Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 山水文 八寸鉢

2021年07月31日 16時56分46秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 山水文 八寸鉢」の紹介です。

 これは、先日の令和3(2021)年7月12日に紹介しました「染付 山水文 角鉢」とよく似ています。

 先日紹介しました「染付 山水文 角鉢」の場合は、見込みの真ん中に山水文が描かれ、その周辺には花らしき文様が陽刻されていたわけですが、この「染付 山水文 八寸鉢」の場合は、やはり、見込みの真ん中に山水文が描かれているところまでは同じですが、その周辺には山水文らしき文様が陽刻されています。

 当時は、見込みの真ん中に山水文を描き、その周辺に陽刻文を施してチョッピリ華やかさを演出するというパターンが流行ったのでしょう。そして、かなり分厚く作られ、重量感のあるように作られているところも特徴的です。

 

 

表面

 

 

側面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期~後期

サ イ ズ : 口径;24.0cm 高さ;5.0cm 底径;14.5cm


銹釉色絵 鶴首徳利

2021年07月30日 14時08分10秒 | 古伊万里

 今回は、「銹釉色絵 鶴首徳利」の紹介です。

 

立面

 

 

赤絵部分の拡大

赤の釉薬を掻き落として牡丹の花と葉を描いています。

 

 

底面

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ  ズ: 口径;2.1cm 高さ;22.8cm 底径;5.8cm

 

 

 この「銹釉色絵 鶴首徳利」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、既に紹介しているところです。

 次に、その時の紹介文を再度掲載いたしますので、補足としてお読みいただければ幸いです(^_^)

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー162  伊万里銹釉色絵鶴首徳利          (平成23年9月1日登載)

 

   

 これはかなり珍しい。江戸初期に山小屋窯や百間窯で焼かれた「多彩釉」ともちがう。かといって普通一般の「色絵」ともちがう。

 と言うのも、赤と緑は、色絵用の赤と緑の色絵具を使っているので、「多彩釉」とは言えないだろうし、赤絵具の上に描かれている文様も絵筆で描かれているわけではないので、普通一般には「色絵」とは言えないだろうと思うからである。

 ところで、このような、めったにないような、これまでに目にしたこともないような物に遭遇した時、人は二手に分かれるようである。

① 一人目は、素晴らしい逸品と認める者
② 二人目は、「君子危うきに近寄らず」で、無視する者

 この鶴首徳利の赤絵具の部分には、牡丹の花と葉が描き落しで見事に描かれている。私は、その掻き落しで描いた牡丹の花と葉の素晴らしさと掻き落しで文様を描くという伊万里にしては珍しい技法を使用していることから、前者に属する者であることを自認するものである。

 

    江戸時代前期     口径:2.1cm  高さ:22.8cm  底径:5.8cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌94  古伊万里との対話(色絵掻き落しの鶴首徳利)(平成23年9月1日登載)(平成23年8月筆)

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  銹 彩 (伊万里銹釉色絵鶴首徳利)

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 節電が強く叫ばれた今夏も、どうやら峠を越えた感がある。
 主人は、夏を迎えるにあたり、ステテコ姿で家で引っくり返っていれば夏も過ぎ去ってくれるだろうなどとの甘い考えを抱いていたようであったが、現実にはそうもいかず、やはり厳しい夏を迎えたようである。
 主人は、その厳しい夏も峠を越え、ホット一息ついたところで、古伊万里と四方山話をしたくなったようで、押入れから古伊万里を引っ張り出してきて対話をはじめた。

 

 


 

主人: 今年の夏は暑かったな~。年々暑くなっているような気がするよ。地球がだんだん温暖化しているのかな~。特に、今年は、〝節電〝などがやかましく言われていたので、暑さに拍車がかかった。
 その点、お前達古伊万里はいいよな~、暑さ寒さは関係なしだものな~。

銹彩: そうですね~。暑さ寒さには関係ないですね。でも、冬はちょっと要注意ですよ。私なんか、液体を入れられて厳寒の中に放置されたら、その液体が凍結して膨張し、割れてしまいますから・・・・・。私のような鶴首形の徳利には、よく胴にヒビが入っているものが見られますね。多くは染付のものに多いようですが。  

主人: そうだね。お前のような鶴首形の徳利は、一対で、神前に御神酒徳利として供えられることが多いから、御神酒が入れられたままに厳冬の中に放置されると、それが凍結して胴にヒビが入っちゃうよね。
 その点、お前には胴にヒビもないし、染付でもないから、御神酒徳利として使用されたんではないようだね。

