Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

炎天下での農作業

2019年07月29日 15時20分52秒 | 家庭菜園

 関東地方も梅雨明けしたとか、、、。

 それにともない、朝からカンカン照りです(-_-;)

 しっかし~、のんびりと、家にじっとしているわけにはいきません(><)

 もう、家庭菜園には5日も行ってないんです。この期間に5日も収穫しに行かないと、事態は深刻になるんです(笑)。

 キューリはまた大きくなってしまったんだろうな~、インゲン豆も大きくなったろうな~、雑草も伸びてきたんだろうな~等々、いろいろと、収穫しなければならないことや、やらなければならない作業のことが思い浮かびます。

 それで、カンカン照りもなんのその、朝から家庭菜園に向けて出発です。

 家庭菜園に到着し、作物の状況を見ますと、案の定、キューリは大きくなってしまったものが沢山ありました。でも、食べられないほどに大きくはないですから、食べ頃のものも含め、その大きくなり過ぎたものも一緒に収穫してきました。

 インゲン豆も大きくなっていました。でも、これは、大き過ぎるほどには成長していませんでしたが、量が多く、収穫するのに時間がかかりました(><)

 あと、ついでに、ナス、トマト、ピーマン、甘長(アマナガ)も収穫しました。

 甘長(アマナガ)(シシトウの親分みたいなもの)は、生りが良いですね。2本しか植えていないのに、相当の量が採れました(^-^;

 収穫が一通り終わったところで、次は雑草取りです。

 でもね~、カンカン照りですからね。無理をしないで、中途ですが、午前中で切り上げることにしました(^O^)

 農作業中、こまめに木陰で休んでは、冷たく冷やした梅ジュースを飲んだり、氷入りの水を飲んだりして熱中症予防に努めはしましたが、高齢になりますと、症状を自覚しなくなると言われますからね。「このへんが切り上げ時」と見切りをつけ、中途半端だったんですが、午前中で切り上げたわけです。

 夏場は、水を飲みながらの農作業となります。これぞ、まさしく、「水飲み百姓」というやつですね(^^;


御本手の古伊万里?

2019年07月25日 14時17分10秒 | 古伊万里

 

 この皿は、4年程前に購入しました。

 皿の面いっぱいに楚々とした芥子の花が描かれ、これを見ていると、皿を見ていることを忘れ、一服の絵を見ているように感じます。

 それに惹かれて購入に至ったものです。

表面

製作年代:江戸時代中期   口径:21.7cm   高台径:14.7cm

 

 裏面は、ごく平凡な作りです。

裏面

 

裏面の拡大写真

 

 ただ、裏面の拡大写真を見て分かるとおり、目跡は比較的に小さく、大きさも一定で、きちんと計算された位置にあり、銘の「大明成化年製」もしっかりとしたきちんとした楷書で書かれており、しかも「太明」ではなく「大明」となっているところなどから見て、なかなか上手な作のようです。

 

 ここまでですと、この皿は、江戸中期の、まぁまぁ上手の染付皿ということになりますが、よく見ますと、この皿には欠陥があります。

 皿面に、幾つかの、御本手とか御本とか言われるものが見られるんです。

表面の御本手(=御本)の拡大写真(一部)

 

 所々に見られるピンク色のシミが、その御本手とか御本と言われるものです。

 これが高麗茶碗等でしたら、御本手が出たとか、御本が出たとか言われて珍重されるんでしょうけれど、こと、古伊万里の場合はそうはいかないようですね。

 そもそも、この皿、指で弾いてみますと、キーン、キーンという高い金属音を発しません。やや鈍いボコボコという音を伴ったような音を発します。つまり、甘手なわけですね。焼が甘いわけです。

 古伊万里の世界では、甘手は疵物として扱われています。結局、この皿も疵物という範疇に入るわけです。

 私は天邪鬼なものですから、「甘手は疵物じゃない!」などとの浅はかな信念を抱いて臨んでいますが(笑)、どうも、この皿の件に関しては、本当に浅はかなことのようです(^^;

 高麗茶碗等の場合ならともかく、古伊万里の場合は、やはり、御本手とか御本は少々目障りですね。裏面高台の付け根周辺にぐるりと巡ったピンク色など、汚れの様に見え、食器としては不衛生ささえ感じさせます。

