Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

墓参

2024年09月22日 19時05分23秒 | 墓参・法事・葬儀

 今日は、恒例の秋彼岸の墓参に行ってきました。

 お彼岸のお中日は、だいたいにおいて晴れる日が多いと言われていましたが、このところのシーズンが変わってしまったのではないかと思われるほどの気候不順で、これまでの天気予想が崩れてきてしまい、ジンクスが崩れ、今日は雨となってしまいました(><)

 雨をおして、わざわざ雨の日に行かずとも、明日でもよかったのですが、少し前から今日行くことに予定を立てていましたので、予定を決行してきたわけです。

 そこで、例によって、朝9時半頃に出発です。

 いつものように、まずは愚妻方の墓地に向かい、墓参を済ませました。ついで、愚妻の実家に寄り、そこの仏前で焼香を済ませ、しばし雑談を交わし、次なる、愚妻の叔父叔母の眠る墓地へと向かいました。

 

 

愚妻の叔父叔母の眠る墓地の入口付近(その1)

 

 

愚妻の叔父叔母の眠る墓地の入口付近(その2)

愚妻の叔父叔母の眠る墓地の入口付近(その1)の写真の右側の拡大写真です。

 

 

 愚妻の叔父叔母の眠る墓地に到着した頃は、まだ、時折、雨は強く降っていましたが、無事、この墓地内にある愚妻の叔父叔母の眠る墓の墓参を済ませ、今度は、私の実家の墓のあるお寺へと向かいました。

 そのお寺は、ここから北に約20kmほど離れていますが、例のごとく、途中、昼食を摂りながら向かいます。

 ところが、だんだんと進むにつれ、雨は弱くなり、お寺に着いた頃には小雨となりました(^_^)

 

 

 

 上の写真の右側に見える急坂を車で登って行っても本堂前に行くことは出来るんですが、小雨となったこともあり、この少し前にある駐車場に車を駐め、この急な石段を徒歩で登って行くことにしました。

 このお寺には、多くの彼岸花が植えられているのですが、今日の時点では、まだ、十分には咲いていませんでした。

 今年は猛暑でしたから、この暑さでは、もうとっくの昔に満開を迎え、今日の時点では散ってしまっているのかなと予想していましたが、その逆でした。

 彼岸花は、その名のとおり、ちょうどお彼岸の頃に咲くんですよね。もっとも、その咲く時季は、年によって若干の差違はありますが、、、。

 

 

彼岸花の開花状況(その1)

石段の両側に植えられた彼岸花は、まだ十分に咲いていませんでした。

 

 

彼岸花の開花状況(その2)

石段の両側に植えられた彼岸花は、まだ十分に咲いていませんでした。

 

 

彼岸花の開花状況(その3)

石段の両側に植えられた彼岸花は、まだ十分に咲いていませんでした。

 

 

 この急な石段を上りきると本堂前に到着します。

 

 

お寺の本堂

 

 

 本堂前を左に曲がって直ぐの所に私の実家の墓地があります。

 そこで、墓参を済ませ、本堂にお賽銭をあげ、今度は、先程登ってきた石段をゆっくりと下りていって、駐車場に戻ります。

 

 

先程登ってきた急な石段を上から見たところ

一部、彼岸花が満開となっていた所がありました。

 

 

 無事、全行程が終了しましたので、帰宅の途に着きました。

 帰宅の途に着き、家路を急いでいましたところ、途中から小雨も止み、晴れ間が覗くようになり、だんだんと気温も上昇してきました(^_^)

 やはり、お彼岸のお中日は晴れるというジンクスは当たっているのかもしれません(^-^*)


検証 長篠合戦

2024年09月21日 18時57分03秒 | 読書

 「検証 長篠合戦」(歴史文化ライブラリー382)(平山優著 吉川弘文館 2014年(平成26)8月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本も、いわゆる「歴史小説」というものではなく、「歴史書」といえるものに属するようです。

 「長篠合戦は、天正3年(1575)5月21日、三河国長篠の設楽ヶ原(したらがはら)(当時は有海原(あるみはら))で、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍勢を撃破したもので、その勝因は織田軍が装備した鉄炮3,000挺であったこと、またその射撃法が三段撃ちであったことはつとに知られている」(P.1)わけで、それが通説になっているわけですけれども、その通説が、近年、多岐ににわたる批判に晒されれているので、それらについて、検証を試みようとして書かれたものでした。

 その多岐ににわたる批判というものは、次のようなことだとのことです。

 

