Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染錦 扇面短冊文 角徳利

2022年01月31日 18時18分42秒 | 古伊万里

 今回は、「染錦 扇面短冊文 角徳利」の紹介です。

 これは、最近、ネットショップで購入したものです。

 私は、原則として、写真だけからの判断では古伊万里を買わないことにしているのですが、最近では、なかなか、骨董市や古美術品交換会で気に入った古伊万里との出会いがないものですから、しびれを切らし、ついつい、ネットショップに目が行き、そこでたまたま気に入ったものに出会いましたので、買ってしまったわけです(~_~;)

 それはともかく、この染錦の角徳利は、伊万里の輸出華やかなりし頃の享保(1716~1735)前後に作られたものと思われます。

 普通、この手の物は2本揃いで海外に出荷されたようです。しかし、国内の富裕層も好んだようですので、これは、或は国内の富裕層に販売され、国内に伝世したものなのかもしれません。

 したがいまして、これが、輸出されたものの里帰り品だとすれば、ヨーロッパの貴族の館のマントルピースの上に飾られたりして、貴族達の目を楽しませてきたものかもしれません(^_^)

 また、これが、国内の富裕層に販売されたものだとすれば、桜花爛漫のもとの華麗な花見の席の主役の座に鎮座していたものかもしれません(^-^*)

 そんなことを思い浮かべながら眺めていますと、時空を超えたロマンを感じます(^-^*)

 

 

正面(仮定)

 2種の扇面と短冊を描いた文様を交互に4面に描いています。従いまして、

正面の裏側も同じ様な文様配置となっています。

 

 

 

正面から左に45度回転させた面

 

 

正面から左に45度回転させた面の肩部分の拡大

鳳凰(左)と龍(右)が描かれています。

 

 

正面から左に45度回転させた面の胴部分の上半部の拡大

扇面には、金彩で、葦雁、舟などを配した海浜図が描かれています。

また、短冊には、金彩で、梅が描かれています。

 

 

正面から左に45度回転させた面の胴部分の下半部の拡大

短冊には、金彩で、梅が描かれています。

 

 

正面から右に45度回転させた面

 

 

正面から右に45度回転させた面の肩部分の拡大

龍(左)と鳳凰(右)が描かれています。

 

 

正面から右に45度回転させた面の胴部分の上半部の拡大

短冊には、金彩で、藤が描かれています。

 

 

正面から右に45度回転させた面の胴部分の下半部の拡大

扇面には、金彩で、家屋、樹木、舟などを配した山水図が描かれています。

また、短冊には、金彩で、藤と桜が描かれています。

 

 

上から見た面

口縁の約半分が欠損していましたが、欠損部分は私が補修しました。欠損したままですと、どうしても、目が欠損した部分に行ってしまい、鑑賞の妨げとなってしまいますけれど、この程度の下手な補修でも、ちょっと離れて見るぶんには、それほど目障りとはならず、十分に鑑賞には耐えられるようです<自画自賛(~_~;)>

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期<享保期(1716~1735年)前後>

サ イ ズ : 口径3.7cm  幅;肩部11.0cm、底部10.0cm  高さ26.5cm

容 量  : 口いっぱいに入れると約1.9 ℓ入りますので、1升(1.8 ℓ)徳利として使用されたも のと思われます。


伊万里 染錦 仙人果文(桃文) 鉢 

2022年01月17日 13時37分59秒 | 古伊万里

 今回は、「伊万里 染錦 三果文 仙人果文(桃文) 鉢」の紹介です。

 これは、昨日の古美術品交換会で手に入れたものです。

 特に気に入って手に入れたというような代物ではないのですが、ここ暫く、骨董市や古美術品交換会で何も手に入れていないものですから、買いたい禁断症状が出てきて買ってしまったものです(~_~;) いわば、衝動買いというやつですね(~_~;)

 それはともかく、この「鉢」には、石榴(ざくろ)、仏手柑(ぶっしゅかん)、桃の三種の果実が、いわゆる「三果文(さんかもん)」が描かれているものと思われます。

 柘榴は実が多いことから子孫繁栄を意味し、桃は豊かな実りのイメージから寿を表し、また、仏手柑はちょうど仏の手を連想させるような形をしていますので、これもまたおめでたいことを意味していますことから、伊万里では、これらの三果を描いた「三果文」はよく使用されている文様だからです。

 しかし、今、現実に紹介するに当り、この「鉢」の文様をよく見てみましたら、どうも、「三果文」ではないような気もしてきました(~_~;)