 私は、「甘手は疵物じゃない!」などとの浅はかな信念を抱いて臨んでいるわけですが(笑)、指で弾いた際の音の鈍さだけなら「甘手は疵物じゃない!」と言えるかもしれませんが、この皿のように、シミまで出るような甘手は疵物ということにならざるをえませんね。

 かくて、我が家には、疵物、駄目物が累積していくわけです(-_-;)


骨董市と古美術品交換会

2019年07月21日 16時57分32秒 | 骨董市など

 今日は、私にとっての、定例の、月に一度の「骨董市と古美術品交換会」の日でした。

 今日は、いかにも「梅雨空」といったお天気で、朝からどんよりとした曇り空です。でも、どうやら雨は降らないようなので、傘は持たずに出発です。先ずは、例によって骨董市会場へ!

 骨董市会場は、相変わらずで、古伊万里については、目ぼしいものが見当たりません。

 1点だけ、元禄時代頃に作られた里帰りの8寸位の伊万里の色絵皿が目に留まりました。というのは、値段が1万円ちょっとだったからです。

 随分と安いな~と思い、手に取って良く見ると、大きなニューが有り、また、口縁にはソゲがあって、そこを共直ししてあるではないですか。

 それで、なるほどと納得しました。「そうだよな~。これほどの里帰り伊万里が1万円ちょっとで買えるわけがないものな~」と納得したわけです。

 骨董市会場には、それ以外には見るべきものがありませんでしたので、早々に、次なる古美術品交換会の会場へと向かいました。

 古美術品交換会も相変わらずで、気の利いた古伊万里は登場してきません(><)

 そうこうしているうちに、洋画家鶴岡義雄の「マドモアゼル」(リトグラフ。自筆サイン入り)が登場しました。

 その時、「そういえば、我が家の玄関に、東郷青児の女性の絵を飾っているが、随分と長い間、掛けっぱなしなので、だいぶ痛んできてしまったな~。そろそろ交換しなければいけないな~」と思い出し、急きょ、そのリトグラフを競り落とそうと思い立ち、競りに参加して競り落としました。

 

競り落とした 鶴岡義雄の「マドモアゼル」(リトグラフ)(縦:30cm   横:26cm)

 

  ということで、今日は、鶴岡義雄の「マドモアゼル」(リトグラフ)のみの収穫でした。古伊万里の収穫はありませんでした。


伊万里の自在鉤? それとも電気スタンドの胴体部分?

2019年07月20日 16時15分10秒 | 古伊万里

 今から35年前のこと、或る地方都市のデパートの特設会場で開かれていた骨董市に赴きました。

 今では、地方都市のデパートでそんな催しは行われませんが、当時は、そんなことが行われていたんです。今よりはもっと骨董に人気があったんですかね。

 会場内をぶらついていましたら、「おやっ!」というものを発見しました。

 その場で足を止め、「何かな~? 自在鉤に見えるんだけどな~」と思案していましたら、店主が、「これは自在鉤ですよ。珍しいですよ。ほれ、こうして鉄瓶を掛ければ、立派な自在鉤であることがわかるでしょう」と言って、傍らにあった鉄瓶を引っ掛けて実演してくれました。そして、「買ってくれるならこの鉄瓶はオマケしますよ」と言います。

 私としては、本当に自在鉤だったのかどうかとの疑問は感じましたが、まっ、いいかと決断し、購入したわけです。

 

 家に連れ帰ってジット眺めていますと、「店主が言うように、やはり、自在鉤なんだろうな~」と実感してきます(^-^;

 だんだんと嬉しくなり、「この自在鉤は、当時は、豪農や豪商の囲炉裏で使われていたんだろうな~。さぞや豪華な調度品に囲まれて過ごしてきたんだろうな~」と想像をたくましくします(^^;

 そして、「我が家でも、いずれ、囲炉裏を作り、この自在鉤に活躍してもらおうか!」などとの妄想まで膨らみます(^^;

 しっかし~、現実は、35年が経過した現在でも、いまだに、この自在鉤に出番はなく、押入れの中で待機中です(><)

 でも、オマケに貰ってきた鉄瓶は、それ以来、35年間、ず~っと我が家の部屋のインテリアとして活躍してくれています(^-^;

 

製作年代:明治時代    長さ:50.5cm 胴径:13.8cm

 

 下半分(正面と仮定)

 