① 長篠合戦に織田信長が投入した鉄炮3,000挺は事実か。

② 鉄炮3,000挺の三段撃ちはあったのか(織田信長の天才的才覚による、この戦法の発明を契機に軍事革命、線戦術革命が起きたというのは事実か)。

③ 武田勝頼の軍勢に騎馬隊は本当に存在したのか。

④ 武田勝頼の作戦は無謀で、自殺行為ともいえる突撃が繰り返されたがそれはなぜか。

⑤ 武田勝頼は、味方の不利を説き、諫める家臣達を振り切って決戦を決断したというのは事実か否か。

⑥ 織田信長の装備した鉄炮とはどのように集められたか。

⑦ 武田氏は信玄以来鉄炮導入には消極的というよりも、むしろその有効性を軽視しており、これが長篠敗戦に繋がったというのは事実か。

⑧ 長篠合戦場には両軍の陣城跡が歴然としており、これが鉄炮と並んで合戦の帰趨に影響を与えたのではないか。

⑨ 馬防柵は、織田信長が緻密な計画を立案し建設したとされるが事実か。

 

 著者は、これらのテーマに関し、多方面から、例えば、考古学の手法を使っての、両軍から合戦場に打ち込まれて残った鉄炮玉の数や大きさ、その材質などの研究成果なども考慮して、詳細に検討を重ねています。

 

 その結果、著者は、

 

「① 織田・徳川軍と武田軍には、「兵農分離」と「未分離」という明確な質的差異はなく、ほぼ同質の戦国大名の軍隊であり、②合戦では、緒戦は双方の鉄炮競合と矢軍(やいくさ)が行われ、やがて接近した敵味方は打物戦に移行し、鑓の競合と「鑓脇」の援護による戦闘が続く、③打物戦で敵が崩れ始めると騎馬衆が敵陣に突入(「懸入」「乗込」)し、敵陣を混乱させ、最終的に敵を攻め崩す、④戦国合戦では、柵の構築による野陣・陣城づくりは一般的に行われており、それ自体は特異な作戦ではなかった、⑤合戦において、柵が敷設されていたり、多勢や優勢な弓・鉄炮が待ち受けたりしていても、敵陣に突撃するという戦法は、当時はごく当たり前の正攻法であった。・・・こうした戦国合戦の実相をもとにすると、武田勝頼が長篠合戦で採用した作戦は、ごく普通の正攻法であり、鉄炮や弓を制圧し、敵を混乱させて勝利を目指すものであったと考えられる。しかしそれが成功しなかったのは、勝頼や武田軍将兵が経験してきた東国大名との合戦と、織田信長とのそれとの違いであたと思われる。それは、織田・徳川軍が装備した鉄炮数と、用意されていた玉薬の分量、さらには軍勢の兵力の圧倒的差とい形で表れたと考えられる。」(P.230~231)

 

としています。つまり、

 

「武田勝頼の敗因、織田信長・徳川家康の勝因は、通説の如き旧戦法対新戦法、兵農未分離の軍隊対兵農分離の軍隊という両軍の質的差異、勝頼の無謀な突撃作戦などではなかったと推察される。両者の明暗を分けたのは擁した火器と弾薬の数量差、そして兵力の差であり、それらはいずれも武田氏と織田・徳川両氏の擁する領国規模と、鉄炮と玉薬の輸入もしくは国産の実現可能な地域とアクセスしうる可能性の格差という理由に絞られるであろう。」(P.234)

 

としています。

 

 そして、著者は、

 

「前著(『長篠合戦と武田勝頼』)と本書の執筆を通して、今も根強い織田信長や徳川家康に対する過大評価は慎むべきだと痛感した。戦後歴史学は、歴史上の人物の業績を社会構造などから読み直すことを課題としてきたはずなのに、戦国・織豊期でいえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という個人の資質に、すべての現象を還元して議論する傾向から、なぜか今も抜け出せていない。たとえば織田権力と戦国大名を同列では論じることは出来ないとか、そもそも織田権力を「先進」とアプリオリに措定し、そこへの到達度で戦国大名の「発展」「後進」の度合いを論じることは本当に意味があることなのだろうか。前著と本書で力説したのは、織田氏も戦国大名であり、あらゆる面からみて武田・北条・上杉・今川氏などと同質の権力体だということだ。最終的に広大な領国を形成し「天下」を掌握したことだけを根拠に、だから戦国大名とは違うはずだ、はもう止めにしようではないか。」(P.240~241)

 

と書いています。


中秋の名月

2024年09月17日 19時27分40秒 | その他の日記

 今日は、中秋の名月とのこと。

 天気予報によりますと、今夕は月が見られそうだとのことなので、準備を始めました。

 まず、スーパーに行ってお団子を買ってきました。

 最近では、自宅でお団子を作らずにスーパーに買いに行ってます。しかも、月見後に、沢山食べるわけではないので、ほんの少しの量のものを買ってきています。

 その後、夕刻、近くの野山に行き、ススキを採ってきました。また、ついでに、落ちていた山栗も少々拾ってきました。

 設えとしては、野山から採ってきたススキに、我が家の庭に咲いていた萩、ワレモコウ、オミナエシを添え、また、台所にあった、大根、ニンジン、ナス、サツマイモに野山から拾ってきた山栗とスーパーから買ってきたお団子を供えました(^_^)

 

お月見の設え(その1)

 