 はっきりしないんですよね(~_~;) でも、多分、「三果文」だとは思うのですが、、、。

 描き手にとっては、あまりにも描き慣れた普遍的な文様ですし、毎日毎日同じ文様を描き続けるうちに、何時の間にか、本来の文様から外れてきてしまったのではないかと思うんです(~_~;) でも、やはり、違う文様なのかもしれません。その際はご宥恕を、、、。

 

 

龍と鳳凰が描かれた側面

 

 

龍と鳳凰が描かれた側面の斜め上から見た面

 

 

三果文  仙人果文(桃文)と花が描かれた側面

 

 

三果文 仙人果文(桃文)と花が描かれた側面の斜め上から見た面

 

 

見込面

 

 

三果文 仙人果文(桃文)の拡大(その1)

赤い実は石榴、紫の実は仏手柑と 実は全て仙人果(桃)と思われます。

 

 

三果文 仙人果文(桃文)の拡大(その2)

赤い実は石榴、紫の実は仏手柑、茶色っぽい実は 実は全て仙人果(桃)と思われます。

 

 

見込の中心部の拡大

赤い実は石榴、紫の実は仏手柑、茶色っぽい実は 実は全て仙人果(桃)と思われます。

 

 

龍と鳳凰が描かれた側面側から見た底面

 

 

三果文 仙人果文(桃文)と花が描かれた側面側から見た底面

 

生  産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ イ ズ : 口径;24.1cm 高さ;10.7cm 底径;11.1cm

 

 

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追 記(令和4年1月18日)

 この「鉢」を紹介して直ぐ、遅生さんより、次のような趣旨のコメントが寄せられました(^_^)

 

「この鉢の三果ですが、色違いの桃ではないでしょうか。江戸時代の絵画で有名な画題に「海鶴幡桃図」というのがあります。海上の鶴とともに、岸の桃が描かれるパターンの絵です。この場合、桃は仙果と呼ばれています。この時の桃の枝、葉、果実の描き方と今回の品の絵とはよく似ています。また、今回の果物は一本の枝に実っていて、同じ果実と考えるのが自然ではないでしょうか(果実の色は違いますが)。」

 

 私は画題のことを勉強しておりません(~_~;) バカの一つ覚えで、果実が三種類描かれている場合は(この場合は、果実の色が三種類なわけですが)、全て、石榴(ざくろ)、仏手柑(ぶっしゅかん)、桃の三種の果実が描かれているものと思っていました(><)

 言われてみればごもっともなことですね(^-^*)

 従いまして、この記事のタイトルに相当する部分の「三果文」を「仙人果文(桃文)」に、文中の「赤い実は石榴、紫の実は仏手柑と」を「実は全て(仙人果(桃)と」に、「赤い実は石榴、紫の実は仏手柑、茶色っぽい実は」を「実は全て仙人果(桃)と」に訂正いたします。


初「骨董市と古美術品交換会」

2022年01月16日 20時56分03秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、定例の、月に1回の「骨董市と古美術品交換会」の日でした(^-^*) しかも、今年初の「骨董市と古美術品交換会」の日でもありました(^_^)

 そのようなことでもあり、幸い今日はお天気も良く、また、冷たい風も吹かないものですから、早朝から、出発です! まっ、今は、冬真っ只中ですから、寒いことは寒いですが、ルンルン気分での出発です(^-^*)

 まずは、何時もの通り、骨董市へ!

 今はコロナの第6波中ですので、骨董市も低調なのかなと思いましたが、それほどの影響を受けていないようで、結構な人出で賑わっていました。

 しかし、出店数も増え、来客数も増えていましたが、品揃えの内容がそれに伴わず、私の欲しい古伊万里はないようでしたので、そこは早々に引き上げ、次なる古美術品交換会へと急ぎました。

 古美術品交換会のほうは、ここのところ出席者が少なかったのですが、今日は、何時もよりは多かったようです。

 従いまして、競りに掛けられる物も、今日は、多少は多く登場しました。

 私の目的としている古伊万里も、何時もよりは多く登場しました。しかし、それほどレベルの高いものは登場せず、私が少々食指を動かしたものは、江戸後期のものが数点でした。

 是非とも欲しいというものはありませんでしたが、それでも、ここのところ、暫く買っていませんでしたので、1点くらいは競り落とそうと思い、1点だけ競り落とし、連れ帰りました。

 それは、江戸後期の「伊万里染錦三果文鉢」です。

 なお、この「伊万里染錦三果文鉢」につきましては、改めて、明日にでも紹介いたします。

 

