Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「瓦経残欠」と「経筒」

2024年04月30日 19時17分23秒 | 仏教美術

 今回は、「瓦経残欠」と「経筒」を紹介したいと思います。

 このうちの「瓦経残欠」は、平成7年に(今から29年前に)、地元の古美術店から買ってきたものです。

 私は、特に仏教美術に興味があったわけではありませんので、買った当座は、これがどのような物なのかを知りませんでしたけれども、その後、東京国立博物館でこの類品を見て(勿論、東京国立博物館に展示されている物は、もっともっと立派な物ですが)、これが「瓦経残欠」というものであることを知りました。

 もっとも、これが「瓦経残欠」であることは分ったのですけれども、私は、そもそも、その「瓦経」なるものがどんなものかも知りませんので、ここで紹介するに当たっては、全く知らないで紹介しても無責任ですので、ちょっと、ネットで調べてみました。

 次のようなものとのことです。

 

 

瓦経 (がきょう)

経塚に埋納するため,粘土板に錐,篦(へら)などで経典を書写して焼いたもの。〈かわらぎょう〉とも呼ぶ。方形,または方形に近い平板状が多い(縦約17~27cm,横約10~30cm,厚さ約1~3cm)。通常表裏に界線・罫線を引き,1面10~15行が多い。界線の欄外や側面には丁付(ちようづけ)(経典の種類,順序などを識別するための簡単な記載)が記されている場合がある。なお,仏形を陽出し,経典を各仏形の胸に1字ずつ刻した特殊な例もある。経典の種類は法華経をはじめ多岐にわたり,紙本経の経塚にはあまり見られないものもある。また瓦製の仏像,仏塔,仏画,曼荼羅などを伴う場合もある。経塚の営造には,経典を弥勒の世まで伝える考えがうかがえるが,瓦経は不朽性に着目して考案されたのであろう。早い例に鳥取県の大日寺瓦経(1071)があり,その後約1世紀の間に盛行。西日本に多く,三重県の小町塚瓦経(1174),京都府の盆山瓦経,兵庫県の極楽寺瓦経(1143),岡山県の安養寺瓦経,福岡県の飯盛山瓦経(1114)など,約30ヵ所が知られている。

執筆者:三宅 敏之 (出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

 

 

 以上のことから、次に紹介する瓦経残欠は、経塚に埋納するために,平安時代の11世紀~12世紀にかけて、西日本のどこかで、粘土板に錐,篦(へら)などで経典を書写して焼かれた瓦経の残欠だろうと思われます。

 

 

瓦経残欠

 

生 産 地 : 西日本

製作年代: 平安時代(11~12世紀)

サ イ ズ : 縦9.8cm  横9.9cm  厚さ2.2~2.3cm

 

表面(仮定)

 

 

裏面

 

 

側面(その1)

 

 

側面(その2)

 

 

オマケ画像

売っていた古美術店の主人が作った台座に飾ったところ(^_^)

 

 

 次に、「経筒」ですが、これも地元の古美術店から(「瓦経残欠」を買った店とは別な店)、平成14年に(今から22年前に)買ってきたものです。

 もっとも、私は、ただただ、この物の放つ緑青の美しさに惹かれて購入に及んだので、これが、本当に「経筒」なのかどうかは分りません(~_~;) 売っていた店主が「経筒」だと言っていたので、「経筒」なのだろうと思っているにすぎません。また、この物が作られた時代ですが、これも、店主が「鎌倉時代」と言っていたので、「鎌倉時代」なのだろうと思っているにすぎませんことをおことわりしておきます(~_~;)

 

 

経 筒

 

生 産  地: 不明

製作年代: 鎌倉時代

サ イ ズ : 長さ11.1cm  最大胴径3.7cm

 

横にしたところ(左側が底部分)

長さ: 11.1cm

 

 

底部分側から見たところ

 

 

上部分側から見たところ

 

 

蓋部分を外したところ

 

 

本体部分と蓋部分の内側

左:本体部分   右:蓋部分

 

 

 

  なお、実は、この「瓦経残欠」と「経筒」につきましては、両者を合わせて、以前、今では止めてしまっているかつての拙ホームページ「古伊万里への誘い」の中で紹介したことがあるのです。

 それで、次に、当時の紹介文を再度引用し、この「瓦経残欠」と「経筒」の補足紹介文とさせていただきたく存じます。

 

 


 

<古伊万里への誘い>

 

古伊万里周辺ギャラリー:「1 平成の納経 (平成14年2月筆、3月1日登載)

 なじみの古美術店に遊びに行った時のことである。ショーケースの奥の隅の方に、なにやら私の心をひきつけるものを発見。しょっちゅう行っているんだけど、今まで気付かなかったものである。いや、新しく展示されたばかりだったので、気付かなくて当然だったのかもしれない。

 そんなことは私にとってはどうでもいいことである。そんなことは今までに何度も体験しているから。以前から展示されていたのか、新たに展示されたのかなど、最近の私は意に介さない。要は、今、現在、私の心をひきつけるものが何なのかだけである。