 

お月見の設え(その2)

「お月見の設え(その1)」を撮った時よりも少し時間が経過した時の写真です。

月が少し上のほうに写っていることが分ります。


骨董市

2024年09月15日 11時26分11秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、月に一度の、定例の骨董市の日でした。

 ここのところ、朝晩は、かなり涼しくなり、今朝もそれほど暑くなかったものですから、「今日は骨董日和になったかな(^_^)」と思い、いそいそと出かけました。

 ところが、骨董市会場に到着したころは、また、急に暑さがぶり返したようで、真夏に逆戻りでした(><) 

 台風の影響なのでしょうか、、、? 家を出る頃は曇りがちだったのですが、骨董市会場に到着したころは晴れてきて、強い日射しがぶり返し、クラクラと、目眩を覚えるほどになったのです。今日も、帽子を忘れたことを会場に到着してから気付きましたが、後の祭りです(><)

 そんなことで、熱中症にでもなったら大変と思い、会場内をさっさと一巡し、30分もいないで退散してきました。もっとも、出店業者さんも、この暑さを見越してか、少なかったものですから、それに拍車をかけたようです、、、。

 ということで、今日は、収穫なしに終わりました。

 なお、5日後の20日は古美術品交換会の日なのですが、5日後の20日には所要があり、出席できないものですから、今月も収穫無しに終わりそうです。来月以降に期待です(^_^)


小説集 明智光秀

2024年09月10日 16時37分10秒 | 読書

「小説集 明智光秀」(末國善己解説 作品社 2019年9月30日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 ところで、この本の構成はちょっと変わっていて、次のようになっていました。

 

*明智光秀・・・・・・・・・・菊池寛著

               底本:『日本武将譚』(黎明社、1936年)

*明智光秀・・・・・・・・・・八切止夫著

               底本:『新説・信長十二人衆』(作品社、2002年)

*明智光秀の母・・・・・・・・新田次郎著

               底本:『赤毛の司天台』(中央公論社、1971年)

*明智光秀・・・・・・・・・・岡本綺堂著

               底本:『綺堂戯曲集 第九巻』(春陽堂、1925年)

*ときは今・・・・・・・・・・滝口康彦著

               底本:『権謀の裏』(新人物往来社、1988年)

*明智光秀の眼鏡・・・・・・・篠田達明著

               底本:『時代小説最前線 Ⅰ』(新潮社、1994年)

*光秀と二人の友・・・・・・・南條範夫著

               底本:『幻の百万石』(青樹社、1996年)

*本能寺 明智光秀について・・柴田錬三郎著

               底本:「本能寺」『風雲稲葉城』(富士見書房、1987年)、「明智光秀について(一)、(二)」『柴田錬三郎選集 第十八巻』(集英社、1990年)

*光秀謀叛・・・・・・・・・・小林恭二著

               底本:『異色時代短編傑作大全』(講談社、1992年)

*光秀と紹巴・・・・・・・・・正宗白鳥著

               底本:『日本の文学 第十一巻』(中央公論社、1968年)

*明智太閤・・・・・・・・・・山田風太郎著

               底本:『明智太閤』(東京文芸社、1967年)

*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著

               底本:『生きていた光秀』(講談社、1963年)

*解説・・・・・・・・・・・・末國善己著

 

 各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部を切り取ってきて編集し、最後に、末國善己氏の「解説」を載せるという構成になっているわけですね。しかも、その「解説」も、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部について解説をしたものではなく、末國善己氏が、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部とは関係無く、独自に、明智光秀に関して書かれた各種書物を解説しているんです。

 内容的には、各小説家が、明智光秀についていろんな角度から書いていますので、「へえ~~、こんなこともあったんだ。こんな見方も出来るんだ」と感心させられ、読み物としては面白く感じました。

 この本の中で、私の頭の中に残ったものの中の一つを次に紹介し、この本の紹介とさせていただきます。

 それは、上の、「*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著」の最後の部分です。

 

「光秀はその後新左衛門の助力で、泉州助松村の蓮正寺内に助松庵というのを建ててそれに住み、後に貝塚市鳥羽の大日庵(今は岸和田の本覚寺と合併)に移った。

 そして、秀吉の死んだあと一年、慶長四年の春、ふたたびここへ位牌を残して、飄然と何れかへ立ち去ったことになっている。

 本覚寺に残っている位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」とあり、輝雲の、道琇のに光秀の二字がかくされている。裏には慶長四年 月 日とあるだけで月日の記入はない。生きていた人の位牌というしるしであろう。この時光秀を連れ去ったのは家康の政治顧問であった天海僧正だと伝えられている。それが事実ならば、光秀の持病は徳川氏の天下にまで及んだことになるのだが、堺関係の資料にも、そこまでのものは見当たらない。

 天海が光秀だったなどという伝説も、このあたりから出たものであろう。玄琳は、後の妙心寺大嶺院の南国梵珪和尚のつもりである。  」