 ところで、古美術品交換会も早く終わりましたので、今回も、そのまま真っ直ぐ家に帰るのではなく、途中、遠回りをして「一言主(ひとことぬし)神社」境内の骨董市を覗いてから帰ることとしました。

 また、今日は、これまた、真っ直ぐに「一言主神社」に行くのではなく、途中、「國王神社」というところに寄ってから行くこととしました。

 「國王神社」の由来と歴史は、「國王神社」のホームページでは、次のように紹介されています。

 

由緒

國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。

将門公の三女・如蔵尼(にょぞうに)が、父の最期の地に庵を建てたことが國王神社の創始であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。

平将門木像

創建と歴史

天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構える平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。

将門の精鋭400騎は、敵軍3,000騎に対して当初は追い風を得て、敵を圧倒します。
しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。

地元の言い伝えによれば、首を取られた将門の身体は馬に乗せられ、後に國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのです。


月日は流れ、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきます。
それは、奥州・慧日寺に逃れていた、将門の三女・如蔵尼でした。

奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、あるとき悪夢を得て、急いで下総に帰郷すると、村人に父の最期の地を尋ねたのです。
熾烈な残党狩りの記憶から、口を閉ざしていた村人たちでしたが、尼僧が将門の縁者だと分かると、将門が辿り着いた最期の地──現在の國王神社へと案内したのでした。

如蔵尼はこの場所で、傍らの林の中より怪木を見つけると、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。
そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。
天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。

 

 この「國王神社」には、昔、一度だけ行ったことがあるのですが、ここのところ、何度か、「一言主神社」への道すがら、見かけていましたので、今日は、是非とも、寄って行こうと思ったわけです。

 以下は、案内表示板と境内の写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 ひっそりとしたたたずまいで、私が行った時は、私以外の参拝者は一人だけでした(~_~;)

 「國王神社」の参拝を済ませ、一路、「一言主神社」へと向かいます。

 ところが、「一言主神社」のほうは、「國王神社」よりも遥かに御利益があるのか、参拝者が多く、「密状態」です(~_~;)

 ここは、何時来ても参拝者が多いですね。今日は、初詣客が多かったのでしょう。

 

境内には多くの骨董店が品物を並べています。

 

 

初詣客等で長蛇の列です。

 

 

お賽銭をあげるまでにたどり着くのも大変です(~_~;)

 

 長い行列の末尾につき、お賽銭をあげ、境内で行われている骨董市での多くの戦果をお願いしました(^-^*)

 それから、境内で行われている骨董市を見て回ったのですが、買いたいと思うような古伊万里には遭遇しませんでした(><) 


伊万里焼でのベロ藍の始まり

2022年01月14日 14時23分59秒 | 古伊万里

 ここのところ、伊万里では、正確には何時の頃からベロ藍が使われるようになったのかが気になり、ちょっと調べてみることにしました。

 使用した資料は「肥前陶磁史考」(中島浩氣著 青潮社 昭和11年発行)(昭和60年復刻発行)です。

 

この本は分厚いです! 厚さが8.5cmもあります!

 

 

まず、ベロ藍を伝えたワグネルについてですが、ワグネルについては、

 

「ドクトル・ゴッドフリード・ワグネルは、天保2年(西暦1831年独逸ハノーヴァーの某官吏の家に生れ、ゲッチンゲン大学に於いて、数学、物理、地質、結晶及び機械学等を修めドクトルの学位を得しは、22歳の時であった。其後沸国や瑞西等に在りしも、舎弟ワルシが、石鹸製造所の設立に招かれて、我が長崎に来りしは、1868年乃ち明治元年5月15日、彼が37歳の時であった。  (P.552) 」

 

と紹介しています。

 その後、ワグネルは、明治4年7月に伊万里県有田郡令百武作十との間に雇用契約が成立し、明治4年10月には有田に引移っていますが、その時の状況を、次のように書いています。

 

「明治4年10月、ワグネルは、上幸平の教導所に来りしが、次に白川の旧御山方役所跡に引移ったのである。此処は居宅と伝習所を兼ねしものにて、其時通弁人として、二里村の藤山栄次郎(貴族院議員藤山雷太の舎兄)が付き、外に島原生れの洋妾が、萬事世話したのである。

 此際直接の研究生となりし者には、泉山の深海墨之助(平左エ門の男)上幸平の辻勝蔵(十代喜平次の男)大樽の平林兼助(伊平の舎弟)本幸平の山口勇蔵(喜右エ門の男)中野原の西山孫一(幸十の男)等5人にて、教科の主なるものは、本窯の彩料製法即ちコバルト青、クローム鉄、金臙脂等であった。 (p.560) 」