 それは経筒であった。ショーケースの奥の薄暗い片隅に、にぶく緑色に輝いていたものは、経筒であった(というよりも、店主がそう言うのだからそうなんだろう。だって、私は、経筒のことなど、よく知らないのだから。)。それは、ほの暗さの中に、にぶく、宝石のような輝きを呈し、一見、勾玉を思わせるものであった。しかし、こんなに大きな勾玉があるわけがないと、私の理性が判断する。そうだ、玉(ぎょく)であろう! 玉にちがいない! あの輝きでは! あるいは、私の好きな銀化したローマングラスか! ところが、結果は経筒であった。

 それほどまでに美しい緑青の出た経筒だったのである。私は、その緑青そのものの美しさに夢中になった。形が何であれ、そんなことは知ったことではない。時代だって、古かろうが、新しかろうが、そんなことはいっこうにかまわない。今、私は、ただ、その緑青の美しさの虜となってしまったのである。

 そこに、店主の追い討ち。「鎌倉頃の経筒です。」と!

 これはもう決まりである。「鎌倉頃の・・・・・」は殺し文句だ。即刻商談成立で、我が物となった。

 

 

 と、その時、私に或るヒラメキが走る。

 私は、7年程前から平安時代の瓦経(がきょう)残欠を所持しているが、それを拓本にとり、この経筒に納めれば、これぞ“平安の納経”ならぬ“平成の納経”になるではないかということを思いついたのである。そうすれば、鎌倉時代が平安時代を呑み込んだ形になるではないか、これぞ歴史の必然と、一人悦に入る。

 ところで、この瓦経残欠は、もともとは、本県随一の古美術の目利きといえる I 氏が20年程前に奈良の古美術店から購入してきたものであったが、I 氏の手違いから、不本意に I 氏の手を離れていったものであり、それが、まわりまわって私の所に来たものである。

 この瓦経残欠、さすが、I 氏の手元から不本意に離れていった I 氏の愛蔵品だっただけのことはある。両面に経文が刻み込まれていて珍しいうえに、書かれた経文が美しい。また、残欠となった部分の位置もちょうどよく、瓦の真ん中あたりに相当するものである。隅の方の部分の残欠では魅力に欠けるであろう。とにかく、見所と魅力が満載といった瓦経残欠なのだ。

 そこで、さっそく、知人から拓本のとり方を教わり、実行に移してはみたが、そうは思ったようにはうまくいかないものだ。でも、まあ、なんとか、瓦経残欠の面影をしのぶことはできそうなので、拓本の技術を磨いて再挑戦することにし、当面はこれでがまんしよう! 鎌倉の経筒に平安の経文を呑み込ませた平成の納経の完成!!

 

: 拓本は、このホームページでこの文章を紹介する際には存在し、それも添えて紹介したのですが、あまりにも出来が悪いので、その後、破り捨ててしまいましたので、今では、存在しません(><)


懸仏

2024年03月01日 14時26分39秒 | 仏教美術

 我が家には、仏教美術に関するものが数点あります。

 それは、私が、古伊万里を主とする古美術品の収集の過程で、なんとなく気に入って買い求めたものです。

 今回は、その内の、懸仏(かけぼとけ)を2体、紹介したいと思います。

 まず、1体目の懸仏ですが、それは平成7年に(今から29年前に)買ったもので、次のようなものです。その懸仏を「懸仏A」とします。

 

 

懸仏A

 

古い木片に懸けて取り付けられています。

径:7.3cm

 

 

上の写真の拡大

 

 

上の写真の裏面

 

 

仏像部分の拡大

 

 

上の写真の裏面

 

 

 二体目の懸仏は次のようなものですが、それは、平成16年に(今から20年前に)買ってきたものです。その懸仏を「懸仏B」とします。

 

 

懸仏B

 

木片に釘で打ち付けて取り付けられています。

円形部の径:8.6cm

 

 

上の写真の拡大

 

 

仏像部分の拡大

 

 

 なお、この懸仏二体につきましては、今では止めてしまった拙ホームページ「古伊万里への誘い」で既に紹介しているところです。

 それで、次に、その拙ホームページ「古伊万里への誘い」で既に紹介した部分を再度紹介することで、この懸仏二体の若干の説明とさせていただきます。

 

 


 

「古伊万里への誘い」

 

*古伊万里周辺ギャラリー5 懸仏二題 (平成16年1月作成)

 我が家には、どういうわけか懸仏(かけぼとけ)が2体ある。もっとも、「どういうわけか」といっても、これ等はもともと我が家に古くから伝わったものではない。私が気まぐれに買ってきたものたちである。

 

 

       懸仏A(径:7.3cm)       懸仏B(円形部の径:8.6cm)

 

 ところで、見てのとおり、この懸仏たち、まことにお粗末で、果たして「懸仏」と言えるのかどうかも定かでない。でも、売っていた方が「懸仏」と言っていたのだから、そのようにしておこうと思う。また、時代は「鎌倉時代」だということだが、これまた定かではない。しかし、これも売っていた方が「鎌倉時代」だと言っていたのだからそのようにしておこうと思う。

 私は、古伊万里以外のものには、頓着しないのである。言われたままを鵜呑みにしている。また、自ら調べようともしない。誠に持って定見がないのである。その時の気分次第で、気に入ったから買うという態度である。

 でも、後になってから、この懸仏、古伊万里とどう関連があるのかな~と、自分でもおかしくなる。しかも、汚らしい薄っぺらな銅板の切れっ端に、タガネで仏像らしきものを浮き出させたにすぎないような物に誰が美など感じるだろうか?

