Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 ねじ花文 深皿

2021年05月31日 13時02分03秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 ねじ花文 深皿」の紹介です。

 先日(令和3年(2021)4月24日)、「色絵 ねじ花文 小皿」を紹介しましたが、この「色絵 ねじ花文 深皿」は、その文様とよく似ています。

 先日紹介しました「色絵 ねじ花文 小皿」は、平成6年に(今から27年前に)、地元の馴染みの骨董屋から買ってきたものですが、この深皿は、その3年後に、やはり、その同じ骨董屋から買ってきたものです。

 写真で見比べて見ていただけると分かるかと思いますが、この深皿に比べ、「色絵 ねじ花文 小皿」のほうは、口縁に鉄錆が塗ってあるために、皿全体の画面がギュッと引き締まって見えます。また、呉須で描かれた二筋のねじ花状の文様も、濃淡が強く、ピーンと緊張感が漂い、力強さを感じます。

 「色絵 ねじ花文 小皿」とこの「色絵 ねじ花文 深皿」とを並べて見てみますと、「色絵 ねじ花文 小皿」に比べ、この「色絵 ねじ花文 深皿」のほうは、デレッとして間の抜けたような印象さえ、見る者に与えてしまいます。

 恐らく、この「色絵 ねじ花文 深皿」は、後世になって「色絵 ねじ花文 小皿」を写したものではないかと思われます。

 「色絵 ねじ花文 小皿」とこの「色絵 ねじ花文 深皿」との関係では、「色絵 ねじ花文 小皿」のほうがオリジナルと言えるではないでしょうか。オリジナルには力強さや勢いを感じますね。

 

 

表面

 

 

側面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ イ  ズ: 口径;15.8cm  高さ;4.5cm  底径;9.5cm


家庭菜園作業

2021年05月30日 12時55分29秒 | 家庭菜園

 昨日は、一日中、家庭菜園の作業をしました。

 本当は、午前中で終わらせるつもりで、気軽に出発し、家庭菜園には午前10時頃に到着したのですが、作業を始めましたら、次から次へと、あれもやろう、これもやろうとなり、一日中、悪戦苦闘をする羽目になりました(><)

 作業の大部分は草取りです(><)

 一部の草取りをしましたら、他の部分も綺麗にしたくなり、のめり込んでしまったわけです(^_^)

 それで、スーパーに弁当と飲み物を買いに走り、とうとう、日没近くまで作業をすることになってしまいました(><)

 でも、お陰で、菜園全体の雑草取りが終了しました(^_^)

 これから、また、雑草取りとの戦いが続きます(~_~;)


赤地金彩 羊歯文 蓋付壺

2021年05月28日 14時45分00秒 | 古伊万里

 今回は、「赤地金彩 羊歯文 蓋付壺」の紹介です。

 

 

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代後期

サ  イズ : 高さ(蓋共);16.2cm 蓋径;7.7cm 胴径;12.8cm

 

 

 この蓋付壺につきましては、実は、既に、令和元年(2019)8月15日に「古伊万里の茶壺」

として紹介しているところです。

 ただ、この蓋付壺は、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも紹介していたのですが、その令和元年(2019)8月15日の紹介の際には、そこでの紹介文の紹介を省略してしまいました。

 古伊万里の紹介の際には、極力、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中での紹介文も紹介することにしていますので、ここで、改めて、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でのこの蓋付壺に関する紹介文を追加紹介したいと思います。令和元年(2019)8月15日の「古伊万里の茶壺」と合わせてご覧いただければ幸いです。

 

 

   ==================================

            <古伊万里への誘い>

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里ギャラリー16 古伊万里様式色絵蓋付壷      (平成13年12月20日登載)

 

 

 この茶壷を見ると、いつも思うのである。以前から日本人に愛されていた「古伊万里」とは一体どんなものだったのだろうかと?

 初期伊万里は、文字通り初期の伊万里だから、当然に「古伊万里」に含まれるであろうことはわかる。ただ、これだって、愛されるようになったのは、たかだか30~40年前からであろう。

 古九谷は、もちろん古い九谷焼だったから、「古伊万里」の範疇外である。柿右衛門も、名門柿右衛門家の作った焼物のことであり、名もない陶工の作った焼物などとは一緒にされてきてなかったので、これまた「古伊万里」の範疇外となる。ましてや鍋島は、藩窯であり、民窯のものとなど同一に列せないのであり、「古伊万里」と比較することすらはばかられるので、当然に範疇外である。

 輸出向け金襴手は、これは外国人向けだから、日本人に愛されたものではない。そうすると、わずかに、国内向けの金襴手である型物だけが残る。しかし、これとて、富裕層に愛されたにすぎないだろう。

 また、元禄・享保を過ぎたようなものは古伊万里とは言わなかったろうから、結局、以前から日本の一般庶民から愛されていた「古伊万里」というものの実体はなかったということになる。

 今後は、以前から日本の一般庶民から愛されていた「古伊万里」というものの実体はこんなものだったのだ、ということを主張したい茶壷である。

 

        江戸時代後期   高さ(蓋共):16.2cm

 

 

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里随想8  醤油顔の古伊万里 (陶説533号;H9年8月号)(平成13年12月20日登載) 

 

 

 何年前のことだろうか。一時、あの娘(こ)は「醤油顔?」、「ソース顔?」という言葉がはやったことがある。顔つきが、どちらかというと和風に属するのか、洋風に属するのかを区分しようとする遊びである。顔つきの何が和風で、何が洋風かの基準も曖昧だし、和風と洋風の中間ということも考えられるのだから、和風と洋風のどちらかに区分しろというのも、なかなか乱暴な話だが、そんなむづかしいことはぬきにして、とにかく、和風か洋風かを単純に区分する、たわいのない遊びがはやったことがある。