上半分(正面と仮定)

 

下半分(正面と仮定した面の反対側)

 

上半分(正面と仮定した面の反対側)

 

下半分(正面と仮定した面とその反対面との中間)

 

上半分( 正面と仮定した面とその反対面との中間)

 

鉄の鉤の取り付け部分

 

棕櫚縄の取り付け部分

 

 ところで、この自在鉤については後日談があります。

 買ってから暫くしてからのことです。当時、目利きの方を東京から講師として招き、勉強会をしていました。その勉強会の内容というのは、メンバーが持ち寄った骨董品(主として陶磁器)を、その目利きの講師が一点ずつ鑑定していくというものです。

 私は、この自在鉤をその勉強会に持ち寄り、鑑定をしてもらっていたわけですが、その時、或る方が、「これは電気スタンドの胴体部分ではないですか!」と発言されたんです。

 その際、目利きの講師先生は、「この通り、自在鉤に作られているんだから、自在鉤に違いないだろう!」と言下におっしゃられたんです。それで、その迫力ある一言で発言者は黙ってしまいました。

 でもね~、私は、その時の或る方の発言が今でも気になるんです(^^;  やはり、本当は、電気スタンドの胴体部分なんだろうかと、、、?

 しかし、その後、これと同手のものを私は見たことがないんです。電気スタンドの胴体部分であるならば、もっと多く市場に出回ってもいいのに、それがないんですよね。わずかに、平成8年の9月に、かつて、拙ホームページにこの自在鉤をアップして紹介したことがあるんですが、その時に、或る方から「私もこれと同じ物を持っています」とのメールか来て、「ああ、世の中には、この他にも存在するんだ」と思ったことがあるくらいなんです。

 また、棕櫚縄の取り付け部分の写真からも分かるように、口の部分に煙が入ったような跡があるんですよね。これは、実際に囲炉裏で使われていた際に煙が入り込んだことによって出来た跡なんではないかと思うわけです。

 そのようなことから、やはり、この物は特注品で、非常に品数が少ないのではないかと思っているわけです。

 もしこれが電気スタンドの胴体部分だとすれば、江戸時代にはエレキテルはあっても電気スタンドはなかったわけですから、この物の製作年代は明らかに明治以降となるわけです。ただ、製作年代としては、これが自在鉤であるとしても、明治時代と考えるのが無難なようです。

 ということで、これは自在鉤であろうとは思っているわけですが、鉄の鉤をどのようにして取り付けたんだろうか? 棕櫚縄はどのようにして取り付けたんだろうかと、いまだに疑問が残ります。

 いろいろと悩ましい焼物ではあります。

 

追 記(令和元年7月22日)

 森川天さんから、この焼物は、もともとは花活けとして作られたものを自在鉤に転用したものではないかというアドバイスをいただきましたました(^-^;

 その根拠は、この焼物に高台が付いているということでした。

 また、鉄の鉤の金具や棕櫚縄を内部に取り付ける方法は簡単だということでした。

 詳しいことは、コメント欄の森川天さんのコメントをご覧ください。

 森川天さん、ありがとうございました(^-^; 35年間の疑問が解決いたしました(^-^;


白村江の戦いー天智天皇の野望ー

2019年07月18日 14時55分04秒 | 読書

 「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」(三田誠広著 河出書房新社 2017年7月30日初版発行)を読みました。

 

 この本を何故読んだかですけれど、それは、「襲来(上)・(下)」(帚木蓬生著 講談社 2018年7月30日第1刷発行)という本を読んだ際、6月12日付けでその本についてのコメント記事をアップしていますが、その記事の<追記>に、

 

 この本を読むに至った動機ですが、それは、少し前に読んだ「日本の起源」という本に、これまでの日本の2,000年の歴史の中で、日本が危うかったのは、「白村江の戦い」の時と「元寇」の時だったとありましたので、「元寇」について少し詳しく知りたくなったからです。

 今度は、近いうちに、「白村江の戦い」に関する本を読んでみたいと思っております。

 

 と記しましたように、「日本の起源」という本の延長線上にあったからです。

  「日本の起源」という本には、日本の2,000年の歴史の中で、日本が危うかったのは、「白村江の戦い」の時と「元寇」の時だったとありましたが、「元寇」については、「襲来(上)・(下)」(帚木蓬生著 講談社 2018年7月30日第1刷発行)という本を読むことによって少しは分かったわけですけれど、今度は、「白村江の戦い」について少し知りたくなったからです。