銹彩: そのようですね。私が御神酒徳利だったとしますと、落語の「御神酒徳利」に出てくるような面白いお話しの展開が期待出来たんですが・・・・・。残念です。

主人: まあな。でもね、落語の「御神酒徳利」に出てくるような多彩な話しの展開はないが、お前を手に入れるに当たっては多少の経緯はあったんだよ。 

銹彩: どんないきさつですか。

主人: お前のことは平成12年に或る地方都市のちっぽけな骨董市で買ったんだ。骨董市といっても、青空の下でのそれではなく、公共の建物の中の小さな会議室を2~3室借り切って行われたものだった。私だって、普通なら、そんな小さな骨董市などにわざわざ出かけて行くわけがないし、その地方都市だって我が家からはけっこうな距離にあるので行く気にもならないところだったが・・・・・。

銹彩: どうして行く気になったんですか?

主人: あっちこっちの骨董市に出展していた業者さんから、「今度、○○で新規に骨董市を開催しますので、是非お越し下さい。」という旨の案内状をいただいたんだ。その業者さんからは何点か購入していて顔馴染みになっていた。
 その案内状を見て、「そうか、あの業者さんは、今度は独立し、自分で骨董市を主催する立場になったんだ! 出世したんだ!」と思ったよ。 ただ、案内状をよく読んでみると、出展業者の数は少なく、かなり規模も小さいことがわかったが、一応、義理立てして、行くだけは行ってみるか、顔だけでも出しておくか、という気持ちで出かけたわけだ。

銹彩: そんな所に私は置かれていたんですか。

主人: そうなんだ。そんな所でお前と出会ってしまった(~_~;)  困ったよね~(>_<)  だって、義理で顔だけでも出して帰るつもりでいたから、全く古伊万里など買うつもりはなかったし、お金も少ししか持ってなかったのでね~。
 案外、新規に骨董市を開催するとなると、出展する業者さんも心機一転、張り切って、取って置きの物を提供することがあるんだね。
 ちなみに、その業者さんは、お前のことをずっと前に気に入って買ったんだそうだよ。商売をするようになって、だんだんと手持ちの商品も少なくなってきてしまって、今回、押入れの一番奥の方に仕舞い込んでおいたお前を目玉商品として出品することにしたんだそうだ。
 それはともかく、そんな時は困るよね~。「お金がない、でも欲しい!」ということで(~_~;)
 その業者さんとは顔馴染みではあるが、「お金なら何時でもいいよ! 気に入ったんなら持って行って!」というような会話が出来るほどの親密な間柄ではなかったんでね・・・・・。

銹彩: でも、なんとか工面がついたんでしょう?

主人: お金の工面がついたというよりは、私が、「欲しいんだけど、今、持ち合わせがないしな~」などとつぶやいていたら、先方が、「お金なら何時でもいいですよ。気に入ったのなら持って行かれても結構です。」と言ってくれたんだ。先方としては、せっかく新規に骨董市を開いてはみたものの、やはり規模が小さく知名度もないので、ほとんど来店者が無く、物は売れずで、困っていたんだね。それで、貸し倒れの危険を覚悟でそんな提案をしてきたんだと思う。
 それで、先方には、私の住所、氏名、電話番号を教え、先方からは代金支払のための銀行口座番号を教えてもらって、無事お前を連れ帰ることが出来たわけさ。

銹彩: めでたしめでたしでしたね。

主人: まあね。私にとってはめでたしめでたしだったけれど、先方にとってはそうでもなかったようだね。

銹彩: どうしてですか?

主人: 先方としては、見栄を張って、「お金なら何時でもいいよ!」なんて言っちゃったけど、本当に払ってくれるのだろうか、何時払ってくれるのだろうかと心配になったようだね。それから2週間ぐらいしてから、やんわりとした督促のようなお手紙が届いたから。
 私としては、「お金なら何時でもいいよ!」という言葉を真に受けて、「何時でもいいんなら、来月の給料をもらった時にでも支払えばいいか。それで十分早いほうだろう。誠意のある支払いだろう。」と思っていたんだ。
 ところが、そのような督促状のようなお手紙が届いたもんだから、「これは悪いことをしたな。迷惑をかけたな。」と思い、その翌日にはお金を工面し、銀行口座に振り込んであげたよ。

銹彩: それで先方も安心しましたね。やっと、双方、めでたしめでたしになりましたね。
 ところで、何故、私の名前は「銹彩」なんですか?