 なんだ、こんなくだらない話を突然もち出して、だいたい「古伊万里・鍋島」とどんな関係があるのだ、とお怒りのことと思うが、それは、最近、高さ16センチメートル程の蓋付きの古伊万里の茶壷を、近年では珍しくも、田舎の古美術店で購入し、その壷を眺めていたら、ふと、思い出したからであり、お許しを願いたい。

 ところで、近年、田舎の古美術店で、気の利いた古伊万里を見つけることは困難である。田舎の店では、ほとんど古伊万里の動きがない。かつては、田舎の旧家等から供給されていたのであろうが、昨今では、その供給ルートも枯渇してしまったからであろう。

 それに反して、大都会の店では、けっこう気の利いた古伊万里を発見することができる。大都会には、古伊万里に動きが見られるのである。では、なぜ大都会には、気の利いた古伊万里が出現するのであろうか。その秘密は、大都会の古美術商の方々が、海外から逆輸入してきているからではなかろうかと、私は思っている。昨今の、古伊万里の供給源は、ヨーロッパ諸国なのである。

 このような市場環境から、近年の我が家の古伊万里コレクションの多くは、大都会の古美術店を経由して入ってきている。また、我が家では、比較的に新しく購入されたものが身近に置かれて鑑賞され、古く購入されたものは押入れ行きの傾向にある。その結果、近年、我が家で鑑賞されるものの多くは、ヨーロッパ諸国からの里帰り古伊万里ということになってしまった。

 こうしたなかで、最近、我が家に、突如として、蓋付きの色絵茶壷が、田舎の古美術店を経由して入ってきたわけである。その茶壷たるや、いかにも“茶壷”という風体である。蓋と肩当たりにかけては、赤と金とで逆唐草文がめぐらされ、ちょうど和紙で茶壷に封をしたような文様が描かれている。胴には、染付丸文の中に、赤や緑で、草花文や幾何学文が施され、いかにも和風な趣なのだ。まわりの里帰り古伊万里たちとは全く雰囲気が違うのである。いかにも、「私が純粋な古伊万里よ! 私こそ本物の古伊万里だわ! まわりの皆さんは、古伊万里なんかとはいえないわよ!」と一人でわめきちらしている。少なくとも、私には、そのように感じられるのだ。

 恐らく、この茶壷は、日本の田舎の旧家に伝来し、最近、何らかの理由で、田舎の古美術店を経由して、我が家に入ってきたのであろう。ヨーロッパ諸国からの里帰り古伊万里ばかり見馴れてくると、「古伊万里とは、こういうものだ。」という、ある種の観念が形成されてくる。そこに、それとは、ちょっとちがった、毛色の変わった古伊万里が入ってくると、「あれ!」と思うのである。「古伊万里には、こんな顔もあったのか!」と、再認識させられるのだ。

 冒頭に記した、顔つきを和風か洋風かに区分する遊びに当てはめてみると、里帰り古伊万里が「ソース顔」ならば、旧家伝来のこの茶壷は、まさに、「醤油顔」なのである。もっとも、「そもそも、古伊万里に、和風も洋風もあるものか。ナンセンスではないか。またまたくだらないことを言い出して。」と、更なるおしかりを受けそうであるが、私には、どうしてもそのように感じられるのである。

 江戸時代にオランダ東インド会社によってヨーロッパ諸国にもたらされた古伊万里が、ぞくぞくと里帰りしている。そして、それらは、何となく雰囲気が似ているように思えるのである。当時、商社であるオランダ東インド会社から、「ヨーロッパでは、こんなデザインのものが好まれるのだから、このように作ってくれ。」というような注文があったであろうし、生産者側も、外貨獲得のため、その注文には忠実に、一生懸命になって製作したと思われるのである。その結果、ヨーロッパ諸国へ輸出された古伊万里は、その一群が、なんとなく雰囲気の似ているものになっていったのであろうと思われる。

 一方、国内の需要も相当程度あったろうし、内需拡大に力を入れた生産者もいたはずである。彼等は、当然、国内の好みに応じた生産に力を注いだであろう。そうした、国内向けに生産された一群の古伊万里は、今、改めて注意深く観察してみると、これまた、なんとなく雰囲気が似ていることを発見するのである。

 伊万里も、最近では、古九谷様式、柿右衛門様式、古伊万里様式等に、様式で分類されるようになってきた。でも、それを更に仔細に観察してみると、それぞれの様式内には、更にまた、異なった様式の一群が存在するように思われる。それは、特に、古伊万里様式において顕著なように感じられるのである。古伊万里様式を、更に、「古伊万里輸出様式」と「古伊万里国内様式」とにでも分類することができるのではなかろうかと思っている。

  ( 陶説533号;H9年8月号は「古伊万里・鍋島」の特集号だった。)


染付 陽刻文 葉形小皿

2021年05月27日 17時52分53秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 陽刻文 葉形小皿」の紹介です。

 

 

表面

 

 

側面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期(承応年代)

サ イ ズ : 口径;11.5×9.2cm  高さ;2.6cm  底径;6.7×5.0cm

 

 

 この小皿についても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介済みですので、次に、そこでの紹介文を再度掲載し、この「染付 陽刻文 葉形小皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

   ==================================

            <古伊万里への誘い>

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里ギャラリー182 伊万里染付陽刻文葉形小皿   (平成25年6月1日登載)