 

 なお、当時の染付に関する状況については、次のように書いています。

 

コバルト使用  当時の青花顔料は、皆支那呉州を輸入せしものにて、品種の等差頗る多く、上品に至っては価甚不廉であった。ワグネル一見して此は酸化コバルトの化合物にて、元来金属原素を含めるものである。我独逸にては、此含有せる鉱石より、精製されたるコバルト(コバルトブリュー又テナーズとも称し、アルニューム酸コバルトにアルミナを含有する、耐火性に富む青色顔料である)なるものがあり。之に硬度の白土を混和して焼き、臼磨して用ふることの、大いに便利なることを教えたのである。 (P.560~561)

 

有田焼の呉州本位  而して赤絵素地の彩料として、コバルトの出色は、余りに華麗に過ぎて金色を壓し、且有田焼の古典味(クラシック)が失はるゝを以て、多くは中等以下の呉州或は兎の糞(満俺鉄分の多き茶褐色の最下等呉州にて、又茶園の実ともいふ、多く琉球の産也)へ、少量のコバルトを加へ、以て発色に沈着味あらしむるに至ったのである。

 尤も最初コバルトの流行時代には、其華美なる紺色にて、染付の着け葉牡丹や、山水絵或は派手なる瑠璃釉など、製作されしことあるも、結局有田焼固有の釉相と調和せさるを以て、漸次染付も呉州本位に復し、コバルトは一部の加合彩料にのみ、用ひらるゝに至ったのである。  (P.561~562)

 

古伊万里の時代区画  之よりコバルト使用は、全国の陶山に広まりしが、明治4年を分岐として有田焼に呉州時代と、コバルト加合時代とに依りて、新古の区別が、歴然と画せらるゝに至ったのである。結局良呉州を顔料とせし、青花の気品は到底コバルトにて構成することは、不可能であった。

 此時代より有田焼の製法が、彌々便法にのみ工夫され、全く古伊万里特色の跡を断つに至りしも日用品広売の経済的工業より観れば、大いなる進歩であった。同時に又一面審美的製品の堕落であった。而して又此コバルト使用の流行にて、旧来盛名ありし名陶家が、家産を傾けし反面には、コバルト使用の下手物製作にて、産を起せし窯焼も亦少からず、茲に塞翁が馬の禍福があった。  (P.562~563)  」

 

 

 以上は、「肥前陶磁史考」のベロ藍に関する記述のほんの一部の抜粋にすぎませんが、上記の内容から、伊万里焼の場合は、明治4年がベロ藍使用についての大きな分岐点であったことが分かります。


白鳥の初観察・・・白鳥の飛来(その5)

2022年01月07日 16時35分09秒 | 近くの池の白鳥

 今日は、白鳥の初観察に行ってきました(^-^*)

 昨日、初雪が降りましたので、雪景色の中の白鳥の写真を撮ろうと思ったからでもあります。

 ところで、昨日の雪は、結局は5cmほど積もったわけですが、今日は上天気ですので、どんどんと溶けて少なくなっていきました。

 しかし、雪の中を歩くのは危険ですので、道路の雪が無くなった頃を見計らい、昼食後に出かけました。

 案の定、日当たりの良い道路にはもう雪が残っていませんでしたが、日陰の部分にはまだ残っていて、気を付けて歩きませんと危険です!

 

日陰の道路にはまだ雪が残っています。

 

 

 所々雪が残っている場所がありますので、そこは慎重に歩いて行き、無事、観察場所に到着です。

 

観察場所にはまだ少し雪が残っていました。

 

 

けっこう、観察者が来ていたみたいで、多くの足跡が見られます。

 

 

観察場所の日陰部分の手摺りには、まだ雪が残っていました。

 

 

近寄ってきました(^-^*)

 

 

手の届くような、すぐ近くにまで寄ってきました(^-^*)

 

 

すぐ目の前に、パンを少し置いてみます。

もう少し首を伸ばせばパンに届くのですが、さすがは野生の白鳥です。

警戒して、直ぐには、そこまではしないようです。

 

 そこで、焦らしても可哀想ですから、パンを少し押し、池の中に入れてあげました。

急いでパンを食べます(^-^*)

 

 

更にパンをあげますと、直ぐにそれに飛びつきます。

 

 

それを見ていた別の白鳥が、私にも(俺にも)くれと、私に催促します。