 

 この本では、当時の、中国大陸、朝鮮半島、日本との間の関係がスケール大きく描かれていました。

 中国大陸では隋が統一国家となり、次いで唐が統一国家となります。それらは、先進国であり、強大な統一国家でもあり、男帝が支配していました。

 それに対し、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三韓に別かれ、それぞれ女帝が支配していました。日本の倭国も女帝が支配していました。

 なぜ女帝が支配したかというと、当時は、地方領主の勢力が強く、独裁的な王は歓迎されなかったからなようですね。皇族の女性には霊力が宿るとされていて、軍事力に支えられた権力ではなく、巫女が受ける神託によって国を統べるしか方法がなかったようですね。

 つまり、統一性のない、弱小の後進国だったわけですね。

 そうした状況下、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の三韓と倭国は、このような状態のままでは、いずれ大唐帝国に攻め込まれ、支配下におかれることは火を見るよりも明らかでしたので、それぞれ、統一国家への道を模索します。

 しかし、その時、歴史は動きました(笑)。

 外敵からの侵入の恐れが少なくなった唐帝国は、いよいよ朝鮮半島侵略に乗り出し、先ず、高句麗に侵入します。

 その時、新羅は唐の冊封(さくほう)を受け入れ(唐の属国となることを受け入れ)、とりあえず、唐と新羅が連合し、唐・新羅の連合軍で百済を攻め落とします。そして、続いて、唐・新羅連合軍は高句麗へと向かいます。

 その時でした、倭国が、百済の残党を救いに白村江に赴き、唐・新羅連合水軍と激突したのは、、、。

 その時の倭国の最高権力者は中大兄(なかのおおえ)(後の天智天皇)です。

 中大兄のとった戦術は、最初から、大敗することを覚悟のうえでした。

 目的は、強力な統一国家を作ることです。それには、地方領主の勢力を弱めなければならないわけで、九州の熊襲などの勇猛な兵を水軍に仕立て(にわかに水軍の訓練を施したようですが)前線に配置して勇猛に戦わせ、頃合いを見計らって、後方に配置した朝廷の規律のとれた水軍を鮮やかに撤退させるというものでした。

 予想通り、戦いは大敗でしたが、結果は大成功でした。

 これにより、地方豪族の力は弱まり、統一国家への道が開かれました。また、唐帝国は、倭国の水軍が、果敢に攻め、鮮やかに撤退していった様子をみて、倭国水軍の実力を高く評価したからです。

 この戦いの直後、唐帝国は、国使を派遣してきます。当初、倭国は、当然ながら、冊封を求めてくるものと予想しましたが、そうではなく、対等な国として交流していこうというものでした。

 そうは言っても、倭国としては、いずれ、唐帝国は必ず攻めて来るものと予想し、統一国家への道を強め、九州に長大な水城を築き、都も瀬戸内海を通って難波に至った唐の水軍に攻め込まれないように山奥の琵琶湖湖畔に移します。

 しかし、唐帝国は、倭国の水軍に脅威を感じ、その後、倭国に冊封を求めることもありませんでした。その後に中国が攻めてきたのはモンゴル帝国の元寇なわけですね。

 そうして、倭国は、やっと、念願の統一国家となり、7年後、中大兄は即位し、男帝の天智天皇となります。

 なにやら、現代の我々の置かれた状況は、当時の状況に似ていますね。外交政策に於いても、当時の白村江の戦いのあった頃の政策に学ぶべきものがありそうですね。先人の歴史に学ぶべきものがあるのではないかと思います。

 

 ところで、白村江(はくすきのえ)とは、白村(はくすき)という小さな村落があることからそのように呼ばれたもので、広々とした錦江の河口のことなんですね。

 無知な私は、この本を読むまでは、「はくすきのえ」を、「はくす」「きのえ」と読むものと思っていました(><)

 意味からすれば、「はくすき」「のえ」と切って読むべきなんですね(-_-;)

 子供の頃、電文の「シンダイシャタノム」を「シンダイシャ」「タノム」(寝台車頼む)と読まず、「シンダ」「イシャタノム」(死んだ医者頼む)と間違って読んだという笑い話を思い出し、苦笑しているところです(-_-;)