主人: ハハハ。「「銹釉」が特徴的だし、「銹釉」と「赤に緑」の釉薬の色彩が特徴的だ。特に、「赤」の釉薬に掻き落しで牡丹文が描かれているところなど、古伊万里の中では秀逸だね。古伊万里の中では秀才だ。そんなところをひっくるめ、「秀才」とのモジリで「銹彩」としたのさ。

銹彩: ありがとうございます(嬉しさのあまり感涙)。

主人: (豚もおだてりゃ木に登るってか、、、、、と独白) 

 

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色絵 菊花文 5寸皿

2021年07月29日 14時06分42秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 菊花文 5寸皿」の紹介です。

 前回紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」は、平成11年12月に手に入れたものですが、これは、その3ヶ月後の平成12年3月に手に入れたものです。案外、骨董市場には同じようなものが引き続いて登場してくるようです。

 ただ、前回紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の方は、かなり薄造りでシャープで、染付も淡く上品に作られており、いかにも「鍋島」の片鱗をうかがわせますが、この「色絵 菊花文 5寸皿」の方は、かなり厚く作られていて重たく鈍重で、染付の色合いも濃く、上品さに欠けると言わざるをえないようです(~_~;)

 

表面

 

 

側面

 

 

底面

 

生 産 地 : 肥前・鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代後期

サ イ  ズ: 口径;15.7cm 底径;7.9cm 高さ;4.8cm

 

 

 なお、この「色絵 菊花文 5寸皿」につきましても、前回に紹介しました「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」と対比しながら、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で詳しく紹介しているところです。

 そこで、その際の紹介文を、次に、再度掲載し、この「色絵 菊花文 5寸皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー159  鍋島様式色絵菊花文小皿      (平成23年6月1日登載) 

 

         

 この小皿は、染付部分だけを見ると、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」によく似てはいるが、よくよく見てみると、最上段の菊の花の左下には葉っぱが、また、下の枝の先端の菊の花の上には蕾が描かれており、前回の「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介のところで紹介した「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)に登載されている小皿とそっくりである。

 ところで、このように、表文様に微妙な違いはあるものの、この手小皿の伝世品は相当数見られるところであり、果たしてこれらのすべてが本当に鍋島といえるのであろうか? との疑問が生じるところである。

 この点に関しては、「鍋島Ⅱ──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成16年11月9日刊)に、次のように書かれている。ちょっと長くなるが、引用し、紹介したい。

 

 