 

 

 伊万里では、それが素焼きされているのか、生掛けであるのかかがやかましく言われてきた。特に、現在よりも、以前に於ては、、、、、。

 それで、私も、これまで、それが素焼きされているのか、生掛けであるのかについての見分け方について真剣に勉強したものである。

 素焼きされているのか、生掛けであるのかについての肉眼での見分け方についてはいろんな本等に書かれているが、「古伊万里の染付─その真実の探究─」(今泉元佑著 河出書房新社 昭和62年5月2日初版発行)(この著者は既に鬼籍に入られているし、随分と古い本なので、もう市販はされていないとは思うが、、、)という本には、その見分け方についても比較的に詳しく書かれているので、次に、その本の、生掛けか素焼きかの見分け方を含めた、生掛けと素焼き焼成の判別の重要性を論述した部分を紹介したい。

 

 

〔生掛けと素焼き焼成〕(上掲書のP.67~70)

 古陶磁を見る時は、先ず第一に、その器物が素焼きされて焼かれた作品であるのか、それとも生掛け焼成されているものかを、見てとることは、時代を鑑別する上でも絶対に必要なことである。
 生掛けとか、素焼きした作品だとか、お互いに話をされているので、このことは既に充分お判りになっているものだと思って聞いていると、案外お判りになっていない方も多いようだから、ここで今一度はっきり頭に入れてもらうよう、判り易いようにこの問題を列記することにしたい。

生掛けの器 


(1)細工のゆがみがひどい。
  生掛けの場合、本焼きで
  一度に2割も収縮するか
  らゆがみがひどい。

(2)染付の色合が、黒ずんで
  発色する。

(3)釉薬の肌のテリがどんよ
  りしている。

(4)釉薬のはじきや、小穴が
  多い。

(5)染付の描線が太く、小さ
  く、のびのびと描かれて
  いる。
  生乾きの器物だから、吸
  水力が弱いので、紙に描
  くのと同じように描ける。

(6)高台のけずりが角ばって
  いるのは、生乾きの時、
  釉薬をかけたままけずっ
  ているからである。


(7)生掛けの高台の、釉薬を
  はいだところが、鉄分の
  赤味がそのまま残されて
  いる場合もある。
素焼きされた器


○素焼きの場合は、素焼き
  で1割、本焼きで1割と
  二度に収縮するからゆが
  みみが少い。

○染付の発色は、さえてき
  れいである。

○釉薬の肌はきれいにとけ
  ている。

○釉薬のはじきが少い。


○染付の描線は、一定して
  いて、太くは描けない。
  素焼きすると、器物の吸
  水力が強くなり、のびの
  びとは描けない。


○素焼きも釉薬をかけてか
  ら高台の釉薬をはぐのに、
  棕櫚(しゅろ)でけずって
  いるのでそのけずり跡をよ
  くみること。

○素焼きすると、高台の釉
  薬をはいだ素地のところ
  も、白くなって焼けてし
  まう。
 

 これだけの条件を、しっかりと納得のいくまでよく覚えて戴きたいのである。
 陶磁器の技法は、中国から朝鮮を経て日本に伝えられたものだから、無論日本でも初期は生掛け焼成の技法だったわけである。
 中国では原料の陶石にめぐまれ、然もその陶石がカオリン分子を多く含んでいる耐火度の高い粘土質の陶石ときているのだから、細工は作り易いねばりのある粘土であり、どのように薄くけずった皿でも、耐火性が強いのだからへたらないし、生掛けで強く焼いても染付の発色は、きれいに焼き上がっているのである。
 有田の泉山陶石は単味で白く焼ける陶石ではあったが、さくい陶石(もろい陶石)であり、ねばりが少かったために、いろいろと苦心して焼いており、ちょっとでも火度が強いとへたるので、高台の中に小さな柱であるメを作って、皿の中心が下らないように工夫をしているのである。
 また、染付の色合が黒ずんでおり釉薬のテリもにぶいのは、窯の温度を高くせず、必ず7,8分目でおさえて焼いているために、そのような焼き具合になっているのである。この手が、生掛け焼成の作品の大きな特色だと思って戴きたいのである。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 とにかく、窯焼きは、大量の輸出注文を受けるようになり、そのためには、大きい皿、鉢、壺の窯取れをよくする工夫もせねばならず、どうしたら窯取れの歩止りがよくなるか、ここも研究せねばならず、遂にせっぱつまって、窯取れの歩止りのよい、素焼きをして焼く方法が生れたものと推定されるのである。
 中国、朝鮮の技法は生掛けで焼く技法だったのに、有田皿山も最初はその通りに焼いていたが、長崎貿易で大量に焼く必要から、誰が最初に創意工夫したものか、そこのところは全然判らないが、この素焼きをして焼く技法が始められたことは、有田皿山では大革命であったに違いない。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 このような焼成技法の大改革がいつ時代から焼き始められているのか、その年代を正確に調べることは、古陶磁としての年代を研究する上からも、絶対に必要なわけである。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 我々には、元禄時代頃から柞(ゆす)灰を使って素焼きして焼いているように言い伝えられて来たのだが、それは真実であり、薩摩から柞灰の移入が開始されたのも、間違いなく元禄以降のことではあるまいか。
 また前述のように、寛文時代になると、大量に芙蓉手染付の大鉢などが輸出されているが、まだこの時代までは生掛け焼成のようである。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私としては、素焼きされるようになった元禄時代が皿山の最盛期であり、延宝時代から有田皿山の作品も、大きく飛躍した作品が生れるようになっている筈との見解である。