 こんなものを美しいと感じる人は、よほど変わっているにちがいない! 美の感覚が通常人とは相当にズレテいるのだ。

 もっとも、古伊万里だってそうだろう。こんな薄汚れた、猫の餌入れのような物を後生大事にするような者は、やはり、通常人のそれとはかけ離れている!

 まあ、それでも、懸仏Aの方はまだいい。ちゃんと全体が残っていて、たぶん懸仏なのだろうなと思わせるからである。ところが懸仏Bの方はどうだ。何を打ち出しているのかさえもわからない。真ん中の方に、かすかに仏像とおぼしきものが打ち出されているにすぎないではないか。しかも、これは、全体ではないようだ。一部分にすぎないようである。もっと周りに付着した物があったのだが、それも既に欠落してしまっているように思えるのである。懸仏残欠というところか。こんな物に大金(?)を投じて買ってきたなど、口が裂けても言えたものではない!! だから、私は、いつも、買ってきた値段についてはダンマリをきめこんでいる。

 でも、こんな汚らしい物にも、多少は利用価値がある。

 部屋の隅の方に古い台を置き、その台の上に、今は亡き義父母の写真などと共に飾ったりすると、いかにも仏壇まがいの雰囲気を醸し出すのである。なんとなく、ありがたい気持になる。亡くなった義父母をあの世でも守ってくれるような気分になってくるのだ。それで、時折、交代で台の上に登場してもらっている。


「廣隆寺」銘のある水瓶(すいびょう)

2019年07月04日 12時02分25秒 | 仏教美術

 或るブログ友が、最近のブログに、広隆寺に行ってきた旨の記事を載せていました。

 その記事を読んで、「私も広隆寺に行ってみたいな~、羨ましいな~。というのも、私は、「広隆寺」と刻銘された銅製の水瓶を持っているので、広隆寺には憧れを抱いているからなんです」とのコメントを寄せました。

 そうしましたら、そのブログ友は、是非その水瓶を見たいとのリコメをしてきました。それで、それに応えるべく、次のような記事をしたためたしだいです。

 


 

 その水瓶は、今から35年前の昭和59年に、地方のデパートの「東寺骨董市」で買ったものです。

 その頃は、骨董ブームでもあったんでしょうかね、年に1回くらい、地方のデパートの特設会場で、骨董市が行われていたんです。その時は、京都の東寺の境内で行われている骨董市に出店している業者さんの何十軒かが、この地方のデパートの特設会場にやってきて「東寺骨董市」というものを再現したんでしょう。

 今では、そのような催しを企画しても、お客が集まらず、採算が合わないのか、行われることはなくなりましたが、、、。

 ところで、私は、本や図録で見ていて、いつしか、観音菩薩が持っている水瓶(すいびょう)に憧れるようになりました。特に、その形に憧れるようになっていました。それで、何時の日にか、そのような水瓶を是非手に入れたいものだと思っていたんです。

 そうしたなか、この「東寺骨董市」とやらで、この銅製の水瓶に出会ったんです。

 

  高さ:21.4cm 最大胴径:8.9cm 底径:5.5cm (製作年代:不明)

 

底面から見たところ

 

 欲を言えば、腰の辺りがもっと膨らんだ瓜型のものが欲しかったんですが、欲を言えばきりがありません。それで妥協することにしました。

 それに、これで妥協するには、もう一つの理由がありました。それは、この水瓶の肩に近い胴の部分に「廣隆寺」と刻銘されていたからです。

 それを売っていた業者さんは、「ほれ、ここに「廣隆寺」と書いてあるでしょう」と言うんです。よ~く見れば、確かに「廣隆寺」と書いてあるではありませんか。「廣隆寺」といえば、国宝彫刻の部第一号の弥勒菩薩半跏思惟像を所蔵しているところですよね!

 さらに、業者さんは、「この水瓶は、広隆寺さんの什器だったものですよ」と追い打ちをかけてきました。

 私としては、京都の東寺の骨董市に出ている業者さんが言うんだから、そうに違いないだろうと思い、喜び勇んで、この水瓶で妥協することにしたわけです。駄目押しですね。

 

 

「廣隆寺」の刻銘

 

 この銅製の水瓶、本当に「廣隆寺」の什器だったのかどうかは分かりません。「廣隆寺」が檀家などに配った物の一つかもしれません。でも、「廣隆寺」とは何らかの関係があるのかな~とは思っています。そう思っていれば、ロマンがありますものね、、、(^-^;

 その後、本物の「東寺骨董市」には、平成15年の12月21日の「終い弘法」の日に訪れたことがありますが、いまだに、広隆寺には行ったことがありません(-_-;)