(四) 安永三年献上品類後年の変化と藩窯体制の弛緩

 安永三年(1774)献上品、十二種類作品について、未確認の「松千鳥絵猪口」を除き、他の十一種文様作品類は幕末まで将軍家への献上のみに限って製作されたのだろうか。私は否と考える。
 理由の最大のものは伝世品数が余りにも多過ぎることである。現在、これらの作品の伝世品を調査してみると、実に大量のものがある。中でも最も多いのは「菊絵大角皿」であり、次いで「秋草絵丸皿」「山水絵中角皿」「金魚絵船形皿」などである。
 私は平成十四年、前著を上梓する直前三~四年の間に調査した数は「菊絵大角皿」は百点をかなり超え、「秋草絵丸皿」「山水絵中角皿」「金魚絵船形皿」の三種は百点に近い数に及んでいる。その他大皿を除く作品類についてはいずれも五十点前後は調査している。「梅絵大肴鉢」「牡丹絵中肴鉢」にしても伝世品数は決して少ないものではない。
 これらの伝世品を全国的に徹底的に調べたら一体どれだけの数が存在しているだろうか。数字的には確認しにくいが膨大な数に上ることは間違いあるまい。
 私は昭和四十五年から五十五年頃の間、自宅用食器として「葡萄絵菊皿」の十枚組と、「金魚絵船形皿」の五枚組などを使用していた思い出がある。当時は現在より、市中伝世品ははるかに多く、古美術店の店頭商品は五~十枚組が主であった。
 こうしたことを省みると、これら膨大な数の作品類がすべて将軍家に献上されたとはとても考えられるものではない。ある年代以降は相当広範囲にわたり用いられたと考えざるを得ない。この観方を裏付ける二例がある。
 一つは図版(63)「菊絵大角皿」であるが、この箱には「天保十亥年(1839)求之 菊絵角皿拾弐入、高島氏」と書かれている。これからみて、この皿は天保十年に高島氏が12枚を有償で購入したものと思われる。「求之」の書き方は先記の(142)「草花文大猪口」の箱書と同じである。高島氏も宇都宮の富裕町人、池澤伊兵衛と似たような立場の町人であったのではなかろうかと思われる。いずれにしても高島氏が将軍家と関わりのある人とは考え難い。
 次に写真(66)「菊絵大角皿」は五枚が箱に入り、器物入手時の状況を書いた紙が付けられている。
 この紙書には「○四年辰八月吉日、鍋島焼、菊模様角皿五枚、代金三分三朱にて求之」と書かれている。(挿図上)年号を示す部分が欠落しているが、下が四で辰年は「慶応四年辰年」が該当する。従ってこの紙書は慶応四年辰八月の日付であることが判る。翌九月には「明治」に改元されている。
 この紙書と五枚の皿は興味深い。皿の裏側面カニ牡丹文の葉数は二十六枚で描かれ、表文様も整っている。一見、天保十年銘箱入品と殆んど差違は認められない。ところが大きく異なるのは重量で、非常に重い。
 同文の十八世紀作品皿とこの皿、それぞれ五枚の平均重量を計ってみると、前者は三百グラムであるが後者は四百グラムである。三十三パーセントも重い。造形は極めて厚く鈍重である。
 次に紙書には「鍋島焼」と「代金三分三朱にて求之」と書かれている。
 この所有者は代金三分三朱を支払って入手したことと、それが鍋島藩窯作品であることを承知していたことが判る。
 これらを見ると、慶応四年頃には鍋島作品が市中で販売され、「鍋島」の呼称も一部の人々ではあろうが使用されていたことが判る。
 販売者は鍋島藩から受領した人が売却したのか、又は鍋島藩自体が商人を使って何らかの方法で販売したのかのいずれかであろう。
 幕末期には鍋島藩窯作品も販売されていたのではないかとの観方は古くから一部では主張されていたが、本例を見て私もそれが事実ではないかとの感を強くしている。
 いずれにしても慶応四年には鍋島作品本来の流通秩序は全く崩壊していたことは確実と思われる。
 さて、以上の通り、流通状況の著しい変化と並行して、鍋島藩窯体制も安永三年以降、時代と共に大きく緊張感は弛緩したと思われる。それを推測出来る数例をあげてみよう。

          (途 中 省 略)

 安永三年献上の十二通り作品については古文書を見ると当初は幕府側と緊張した交渉状態が判るが、それは年と共に薄れ、後年、確認出来る年代としては天保十年には贈呈先は多方面に亘っており、幕末には市販か、それに近い状態にまで乱れてきている。
 これと並行し、藩窯体制も緊張感が漸次失われていったことが判る。
                                     (193~196ページ)

 

 

 以上のように、後期鍋島の伝世品は多く存在してもおかしくないのであり、この小皿も本物の「鍋島」と思っている。

 ところで、この小皿は、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」に比べると、造形は厚く鈍重で、ずしりと重い。
 ちなみに、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の5枚の平均値は、

重さ 口径 高台径 高さ
206グラム 15.1cm 7.9cm 4.5cm
 

で、この小皿の数値は、

重さ 口径 高台径 高さ
315グラム 15.7cm 7.9cm 4.8cm
 

である。
 この小皿のほうが、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」よりはちょっと大きめなので、厳密な比較にはならないかもしれないが、それにしても、この小皿、前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」と比較して口径で0.6cmしか大きくないのに、109グラムも重い。百分率にして実に53パーセントも重いのである。
 鈍重さと重さを感じる所以である。

 こうして比較してみると、この小皿よりは、シャープで薄作りな前回紹介した「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」のほうが若干古いんじゃないかと思っている。

 

( 江戸時代後期   口径:15.7cm   高台径:7.9cm  高さ:4.8cm )

 

 

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*古伊万里バカ日誌91  古伊万里との対話(色鍋島菊花文の小皿)(平成23年6月1日登載)(平成23年5月筆) 

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  紅 菊 (鍋島様式色絵菊花文小皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、前回、「鍋島様式染付菊花文小皿」を押入れから引っ張り出してきて対話をしたが、その際、押入れの中のすぐ近くに、その「鍋島様式染付菊花文小皿」に非常によく似た小皿があることを知っていたので、今回は、躊躇なく、その小皿を引っ張り出してきて対話をはじめた。

 


 