 

 

 

 以上のように、上掲書では、生掛けか素焼きかの重要性を説き、生掛けか素焼きかの判別方法を詳しく記述するとともに、素焼きは元禄時代頃から始められたこと、元禄時代が伊万里の最盛期であることを記している。

 私は、素焼きは元禄時代よりももっと前から始められていたのではないかと考えていたし、伊万里の最盛期は元禄時代よりも前であったのではないかとも考えていたので、これらの点に関する著者の見解には賛同しかねていたが、生掛けか素焼きかの判別方法については示唆に富むものがあり、大いに参考にさせてもらってきたところである。

 そして、この「伊万里染付陽刻文葉形小皿」のようなものは、生掛けの典型的な器物であると思ってきたところである。

 ところが、「伊万里 誕生と展開 ─創生からその発展をみる─」(小木一良・村上伸之著 創樹社美術出版 平成10年10月1日発行)を読んで驚いた!
 その本には、次のようなことが書かれていたのである(@_@;)

 

 

「ほぼ間違いなく素焼きしている点も見逃せない。素焼き片は、楠木谷窯でもいくらか出土しているが、枳藪(ゲズヤブ)窯の最上焼成室床面に多量に残されていた。141頁のような型打ち皿や丸皿、猪口類などが出土している。脆いためすべては採集できなかったが、それでも数百点に及ぶ。素焼きは、江戸期には通常工房内の素焼き窯で行われた。登り窯の最上室で焼かれたことが確実なのは近代まで降る。よって、本焼きの失敗品である可能性も考慮する必要はある。ただこの中に、焼成不良品に通有な施釉の痕跡は認められない。染付を伴うものも1点も含まれない。1室すべて無文製品を焼成する状況は、有田の窯場では想定しにくいのだ。・・・ 上掲書P.217~218)」

 

:上文中に出てくる141頁というものは次のようなものです。)

 

(付) 枳藪窯出土 素焼き皿陶片 (有田町歴史民俗資料館蔵)

 素焼き焼成が何時頃から始まっているかを知ることの出来る貴重な素焼き皿陶片である。
 (イ)は枳藪窯出土品で前掲品(№106)と類似品である。出土部位よりみて、「承應弐歳」銘作品とほぼ同時期頃の作である。
 (ロ)も同窯作の古九谷色絵小皿の素焼き陶片だが、高台作りが同類形の古九谷伝世品はいろいろみられる。
 素焼き焼成は上手作品では承応時代には行われていたと考えられる。 

 

  

 

 なんと、窯跡発掘というような実証的な調査結果から、この「伊万里染付陽刻文葉形小皿」のような手は、ズバリ、承応時代に素焼きされていたとして、その例として挙げられていたのである。

 しかし、この本を読み、この「伊万里染付陽刻文葉形小皿」のような器物は素焼きしていることを知った後にこの「伊万里染付陽刻文葉形小皿」を買ったきたのではあるが、その後も、どうも、この「伊万里染付陽刻文葉形小皿」が本当に素焼きされているとは信じ難く、長いこと手元に置いて眺めていたところである。

 でも、いまだにこれが素焼きされているのかどうかの判断に悩んでいる。
 とかく、器物が素焼きされているのか生掛けなのかの判断は難しい(><)  

 

江戸時代前期(承応年代)   長径:11.5cm 短径:9.2cm 高さ:2.6cm

 

 

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

*古伊万里バカ日誌112 古伊万里との対話(陽刻葉形小皿(平成25年6月1日登載)(平成25年5月筆)

 

登場人物
  主  人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  葉形皿 (伊万里染付陽刻文葉形小皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、これまでは、買ってきた順番に従い、押入れから引っ張り出してきて対話をしてきていたが、ここ2回ほどは、最近買ってきて、まだ押入れに入れていない古伊万里と対話をしたところである。
 今回は、原則に戻り、以前に買ってきた古伊万里を押入れから引っ張り出してきて対話をはじめた。

  


 

主人: ちょっと暫くぶりかな! 

葉形皿: そうですね。2年ちょっとぶりですかね。

主人: お前のことは、平成18年の11月に東京のさる骨董祭で買ってきたんだが、それ以来、押入れに入れることもなく、身近に、すぐに見られる所に置いといたからね。それが、あの2年前の3月11日の大震災だ・・・・・。幸い、無事生き残ってくれたので、その後、慌てて押入れに入ってもらっちゃったからな。押入れに入るということは、シェルターに入っているようなものだから、お前達陶磁器の身の安全のためにはとっても良いことなんだよ。決して、疎外されているとは思わないでほしいんだよね。私としては、常に見ることが出来なくて残念なことなんだけど。 

葉形皿: はい、わかりました。
 ところで、ご主人は、私を押入れに入れることなく、身近な所に長いこと置いといたわけですけど、それは何故ですか?

