今回は、「伊羅保茶碗」の紹介です。
これは、昭和53年(1978年)に、今から46年前に、買ったものです。
先日紹介しました「高麗青磁 小皿」を買った1年後ということになりますね。
当時も、まだ、コレクションの対象を古伊万里に特化していなかった頃で、中国物や朝鮮半島物に関心を寄せていました。
特に、少々お茶や生花を囓っていた妻の影響を受けてか、朝鮮半島製の抹茶茶碗に興味がありました。
骨董に関する本を読んでいて、日本の戦国時代には、「井戸茶碗」というような朝鮮半島製の抹茶茶碗は、一国一城にも価するとされていたということを知ったからです。
まぁ、そんな、戦国時代には一国一城にも価したような抹茶茶碗など、間違っても私のような貧乏人のところにはやって来ないことは分っていたのですが、長屋一軒の所有者には価したかもしれないような抹茶茶碗なら転がり込んでくるかもしれないとは思っていたところです。
そんなところに転がり込んできた抹茶茶碗というものが、次の「伊羅保茶碗」なわけです。
ただ、この「伊羅保茶碗」、本当に朝鮮半島で作られたものなのかどうかは分りません(~_~;)
伊羅保茶碗
箱に入った状態
正面(仮定)
口縁は、山道が作られたり、一部がベベラになっていたりと、強い作為が見られます。
また、胴部の右上の方には、二箇所ほど、作為的に施した石ハゼのようなものがみられます。
正面から右に約90度回転させた面
正面の反対面
正面から左に約90度回転させた面
見込み面
口縁は、山道が作られたり、一部がベベラになっていたりと、強い作為が見られます。
左上方には、作為的に作られたと思われる、火間(ひま)のようなものも見られます。
底面
高台面
これまた、兜巾(ときん)渦巻きが作為的に強調されて作出されています。
生 産 地 : 不明
製作年代: 不明
サ イ ズ : 口径14.9~15.5cm(歪みがあるため) 底径5.7cm 高さ7.4~8.0cm(歪みがあるため)
なお、この「伊羅保茶碗」につきましては、今では閉鎖してしまいました拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところではありあすが、次に、再度、その紹介部分を掲載いたしますので、ご笑覧ください(^_^)
古伊万里への誘い(H14年3月10日登載記事)
*古伊万里周辺ギャラリー2 伊羅保茶碗流転 (陶説545号;H10・8月号掲載記事と同内容)
「イラボ茶碗!」。なんと奇妙な発音のことか。それに、その姿たるや、何と表現したらいいのだろう。むしろ、オゾマシイ?
こんな物が、我が家にも1点紛れ込んでいる。しかも、20年近く逗留しているのだ。
ところで、古美術品には物語がつきものである。ましてや、茶道具となれば、なおさらのこと。この伊羅保茶碗にも、ごたぶんにもれず、物語がついていた。
古美術店の店主の話によれば、第二次大戦中のこと、相当に茶心のある夫人が、朝鮮半島から引き揚げる際、タンスの奥に入れて持ち帰ったものであるとのことである。しかし、この茶碗、全く使われた形跡がないのであるから、そんな物語りは、何の根拠もないものであり、うそっぱちにちがいがないものであろう。そんなうそが、まことしやかに伝承されていくところに、物語の物語りたるゆえんがある。
織田信長とか千利休といったような歴史上の人物にまつわり、更に、それが史実に裏付けられたような物語を有する茶碗などは、めったにないことであり、また、そんなものは絶対に我が家などに逗留することは考えられない。しかし、「相当に茶心のある夫人が朝鮮半島から持ち帰った。」程度の物語ならば、それは、ありそうなことであり、ロマンをかきたてられるではないか。
奇妙でオゾマシクさえある伊羅保茶碗が我が家に紛れ込んだのは、そんな古美術店の店主の語る物語に主人がつられ、多少のロマンをかきたてられた結果によるものではある。しかし、店主から物語を聞かされる前に、主人が、この伊羅保茶碗を見るや否や、これはすごいと感じたのも事実であった。大ぶりで、口作りは山道でベベラあり、胴には数か所に大小の石はぜ、三か月竹の節高台で、高台内には大ぶりの兜巾(ときん)と、いろいろと約束や見所が揃っていたのである。侘茶を意識し、作意を強く意識した茶碗であった。
そこまで作意たっぷりだと、わざとらしさを通り越し、一種の完成した美しさを表現する。侘び、寂の真髄を表現するのである。元来が、研ぎ澄まされ、洗練された茶の感覚につちかわれて作られたものである。そこには、むしろ、自然があり、少しも抵抗や反発を感じさせないなにものかを見出すことさえできるのである。
ただ、ひょんなことから我が家に紛れ込んでしまったこの伊羅保茶碗にとっては、大きな不幸が待っていた。我が家の主人が全く茶などやらず、これからも茶などやる気遣いなどないので、今後とも使用されないことになってしまったからである。主人の気まぐれで購入された茶碗こそ迷惑というものだろうか。
でも、この伊羅保茶碗にとって救われることは、美術館入りしたわけではなく、主人の気まぐれで、また、どこかへ移転する可能性があることである。かつて、アーグスト・ストロング王が、自国の龍騎兵一個連隊600人と伊万里磁器等151点とを交換した話は有名である。我が家の主人も、今のところ伊万里好きであり、アーグスト・ストロング王のように、好きな伊万里のために、伊羅保茶碗と伊万里とを交換するかもしれない。そうなれば、伊羅保茶碗も晴れて自由の身、運が良ければ、茶人の所に移籍し、たっぷりと、毎日、お茶が飲めるようになるかもしれないのである。
ところが、我が家の主人、たまに、骨董仲間に伊羅保茶碗を御開帳に及んだときなど、仲間から、えらくほめられ、果ては、譲ってほしいなどと言われるものだから、ますます手離す気持を失ってきている。譲れ譲れと言われれば言われるほど、ますます意固地になって譲りたくなくなるのがコレクターの心理である。そんなわけで、伊羅保茶碗にとっては、まだまだ受難の日々が続きそうだ。当分の間は、茶人の所に移籍し、毎日が喫茶ざんまいとはいくまい。
ところで、伊羅保茶碗は、何時、何処で作られたのであろうか。本手の多くは、江戸前期に茶人の注文によって朝鮮半島で焼かれたと言われている。また、「隔めい記」の万治3年の記事には、京都で伊羅保を写していると記されているとのことである。
しかし、我が家の伊羅保茶碗は、江戸前期に遡るほどの古格を感じさせない。したがって、本手ではないだろうし、万治頃に京都で作られたものでもなさそうである。そうであれば、我が家の伊羅保茶碗は、いったい、何時、何処で作られたのであろうか。その後、日本の各地で伊羅保写しが行われているようであるから、結局は、はっきりしたことはわからないということであろう。
それにしても、作意の強い、一種の完成した美しさを表現する存在感の強い茶碗である。また、いかにも物語を伴いそうな風格を有している。それほどまでの茶碗のことだ、主人の元を離れたならば、いろんな物語を伴いながら、きっと、輝かしい、幸せな茶碗人生を歩むことだろう。