主人: 前回は「鍋島様式染付菊花文小皿のお菊」(以下「お菊」という。)と対話をしたが、今回は、その「お菊」と非常によく似ているお前に出てもらった。

紅菊: そうですね。「赤」の部分を除くとそっくりですね。

主人: うん、そうなんだ。染付部分だけを見ると非常によく似ているよね。でもね、仔細に見ると、「お菊」とちがって、お前の場合は、最上段の菊の花の左下に葉っぱが描かれ、また、下の枝の先端の菊の花の上に蕾が描かれている。その点では、前回も話題になった、「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)の図166(174頁)とそっくりだ。

紅菊: 瓜二つですね。

主人: ただね、絵付けだけを見ていると、「お菊」とお前は瓜二つとまではいかないけれど、かなり似ているんだが、造形などで比較すると相当に違うんだよ。
 「お菊」の場合は、かなり薄造りでシャープだし、染付も淡く上品だ。いかにも「鍋島」の片鱗をうかがわせるな。それに反して、お前は、かなり厚く作られていて重たく鈍重で、染付の色合いも濃くて上品さに欠けると言わざるをえない。

紅菊: それでは私は「鍋島」ではないのでしょうか。

主人: 前回も話題にしたが、「お菊」のことは平成11年の12月に買ったんだ。お前のことは、その三ヶ月後の平成12年の3月に見つけたんだが、私は、「お菊」が「鍋島」なら、お前も「鍋島」に違いないと自信をもって買っているよ。

紅菊: そうですか。嬉しいです。私は「鍋島」にまちがいないんですね。

主人: そうだ。そのことは、前述のように、平成14年11月に「鍋島──後期の作風を観る」が発刊され、お前と同類が掲載されたことによって証明されたわけだ。

紅菊: その当時の評価はどうだったんですか。

主人: 「お菊」を含めて、お前達に対する評価は芳しくなかったね。第一、お前達の伝世品の数が多過ぎるんだよ。それまで、「鍋島」は将軍等への献上品ということになっていたから、そんなに数が多いわけがないと言われてきていたからね。それに、「鍋島」は上手で品格高いものと言われてきていたので、お前達のように下手で品格のないものは「鍋島」なわけがないと思われたわけだ。お前達は、「鍋島」のブランドを汚すとか、「鍋島」の面汚しとささやかれたかな。

紅菊: それは残念です(涙)。

主人: ただね、幕末になると鍋島藩窯体制も大きく弛緩し、鍋島藩窯製品は販売もされていたらしいことがわかってきた。そうであれば、伝世品が多いことも納得できるよね。
 こうした現実を直視し、幕末期に限ってではあるが、『「鍋島」とは鍋島藩窯で作られた優品を言い、非常に数が少ないものである。』という従来の概念は変えざるを得なくなったわけだ。
 しかしだね、お前達は戸籍も確定し、「鍋島」ブランドの仲間入りを果たしたわけだけれど、そのことによって直ちに美術的評価も格段に高まったとは言えないと思うね。

紅菊: それはどういうことですか?

主人: お前達は、それまで、明治以降に、鍋島藩窯以外の何処かの窯で作られたものだと思われてきた。言うなれば「鍋島」の偽物とされてきて相手にされなかったわけだ。それが、一応、「鍋島」の仲間入りをして、相手にされるようになったわけだが、それとても、直ちにこれまでの盛期鍋島が有していたような評価は得られなかったな。古伊万里でも、上手の献上手の物は評価が高く、下手の普通の物は評価が低いのと同じように・・・・・。
 ようするに、「鍋島」の仲間入りをしたにはしたが、一気に盛期鍋島のような値段にはならなかったということだよ。世間様は知っているんだよね。美術品の価値はブランド名だけでは決まらないことを・・・・・。物の良し悪しはブランド名で決まるんじゃないんだよね。物そのものの良し悪しで決まるんだよね。

紅菊: でも、これまで「鍋島」の偽物とされ、世間様から冷たくされて相手にされなかったことに比べれば、ず~っと幸せです(*^_^*)

主人: そうだよね。分相応というからね。急激に多くを望まないことだよね。
 ところで、お前には、前述の「鍋島──後期の作風を観る」の図166と比較すると、染付部分は瓜二つだが、菊の花の幾つかに「赤」が付彩されているな。

紅菊: どうしてなんでしょうか? 後絵なんでしょうか?