主人: それはね、以前は、伊万里の場合、素焼きされるようになったのは元禄時代(1688~1703)以降からだと考える者が多かったんだ。そして、元禄時代こそ伊万里の最盛期だったともいうんだね。それで、伊万里の場合は、素焼きされているかどうかが重要な意味を持ったわけだよ。物の良し悪しを判別する上でも、作られた時代の区分をする上でも、素焼きされているかどうかが重要になってくるわけなんだ。
 私なんかも、素焼きされない生掛けの場合は、高台付近に指跡が残っているとか、釉肌がとろんとしているとか、いろいろと肉眼でその判別をする方法を勉強したものだよ。お前のような手のものは、生掛けの典型的なものだと思っていたな。
 ところが、最近になって、と言っても、今からでは10年以上も前の話にはなるが、窯跡の発掘調査という実証的な研究結果から、お前のような手は既に素焼きされていると考えられるようになったんだ。
 そのような新しい研究結果が本で発表され、お前のような手の物は素焼きされているということを知った後になってお前とは出会ったんだが、以前から、お前のような手の物は是非とも欲しいと思っていたものだから、買い求めたんだ。
 しかし、既に素焼きしている物であることを本からの知識で承知のうえで買ってはきたものの、お前を見ていて、どうも、納得できないんだよね。「本では素焼きしていると言っているが、本当なのだろうか?」という疑問が湧き出てくるんだよ。これまでの肉眼での経験からすると、納得できないものがあるんだ。そんな意味もあって、押入れに入れないで、身近な所に長いこと置いといたんだ。

葉形皿: 生掛けか素焼きしているのかの判別は、そんなにむずかしいんですか?

主人: むずかしいね。私は陶磁器を作っていないので、書物等でしか知り得ないが、そこからの知識からだけでは、肉眼での判断はかなりむずかしいね。

葉形皿: ところで、私の購入に当たっては、何か思い出みたいなものはあるんですか。

主人: うん。先程、お前のことは、平成18年の11月に東京のさる骨董祭で買ってきたと言ったけど、その時は「オフ会」というものがあり、そこに出向いて行った際に買ったんだ。もっとも、それでは何のことだかわからないだろうけれど、つまりはこういうことだ。まず、「オフ会」の場所というものを骨董祭の日程に合わせてその会場の近くに設定し、まずは「オフ会」の場所に集まり、そこで食事をしたり、古伊万里談義に花を咲かせたりしてた楽しんだ後、今度は、それぞれ骨董祭の会場に向かっていって古伊万里収集に励むという寸法だ。だから、お前には「オフ会」の想い出が詰っているんだ。しかも、私が出席した「オフ会」はそれが最後だから、余計に想い出深いんだよ。

葉形皿: ところで、「オフ会」とは何なんですか。

主人: 最近では「オフ会」というものが開かれなくなってしまったからわからないよね。
 「オフ会」というのは、パソコンのスィッチを「オフ」にしての会合ということなんだよ。普段はパソコンのスィッチを「オン」にして掲示板などで、バーチャルの世界で交流を深めているわけだけれど、たまには実際に会ってみて、現実の世界で交流してみようということになって開催された会合なんだ。全国から古伊万里好きが集まってくるから、同じ話題ですぐに盛り上がり、楽しかったな!
 最近では、インターネットも普及し、盛んにブログ等で交流していて、もう、すっかりバーチャルの世界での交流に慣れてきたのか、特に、実際に会ってみて交流してみようとする欲求も強くなくなったようで、「オフ会」をしようという話題は盛り上がらなくなったね。こんなことにも時代の流れというものがあることを感じるね。

葉形皿: そうですか。私にはそんな想い出があったんですか。

主人: そうそう、お前への想い出というと、もっとあるな。

葉形皿: どんな想い出ですか。

主人: その骨董祭でお前を出品していた業者さんは山形県から来ていたんだ。業者さんの話では、お前は、山形県内の民家の蔵から出てきたんだそうだよ。3枚出てきた内の1枚だそうな。山形県内の民家の蔵から出てきたということは、北前船で運ばれてきたという事実が濃厚だよね。お前が北前船に乗って肥前の地から出羽国まで行ったんだな~と思うとロマンだよね。それを聞いて、ロマンも買ったんだよ! 当時の壮大なロマンをね!!

 

 

  ===================================

 

 以上で、この「染付 陽刻文 葉形小皿」の紹介は終了となりますが、次に、上記の紹介文の中に出てきます「伊万里 誕生と展開 ─創生からその発展をみる─」(小木一良・村上伸之著 創樹社美術出版 平成10年10月1日発行)についての概要を紹介したく思います。

 それは、上掲書「伊万里 誕生と展開 ─創生からその発展をみる─」が、上記の紹介文中に出てきますような「生掛けか素焼きか」の問題のみを取り扱っているだけではなく、各方面にわたる伊万里研究の新しい視点を取り扱っていますので、伊万里研究のためには大変に参考になるからです。

 その上掲書の概要につきましては、「伊万里研究日進月歩」という形にまとめ、日本陶磁協会の月刊機関誌の「陶説」に投稿し、また、やはり、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中にも同文を掲載しているところです。

 そこで、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で掲載しましたその部分を次に転載し、上掲書の概要の紹介に代えさせていただきます。

 再度の、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の登場となり、恐縮です(~_~;)

 なお、前回の「染付 小碗」の紹介文 の中に、「続・伊万里研究日進月歩ー伊万里は唐津の延長ー」(陶説561号;H11.12月号に掲載) というものが登場してきていますが、登場が前後してしまいましたけれど、今回の「伊万里研究日進月歩」と合わせてお読みいただければ、望外の幸せです(^-^*)

 

 

  ==================================

            <古伊万里への誘い>

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里随想12 伊万里研究日進月歩(陶説552号;H11.3月号)(平成14年2月20日登載)

 

 

 久しぶりに伊万里の本を注文する。伊万里の現物を買うとなると、「チラッ」と見る程度で決断し、また、金に糸目をつけずに購入するが(といっても、所詮たかがしれた購入額ではあるが)、本を買うとなると、あれこれ悩み、なかなか、ふんぎりがつかない。「伊万里に関する本は沢山出ていて、もう出尽くした感があるではないか。」とか、「狭い書棚もいっぱいで、もう、置くスペースがないではないか。」などとの屁理屈を考え出しては購入にストップをかけてしまうのである。

