前は、かなり厚く作られていて重たく鈍重で、染付の色合いも濃くて上品さに欠けると言わざるをえない。
紅菊: それでは私は「鍋島」ではないのでしょうか。
主人: 前回も話題にしたが、「お菊」のことは平成11年の12月に買ったんだ。お前のことは、その三ヶ月後の平成12年の3月に見つけたんだが、私は、「お菊」が「鍋島」なら、お前も「鍋島」に違いないと自信をもって買っているよ。
紅菊: そうですか。嬉しいです。私は「鍋島」にまちがいないんですね。
主人: そうだ。そのことは、前述のように、平成14年11月に「鍋島──後期の作風を観る」が発刊され、お前と同類が掲載されたことによって証明されたわけだ。
紅菊: その当時の評価はどうだったんですか。
主人: 「お菊」を含めて、お前達に対する評価は芳しくなかったね。第一、お前達の伝世品の数が多過ぎるんだよ。それまで、「鍋島」は将軍等への献上品ということになっていたから、そんなに数が多いわけがないと言われてきていたからね。それに、「鍋島」は上手で品格高いものと言われてきていたので、お前達のように下手で品格のないものは「鍋島」なわけがないと思われたわけだ。お前達は、「鍋島」のブランドを汚すとか、「鍋島」の面汚しとささやかれたかな。
紅菊: それは残念です(涙)。
主人: ただね、幕末になると鍋島藩窯体制も大きく弛緩し、鍋島藩窯製品は販売もされていたらしいことがわかってきた。そうであれば、伝世品が多いことも納得できるよね。
こうした現実を直視し、幕末期に限ってではあるが、『「鍋島」とは鍋島藩窯で作られた優品を言い、非常に数が少ないものである。』という従来の概念は変えざるを得なくなったわけだ。
しかしだね、お前達は戸籍も確定し、「鍋島」ブランドの仲間入りを果たしたわけだけれど、そのことによって直ちに美術的評価も格段に高まったとは言えないと思うね。
紅菊: それはどういうことですか?
主人: お前達は、それまで、明治以降に、鍋島藩窯以外の何処かの窯で作られたものだと思われてきた。言うなれば「鍋島」の偽物とされてきて相手にされなかったわけだ。それが、一応、「鍋島」の仲間入りをして、相手にされるようになったわけだが、それとても、直ちにこれまでの盛期鍋島が有していたような評価は得られなかったな。古伊万里でも、上手の献上手の物は評価が高く、下手の普通の物は評価が低いのと同じように・・・・・。
ようするに、「鍋島」の仲間入りをしたにはしたが、一気に盛期鍋島のような値段にはならなかったということだよ。世間様は知っているんだよね。美術品の価値はブランド名だけでは決まらないことを・・・・・。物の良し悪しはブランド名で決まるんじゃないんだよね。物そのものの良し悪しで決まるんだよね。
紅菊: でも、これまで「鍋島」の偽物とされ、世間様から冷たくされて相手にされなかったことに比べれば、ず~っと幸せです(*^_^*)
主人: そうだよね。分相応というからね。急激に多くを望まないことだよね。
ところで、お前には、前述の「鍋島──後期の作風を観る」の図166と比較すると、染付部分は瓜二つだが、菊の花の幾つかに「赤」が付彩されているな。
紅菊: どうしてなんでしょうか? 後絵なんでしょうか?
主人: 「赤」を付彩し、付加価値を高め、少しでも高く売ろうとした販売対象商品だったからではないのかな~。
なお、「赤」の付彩は、後絵ではないと思うよ。だいたい、「鍋島」の偽物とされ、相手にもされなかったような評価の低い物にわざわざ手間をかけたって意味のない行為だからね。わざわざ手間をかけて後絵を施し、更に評価を下げるような行為は愚の骨頂であり、泥棒に追い銭みたいじゃないの。それにね、幕末の「鍋島」には、「赤」のみをちょちょっと付彩したものが時々あるんだよ。
紅菊: 後絵ではないんですね。それで安心しました(^_^)
主人: 総じて、お前は、鍋島藩窯体制が弛緩し、鍋島藩窯製品の一部が「鍋島焼」として市販されるようになってしまった頃に作られたもので、造形の粗雑さなどを色絵でカバーし、なんとか「鍋島」の面目を保った、ギリギリの「鍋島」というところかね。その意味では、最後の「鍋島」を示す記念碑的な作品と言えるのかもしれないな・・・・・。
=====================================