主人: 「赤」を付彩し、付加価値を高め、少しでも高く売ろうとした販売対象商品だったからではないのかな~。
  なお、「赤」の付彩は、後絵ではないと思うよ。だいたい、「鍋島」の偽物とされ、相手にもされなかったような評価の低い物にわざわざ手間をかけたって意味のない行為だからね。わざわざ手間をかけて後絵を施し、更に評価を下げるような行為は愚の骨頂であり、泥棒に追い銭みたいじゃないの。それにね、幕末の「鍋島」には、「赤」のみをちょちょっと付彩したものが時々あるんだよ。

紅菊: 後絵ではないんですね。それで安心しました(^_^)

主人: 総じて、お前は、鍋島藩窯体制が弛緩し、鍋島藩窯製品の一部が「鍋島焼」として市販されるようになってしまった頃に作られたもので、造形の粗雑さなどを色絵でカバーし、なんとか「鍋島」の面目を保った、ギリギリの「鍋島」というところかね。その意味では、最後の「鍋島」を示す記念碑的な作品と言えるのかもしれないな・・・・・。

 

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染付 菊花文 5寸皿(5客組)

2021年07月28日 14時26分54秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介です。

 これは、平成11年12月(今から22年前に)手に入れたものです。

 

 

表面(5客組)

 

 

裏面(5客組)

 

 

表面(代表の1枚)

 

 

側面(代表の1枚)

 

 

裏面(代表の1枚)

 

 

生 産 地 : 肥前・鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 口径;14.9~15.3cm 底径;7.7~8.1cm 高さ;4.3~4.6cm

 

 

 なお、この「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」につきましては、既に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しているところです。

 そこで、その時の紹介文を、再度、次に掲載することをもちましてこの「染付 菊花文 5寸皿(5客組)」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー158  鍋島様式染付菊花文小皿      (平成23年5月1日登載)

 

 

 「鍋島」には、文様に微妙に違いがあるものがある。

 例えば、上の小皿と「鍋島──後期の作風を観る」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)に登載されている小皿(下の画像参照)と間には微妙な違いがある。

 

「鍋島──後期の作風を観る」から転載

 

 「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿には、最上段の菊の花の左下には葉っぱが、また、下の枝の先端の菊の花の上には蕾が描かれているが、上の小皿にはそれ等が描かれていない。

 そもそも、「鍋島」の場合は、特に、例年献上品にあっては、「・・・安永3年には十代将軍家治好みの品十二通りが老中、側用人を通じて注文があり、試し焼きし、よいかどうかの内見を受ける必要があるから側用人まで差し出すようにとの命であった。その結果、合格し以後の鍋島焼例年献上品五品のうち二、三をこの十二通りから含めよとの指示であった。このように例年献上の鍋島は将軍の内見や許可の上で献上が行われたことがわかり、これを止めるのも勝手にはできなかった。・・・」(「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年刊) 83頁)とあるように、将軍の内見や許可がない限り、勝手に文様の変更も出来なかったはずである。 

 そのように考察してくると、将軍の内見や許可がない限り、異なった文様の器物は存在しないはずだから、文様変更についての将軍の内見や許可があったとの証明がない限りは、上の小皿か「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿かのどちらかが「偽物」ということになるであろう(>_<)

 しかし、果たしてそうであったのだろうか?
 幕藩体制が強かった時代ならともかく、幕藩体制が弛緩してくると、鍋島藩内には緊張感が薄れ、藩窯体制にも弛みが生じてきたのではないかと考えられる。

 その件に関しては、「鍋島──後期の作風を観る」の中に、

 

「               ・・・・・・・・・・
 この文様は安永3年(1774)から19世紀、安政時代(1854~59)まで引きつづき製作されたことが判り驚きであった。
 その他の該当すると思われる作品類を検索してみると、いずれも19世紀まで継続製作されていると考えられる。
 これ程長期間に亘り、同一文様が無変化のまま製作され続けただろうかとの疑問が生まれる。
 この問題の検討方法として、同一文様の伝世品を多数集めて対比してみた。結果は表文様には大きな変化は見られないが、裏側面文様や櫛目文、造形においてはかなり異なっているものがいろいろ見出されてきた。
 カニ牡丹文の葉数の違いや、その描法の強弱、精・粗状況、高台造りの力強さなどには相当の差異がみられる。
 結論として、安永3年献上の十二種作品類は表文様は殆んど大きな変化はないが、裏面文様や造形には相当の変化を生じながら後年、19世紀まで製作が繰り返されている。
 各種作品を整理してみると古作とみられるものほど作ぶりは優れており、一つの作品についての製作の相対年代は明らかとなる。
               ・・・・・・・・・・                                                               (218~219ページ)」

 

と記してあるところであり、幕藩体制の強かった時代に作られた盛期鍋島ならともかく、少なくとも、後期鍋島に関しては、「・・・表文様には大きな変化は見られないが・・・」とあるところから考えると、表文様に多少の変化はあったものと思われる。