 それが、どう判断を誤ったのか(?)、『[伊万里]誕生と展開』(小木一良・村上伸之著 創樹社美術出版 平成10年10月1日発行)の注文を出してしまった。それでも、「陶説」の新刊紹介を読んでいて、10月1日の発売であることを知っていながら、いろいろと悩んだ揚句の、ボーナスをもらってからの暮れの注文という具合に、決断力のにぶいものではあった。ともかく、暮れもおしせまっての12月25日、本は無事に到着する。まあまあ、入手までに時間がかかったが、それだけに待ち遠しさも増大し、また、伊万里に関する新しい知識への渇望も手伝って、一気に読み進んだ。読み進むうちに、だんだんと事の重大さに気付く。今まで常識とされていたような見解が吹き飛ぶようなことが書かれていたり、今までの疑問点に対して見事に応えた見解が書かれていたのである。伊万里の本も、だいたい同じようなことが書かれているのが普通だ。似たりよったりなのだ。それが、この本は違う。読み進むうちに、大げさにいうと、カルチャーショックを受けたのである。

 たとえば、磁器の創始については、李参平が元和2年(1616年)に泉山で原料を発見し、天狗谷窯で創始したというのが従来の説である。これに対して、近年、磁器の創始窯は天狗谷窯ではないのではないかと主張されてきている。それでは、両者の関係はどうなっているのか、どちらかが誤りなのかという疑問が生じよう。この疑問に対して、「・・・泉山発見の意義とは、むしろ良質な磁器原料が安定して確保できるようになった点にありそうだ。これによって磁器専業窯である天狗谷窯が創設された、と考えればすべてに矛盾がない。・・・」(前掲書200ページ)と、見事にその整合性を図った記述がされている。

 また、李参平が天狗谷窯で磁器を創始したとされてきたので、当然、陶器窯と磁器窯とは全く別な窯だと思われてきたわけであるが、これに対しても、「・・・特に陶器窯、磁器窯の区別もないことだ。だから両者が混在する窯では、同じ焼成室でも併焼される。・・・陶器と磁器が熔着して出土する場合もある。・・・」(前掲書206ページ)と、白磁皿と灰釉皿が熔着して出土している例を示し、今までの常識を吹き飛ばしているのである。

 色絵の成立についての記述も見事である。

 色絵は、柿右衛門が創始したということが伝説的なまでに信じ込まれてきたが、近年、それに異論が出されていることぐらいは、「陶説」の読者ならば、先刻承知のことであろう。この色絵の成立については、「・・・まず、山辺田窯で寒色系の絵具を主体とした「色絵」が成立し、後に楠木谷窯で暖色系の絵具を主体とした「赤絵」が成立したと考えればまったく矛盾はない。・・・この後普及するのは楠木谷窯からはじまる東部系の赤絵である。だから現在でも有田では、上絵製品はすべて赤絵と称される。色絵の呼称はないのだ。喜三右衛門は年木山から、後に南川原へ移住したという。・・・楠木谷窯にはじまる赤絵の一つの完成したスタイルが、柿右衛門様式だったのである。」(前掲書221~222ページ)と、これまた見事にその整合性を図っている。

 最も衝撃的だったのは、素焼焼成についての記述である。

 古九谷様式を焼いたと思われる楠木谷窯では、少なくとも中・小皿については、「ほぼ間違いなく、素焼きしている点も見逃せない。素焼片は、楠木谷窯でもいくらか出土しているが、ゲス藪窯の最上焼成室床面に多量に残されていた。・・・ただ、この中に、焼成不良品に通有な施釉の痕跡は認められない。染付を伴うものも一点も含まれない。一室すべて無文製品を焼成する状況は、有田の窯場では想定しにくいのだ。・・・」(前掲書217~218ページ)と記されていたからである。

 これまで、生がけのものが古九谷様式であり、素焼したものが柿右衛門様式だと言われてきた。古九谷様式と柿右衛門様式との分水嶺は、素焼しているか否かにあると言われてきたのである。そして、これまでの本には、生がけ焼製品と素焼焼製品との判別方法が詳しく記述されているのが普通であった。しかし、これからは、少なくとも中・小皿についての古九谷様式と柿右衛門様式との判別には、素焼の有無は無関係になろう。純粋に、様式そのもので判別することにならざるをえまい。

 なお、「鍋島」が「鍋島様式」として、明確に「伊万里」の中に位置づけられていることにも大きな驚きを感じた。「伊万里」の定義にもよるだろうが、これまでは、「鍋島」と「伊万里」は、それぞれ別な本になっていたか、一冊の本であってもタイトルは「伊万里・鍋島」となっていたのである。「伊万里」のタイトルの本の場合は、せいぜい、その中で「鍋島」がふれられる程度であった。ところが、ここでは、「鍋島様式」という用語が使用され、「伊万里」の中に位置づけて解説されている。

 以上のように、この本を読み進む間は驚きの連続であった。まさにカルチャーショックであり、浦島太郎の心境である。近年の伊万里の研究の進歩は目覚しく、著しい。ちょっと勉強をおこたると取り残されてしまう。たまには、本にも投資し、知識を新しいものと入れ替え、落ちこぼれないようにしなければならないと痛感したしだいである。

 

   ===================================


染付 小碗

2021年05月26日 12時10分47秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 小碗」の紹介です。

 これは、平成9年に、或る神社の境内で行われていた骨董市で買ったものです。

  買う時点では、一見、「なに、これ?」と思いました。一見しては、唐津焼なのか伊万里焼なのか分からなかったからです(~_~;) 唐津焼と初期伊万里の合いの子のようなものだったからです(~_~;)

 しかし、指ではじいてみますと、金属的な音がしたんです。しっかり磁化している証拠ですね。絵付けも鉄釉ではなく山呉須ですから、これは、伊万里焼の古い手にまちがいないだろうと思いましたので、後でゆっくり調べることにして、とりあえず、買って帰ったものです。

 その後、それを調べる資料も持ち合わせていませんでしたので、特に調べることもなく、そのままにしていましたが、平成12年に「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店)が発行され、それを読んでいましたら、「伊万里焼を焼いた窯は、唐津焼と初期伊万里とを併焼することが多かったが、その合いの子を作ることはなかった」というような趣旨のことが書いてあるではないですか!

 そうなると、この器はどこで作られたものなのか分からなくなりますよね(><)

 しかし、私としては、陶工のなかにはヘソ曲がりがいて、このような、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような物を作った可能性もあるのではないかと思っている次第です(~_~;)

 

 

立面

「月」のような文様は山呉須で描かれ、全体で3箇所描かれています。

 

 

見込み面

底面に見える文様のようなものは、文様ではなく、山呉須が垂れ落ちたものと思います。

 

 

底面

高台削りなど、まるで唐津焼そのものですね。

 

 

生 産 地 : 肥前・有田 or 肥前・波佐見

製作年代: 江戸時代前期  江戸時代中期

サ  イズ : 口径;9.8cm  高さ;4.3cm  底径;4.1cm

 

 

 なお、この「染付 小碗」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しておりますので、次に、その紹介文を再度掲載し、この「染付 小碗」の紹介に代えさせていただきます。

 

 

  ===================================

            <古伊万里への誘い>

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里ギャラリー33 初期伊万里様式染付小碗      (平成14年4月10日登載)  

 

 

 一見、なに、これ?である。唐津焼かな?初期伊万里かな?と迷う。

 しかし、指ではじいてみると、金属的な音がする。しっかり磁化している。初期伊万里にまちがいないようだ。絵付けも鉄釉ではなく山呉須である。

 「古伊万里随想14 続・伊万里研究日進月歩」で記したように、創成期の伊万里磁器が唐津陶と熔着して出土したりするのであるから、唐津焼だか初期伊万里だかわからない、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような、このような器物が存在しても不思議はないだろう。

 ところが、ところがである。学問上からはそうはならないようだ。

 「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年初版発行)によると「・・・・・有田の窯のなかで磁器を焼いた窯の多くは、実は唐津焼を併焼していたことも忘れることはできない。・・・・・筆者が最も驚いたことは、有田町南川原の柿右衛門窯でも、その中心は18世紀の江戸中期に属すると思われる窯跡でやはり唐津焼が焼かれていたという発掘報告であった。有田の磁器窯は唐津焼という陶器も焼造していたのであった。」(同書8ページ)とあるので、唐津焼と初期伊万里の合いの子のようなものも当然作ったであろうと思うところである。ところが、ところがである。同書では、また、「「磁器(伊万里焼)と陶器(唐津焼)とはまったく次元の違ったやきものなのだ」という強い差別意識は、陶工・商人ばかりでなく、購買層はもとより、伊万里焼を統治する藩庁ももっていたはずである。それゆえであろうか、18世紀初頭までいつも唐津焼を併焼していた伊万里焼ではあったが、唐津焼の絵付けの文様を磁器に利用したり、逆に磁器の形や図様を唐津焼で写すこともなく、陶器と磁器の二つの作風は同じ窯のなかで厳然と区別されていたのであった。」(同書15ページ)とあるのである。

 つまり、学問上は、伊万里焼を焼いた窯は、唐津焼と初期伊万里とを併焼することが多かったが、その合いの子を作ることはなかったというのだ。でも、陶工のなかには私のようなヘソ曲がりがいて、このような、唐津焼と初期伊万里の合いの子のような物を作った可能性もあるのではないかなーなどと思っている。

 江戸時代前期    口径:9.8cm  高さ:4.3cm

 

 

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里随想14 続・伊万里研究日進月歩ー伊万里は唐津の延長ー (陶説561号;H11.12月号に掲載)      (平成14年4月10日登載) 

 

   

 伊万里の愛好家は多い。古陶磁の中で、比較的わかり易いからであろう。たしかに、タコ唐草の描き方で時代の判別ができたり、高台の厚さや作り方で初期、中期、後期の区分ができることなどから、とかくむずかしく、とっつきにくい骨董品の中にあって、なじみ易く、わかり易いからかもしれない。そういうこともあって、一昔(ひとむかし)前までは、「古陶磁の中で、伊万里が一番わかり易く、小学生でもいじれるものなんだ。」などといわれてきた。

 しかし、現時点でも、なお、そのように言えるのだろうか。確かに、一昔前までは、伊万里は伊万里、柿右衛門は柿右衛門、古九谷は古九谷であった。伊万里、柿右衛門、古九谷は、それぞれ全く関連のない別のジャンルとして研究されてきたのである。ところが、最近では、柿右衛門は、伊万里柿右衛門様式であり、古九谷は伊万里古九谷様式となって、柿右衛門、古九谷が伊万里のジャンル内に入ってきた。いきおい、伊万里を研究するには柿右衛門、古九谷も研究せざるをえなくなったわけである。伊万里の研究範囲が、がぜん広がったわけだ。更には、極く最近では鍋島も伊万里鍋島様式となり、あの我国唯一の官窯ともいうべき鍋島さえも、伊万里のジャンル入りをするに至っている。