 従って、上の小皿も「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿も、ともに本物の鍋島と思っている。
 ただ、どちらの文様の小皿が古いのか、つまり、葉っぱと蕾が描かれていない私所蔵の上の小皿がオリジナルなのか、はたまた葉っぱと蕾を描いた「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿がオリジナルなのかは、今後の課題であろう。

 

江戸時代後期   口径:14.9~15.3cm 高台径:7.7~8.1cm 高さ:4.3~4.6cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌90  古伊万里との対話(藍鍋島菊花文の小皿)(平成23年4月1日登載)(平成23年4月筆) 

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  お 菊 (鍋島様式染付菊花文小皿)


 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、「今日はどれと対話をしようかな?」と「押入れ帳」のページをめくっていたが、何やらなつかしい物に目が留ったようで、さっそく押入れから引っ張り出してきて対話を始めた。

  


 

主人: 「押入れ帳」のページをめくっていたら、なつかしく感じたので出てもらった。

お菊: ホント、お久しぶりですね。でも、どうしてなつかしく感じたのですか?

主人: うん。お前のことは平成11年の12月に購入したんだが、その頃は「後期鍋島」に燃えていたもんだから、その頃を思い出してなつかしく感じたんだよ。
 ところで、私が古伊万里のコレクションを始めた頃は「後期鍋島」なんていう概念はなかったね。

お菊: 当時は何と言ってたんですか?

主人: 何と言うもなにもあったもんじゃなかったね。「鍋島」の「な」の字も付かなかったね。ようするに、そんなものは、全く「鍋島」の範疇外だった。そもそも「鍋島」は鍋島藩窯で天皇家や将軍家への献上用に作られたものあって、下賤の者が使用する古伊万里なんかと一緒にされては穢らわしいという感じだったな。
 「鍋島」は、藩窯で作られたもののみを「鍋島」と言うのであって、幕末であろうがなかろうが、やせてもかれても江戸時代中に藩窯で作られたものならば「鍋島」とされた。もっとも、献上用に藩窯で作られたものは厳格な検査を通ったものに限られたはずだから、厳しい条件をクリアーしているものだけが「鍋島」と認められたわけで、今で言う「盛期の鍋島」のようなもののみが「鍋島」とされていたな。そして、今で言う「後期鍋島」のようなものは明治以降に藩窯ではないどこかの窯で作られた「鍋島写」とされ、相手にされなかった。

お菊: そうしますと、「鍋島」というのは非常に数が少ないんじゃないですか。

主人: そうだ。非常に数が少ないものとされていたから、希少価値も手伝って大変に高価なものだった。めったに市場に出てこないし、出てきたとしても高価で手が出なかった。もっとも、今でも、「盛期の鍋島」は数が少なく、高価で、私なんかの手の届くような代物ではないけどね。

お菊: でも、ご主人は、「古伊万里」のコレクションが守備範囲ですから、「鍋島」はご主人のコレクションの守備範囲外だったんじゃないですか。

主人: 嬉しいことを言ってくれるね~。そうだよね。「伊万里焼」と「鍋島焼」は全く別物とされていたから、私も、初めの頃は、買えないヒガミも手伝って、フテクサレて、「鍋島は古伊万里とは関係ないんだから集める必要はないんだ!」と自分自身に言い聞かせていた。
 でもね~、「伊万里焼」を勉強していくにつれ、鍋島藩が有田の優秀な職人をスカウトして藩窯に従事させていたことを知るようになった。そうすると、広い意味で、「伊万里焼」の最上級品が「鍋島焼」ということになるよね。それで、「鍋島」も「古伊万里」コレクションの対象になるんだな~と思うようになり、だんだんと「鍋島」が欲しくなるようになったわけさ。しかしね~、買えないしね~~。
 そうこうして、悶々とした日々を送っていたが、平成9年1月号の「陶説」に小木一良氏が「伊万里あれこれ(10)  18世紀後半期の鍋島作品」という論文を寄せられていることを発見した。その論文によると、鍋島藩窯では、「盛期鍋島」とまでは言えないような、ちょっと質の下るようなものも作っていたとある。そのようなものならば私の手にも入るかもしれないと考えるようになったね。「盛期鍋島」のような完璧なものではないけれども、それだって、やせてもかれても、鍋島藩窯で作られたものにはまちがいはないのだから、「鍋島」にはちがいないからね(*^_^*)
 それで、その後、そのようなものを入手すべく心掛けていたが、遂に、小木一良氏の論文を読んだ約2年半後の平成11年の6月に後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」を入手する幸運に恵まれた。その入手の経緯についても後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」の紹介のところに記したとおりだが、嬉しかったね。やっと、自分で「鍋島」と確信して「鍋島」を手に入れることが出来るようになったんだものね。
 その後、それを契機にして後期鍋島を何点か手に入れることができた。また、後期鍋島のみならず、その余勢を駆って盛期鍋島までも入手することが出来たんだ。その意味では、後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」は、私が「鍋島」に開眼するキッカケを与えてくれた記念すべき器物だったね。そうした流れの中で、後期鍋島「色絵 唐花文 五寸皿」を入手した半年後の平成11年の12月にお前を入手している。