 加えて、創成期の伊万里磁器が唐津陶と熔着して出土するに及んでは、伊万里の研究には、唐津焼さえも視野に入れざるをえなくなってきている。

 世上、陶磁器のことを、名古屋以東では「セトモノ」と言い、関西方面では「カラツモノ」と言う。また、茶陶では、「一井戸、二楽、三唐津」とか、「一楽、二萩、三唐津」などと言われる。かように唐津焼は国民的な焼物であり、かつ格調高い焼物なのだ。とても伊万里の如き小学生でもいじれるような低レベルのものではない。しかし今や伊万里の研究は、その格調高き唐津焼さえ対象とせざるをえないほどになってきたということだ。

 小木一良氏が陶説8月号(557号)の「伊万里誕生に関わる唐津と李朝、中国」の中で、「唐津陶に殆ど無関心に過ごしてきた自分の過去に、いささか後悔の念を覚えると共に、今後はこの面の勉強に努めねばならぬことを痛感している作今である。」と述べられているが、伊万里研究の流れとして、正に、そのとおりであろう。

 また同氏は、同文の中で、「・・・・・伊万里磁器の創成には唐津陶の技術と李朝陶技が基幹をなしているものの、染付技法や呉須の入手など技術開発のソフト面では中国技術が最初から重要に関係したと考えざるを得ない。」、「更に砂目積磁器作品に次ぎ、初期伊万里と言われる作品類の絵文様をみると、中国直模と言いたい文様が多く、中国との関わりの強さが伺われる。」とも述べられ、伊万里の研究には、中国陶の研究も必須であることも強調されておられる。

 ところで、最近、伊万里と中国との関係について記したユニークな書物に遭遇したので、その一部を紹介したい。その書物とは、大矢野栄次著「古伊万里と社会」(同文館出版 平成6年刊)である。著者は、久留米大学経済学部の教授であり、やきものの専門家ではないとのことである。やきものの専門家でないからこそ、やきものに関しての自由な発想ができるのかもしれない。とにかく、ユニークであり、示唆に富む内容を含んだ書物ではある。

 まず、古くは、「蒙古襲来はなかった」との大胆な発想から始まる。神風の意味については、

 「すなわち、弘安の役とは上陸して日本に帰化しようとする南宋人たちと東路軍(元・高麗軍)との戦いであり、それを助けようとする日本軍との戦いであったのではないだろうか。
 『神風』とは日本に移民に来た南宋の人々が無事に九州の地に上陸するために吹いた風だったのである。蒙古襲来は元寇ではなく南宋からの移民だったのではないだろうか。」(同書100ページ)

と推論している。そして、それを前提として、

 「元寇の意味とそのときの状況について以上のような説明が正しいとするならば、当時の九州には世界の最先端の産業や農業技術が伝わったことになるはずである。そして、それらが、日本の次の時代への変化の原動力となっていくのである。
 肥前の地には、蒙古襲来の前後に松浦党に招かれて南宋から移住して来たこれらの人々が多く住みついたのである。その中には、伊万里に伝わっている陶磁器製造の技術がある。・・・・・今日、「古伊万里」と呼ばれて珍重されている陶磁器の多くが、この元寇の時代に伊万里を中心とした肥前の地域にもたらされたと考えられるのである。」(同書139ぺーじ)

と展開していく。更に、

 二度の元寇の後、肥前の地は大陸から入植した人々と彼らがもたらした新しい技術によって大いに繁栄した。そして、松浦党の人々は南宋から移住して来た人々(江南軍)を保護し、彼らの技術力によって領内の農耕生産性は向上し陶磁器生産は大いに普及した。」(同書142ページ)

と言及し、南宋の陶磁器の製造技術が元寇の時代に肥前の地にもたらされた可能性があることを述べているのである。そして、その、元寇の時代にもたらされた陶磁器製造の技術とその後継者たちの技術が、戦国時代以後、特に、豊臣秀吉の時代以後にはどのように展開していったかについても詳しく論述しているが、その部分については紹介を省略したい。

 なお、唐津焼について留意すべきこととして、

 「豊臣秀吉による文禄の役(1592~96年)と慶長の役(1597~98)の時代に朝鮮半島からの渡来陶工による唐津やきを近世唐津やきと定義するならば、唐津やきは、この時代以前から存在するのである。鎌倉時代からあった唐津やきとこの近世唐津やきとは区別されなければならないのである。」(同書173~174ページ)

と記し、注意を喚起している。

 以上の、大矢野栄次氏の推論を前提とするならば、伊万里磁器創成の時までに、既に、肥前の地には、中国陶磁器の製造技術が普及していたわけであるから、伊万里磁器創成の時から、中国陶磁器の製造技術が大きく影響を及ぼしていたと考えても不思議はないのである。

 

  ====================================

 

追 記(令和3年5月28日)

 この「染付小碗」をインスタグラムで紹介しましたところ、「これは、下手な江戸中期の伊万里ではないでしょうか」とか「くらわんかではないでしょうか」とのコメントが寄せられました。

 私も、この小碗の出自につきましては自信がありませんので、この小碗の生産地を「肥前・有田」から「肥前・有田 or 肥前・波佐見」に、製作年代を「江戸時代前期」から「江戸時代中期」に変更いたします。