お菊: 入手に際して、本歌の「鍋島」なのか、「鍋島写」なのかについて、迷いはなかったですか?

主人: もうその時点では迷いなどはなかったね。見た瞬間、自信をもって即刻購入したよ。
 なお、その3年後に、小木一良氏が「鍋島──後期の作風を観る」(創樹社美術出版 平成14年11月30日刊)という本を出されたが、その中にお前と非常に良く似ている小皿が載っているのを発見し(下の画像参照)、更に自信を付けたところだ。

 

 「鍋島──後期の作風を観る」から転載

 

 「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前とを比較してみると、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿には、最上段の菊の花の左下には葉っぱが描かれ、また、下の枝の先端の菊の花の上に蕾が描かれているが、お前にはそれ等が描かれていないな。
 「鍋島」の場合は、同一文様が長期間にわたって使用されているようだが、同一文様が全く無変化で長期間使用され続けていたとは思えないんだよね。大きな変化はなかったのだろうが、多少の変化は、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前との差ぐらいの変化はあったのではないかと思っている。
 更に、「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿とお前とを仔細に比較してみると、お前の方が、染付の呉須の色合いが淡く、清楚で、上品で、菊の花の描き方に至っては、菊の花が大きく、丁寧に描かれていて、全体として古格を感じさせるな。長期間同一文様を使っているうちに、だんだんと菊の花を雑に描くようになり、また菊の花も小さくなってきてしまったので、全体のバランスから、葉っぱをちょこっと追加したり、蕾を追加したりというようなことをするようになったんだろう。その点で、お前の方が「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿よりは古いんではないかと思っている。「鍋島──後期の作風を観る」に載っている小皿は鍋島最末期の「慶応」の作ということだから、やっとこ、ぎりぎりの鍋島藩窯の作品ということになるが、お前はもう少し前の、十分に江戸時代の息のかかっている鍋島藩窯の作品ということになるかな。

お菊: 本物の「鍋島」と認めていただき嬉しいです(^_^) ありがとうございます(*^_^*)

主人: もっとも、「鍋島──後期の作風を観る」には、菊の花の描き方がちょっと違うが、同じような構図の小皿で、最上段の菊の花の左下に葉っぱを描き、下の枝の先端の菊の花の上に蕾を描いたものが「慶応」よりは幾分遡る例として紹介されている(同書158頁)(下の画像参照)から、葉っぱと蕾が描かれていないお前の方が古いのか、葉っぱと蕾を描いたものの方が古いのかは断言できないけどね。これは私の独断と偏見かもしれないな。でも、そう考えた方が夢があるだろう!

 

「鍋島──後期の作風を観る」から転載

 

 

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染付 山水文 湯呑茶碗

2021年07月27日 10時24分43秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 山水文 湯呑茶碗」の紹介です。

 これは、骨董屋からオマケに貰ったものです。

 

立面

 

 

底面

 

 

立面(正面と仮定) (代表の1個)

 

 

正面の裏側面  (代表の1個)

 

 

底面  (代表の1個)

 

 

 一見して、江戸時代はなさそうですから、「古伊万里」とは言えないな~とは思いましたが、高台内に「平戸嘉祥」の銘がありましたので、「何時の頃作られたものなのだろう、、?」と、ちょっと興味を持ちましたので、喜んで頂いてきたものです(^_^)

 その後、「近現代肥前陶磁銘款集」(平成18(2006)年 佐賀県立九州陶磁文化館編集発行)で調べてみましたら、「大正~昭和」に作られたものであることが分かりました。

 

「近現代肥前陶磁銘款集」のP.169から転載

 

 

生 産 地 : 肥前・三川内(平戸)

製作年代: 大正~昭和

サ イ ズ : 口径;8.0cm 底径;2.9cm 高さ;4.7cm