今回は、「色絵 蝶文 小皿」の紹介です。
これも、平成元年に東京の古美術店から買ってきたものです。しかも、前回紹介しました「色絵 山水文 扇面形小皿」と一緒に、同じ日に、同じ店から買ってきたものです。
表面
下の方に焼継ぎの補修がしてあります。
表面下部の焼継ぎ補修箇所の拡大画像
裏面
上の方に焼継ぎの補修がしてあります。
(補修箇所は、表面の補修箇所と同じ場所です)
裏面上部の焼継ぎ補修箇所の拡大画像
高台内銘款(?)の拡大画像
生 産 地: 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期
サ イズ : 口径;14.5cm 底径;8.9cm
この小皿は、大変に薄作りです。そのせいもあってか、口縁の一部が割れてしまい、そこが焼継ぎで補修されています。
最近、知ったことですが、焼継ぎの職人が焼継ぎの補修をした場合、焼継ぎ職人は、硝子で自分の屋号を書いて残す習慣があるということらしいですね。
ところで、この小皿の高台内には、「吉村」と読める文字が書かれています。それについては、以前から、いったい、どのような意味があるのか悩んでいました(~_~;) これは、窯元の窯印なのか、或いは、注文主の名前を書いたものなのかと、、、。
それで、今回、これは、ひょっとして、この小皿の焼継ぎ補修を行った焼継ぎ職人の屋号だったのだろうかと考えてみました。
しかし、どうも、そうではないように思いました(~_~;) というのは、この焼継ぎの補修の仕方が下手ですよね。職人ならもっと上手なはずですよね。職人として、自分のやった仕事に自信をもって自分の屋号を残すような仕事ではないように思うからです。こんな仕事では、恥ずかしくて、自分の屋号など残せないでしょう。それに、これは、硝子で書いてありませんね。
そんなことから、これは、焼継ぎ職人の屋号ではないと思ったわけです。そうしましと、また、「いったい、この高台内の「吉村」という意味は何なのか」という疑問が残りました。
それはともかく、この小皿につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも紹介していますので、次に、それを紹介し、この小皿の紹介に代えさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー113 古九谷様式色絵蝶文小皿 (平成19年9月1日登載)
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表 |
裏 |
見込みいっぱいに蝶一匹を描いた大胆な構図である。
初期伊万里にはよく蝶文が登場する。中国の古染付にもよく登場する。
伊万里が古染付をお手本としてスタートしたことを証明する材料の一つといえよう。
この小皿も、その延長線上にあるのではないだろうか。
伊万里は常に中国磁器に憧れていたのである。
だから、伊万里の場合は、自然の蝶をデッサンして描いたのではないと思えるのであり、この小皿の場合も同様であろう。
ところで、この小皿の素地は、見込みが蛇の目状に釉剥ぎされている。ということは、釉剥ぎされた部分にどんどん積み重ねていって焼かれていたことがわかる。つまり、一枚一枚が丁寧に焼かれたのではなく、積み重ねて焼かれた量産品であることが分かるのである。
なお、蛇の目釉剥ぎの技法は、中国磁器には見られるが、朝鮮王朝磁器には見られないとのこと。
ここにも、中国の影響を見てとることが出来るのである。
江戸時代前期 口径:14.5cm 高台径:8.9cm
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*古伊万里バカ日誌51 古伊万里との対話 (蝶文の小皿) (平成19年8月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
蝶 子 (古九谷様式色絵蝶文小皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
昔から、夏風邪はバカしかひかないとか、、、、、。
ところが、主人は、先日、高熱を出し、遂に病院に行くはめに陥った。病名は「急性気管支炎」とのこと。
主人が夏風邪をひくようになったのも、老化が進んでバカになったからだろうか、、、、、。
もっとも、この夏は特に暑く、クーラーの付いているフェレットのチャチャの部屋に布団を持ち込んでお泊りしたりしていたので、のどや鼻の粘膜の抵抗力が弱り、風邪ウィルスに侵入されてしまったのかもしれない。
二日ほどは高熱に悩まされて安静にしていたが、三日目からは動き出したようである。
そんなこともあって、今回の対話にも、どうも意欲が湧いてこないようではあったが、押入れから適当に小皿を引っ張り出してきては対話をはじめた。
主人: これは私の最近の口癖になってしまったが、「いや~暫くだね!」。
蝶子: はい。お久しぶりです。
主人: ところで、「押入れ帳」を見ていて気付いたんだけど、前回対話した扇面形の小皿とお前とは、東京の店から同じ日に来ているんだよね。つまり、私は、同じ店から同じ日に二点買ってきたわけだ。
蝶子: ご主人は、そんなに所持金があったんですか?
主人: そうなんだ。二点では結構な金額だし、二点をまとめて買うほどの所持金はなかったと思う。それで、どうして支払ったのかな~と今思い出しているんだが、よく思い出せないんだ。たぶん、後日、銀行振込みで支払ったんだと思う。
蝶子: お金を払わないでも持ち帰ることが出来たんですか。ご主人は相当に信用があったんですね。
主人: その店とは結構長い付き合いだからね。信用されるようになっていたんだね。それにしても、田舎者の住所も名前も知らない者を、東京の店の人がよくぞ信用してくれたと思うよ。骨董というものにはそんな所もあるな。もっとも、私の方だって、その店の主人の鑑識眼を信用し、主人の薦める物をわりと素直に受け入れてきていたからね。主人としても嬉しかったんだろうね。そんなこんなで、お互いの信頼関係が築かれてきたんだと思う。
ところで、骨董というのは、最初の頃は、しっかりとした業者の方のしっかりとした鑑識眼を信じて購入しながら勉強していかなければ上達しないのではないかと思うね。最近では、ネットオークションなどで購入する者が増えてきているけど、初心者は、いつまでもそれだけにとらわれていてはいけないと思う。だって、何が真で、どんなものが優品なのかを判別する訓練を受けてないわけだものね。鑑識眼は天性のものかもしれないけど、ある程度の訓練は必要と思う。
蝶子: ご主人が私を購入しましたのは平成元年なわけですが、その頃、私のような“手”を多く購入されているんですか?
主人: まっ、多いというほどではないが、平成元年前後には、比較的に、ポツリポツリと手に入れているな。
古九谷伊万里説がだんだんと浸透するに従い、古九谷様式のものが市場に多く出回ってきたように思う。
「古九谷」が九谷焼の古いものではないということになるにつれて、「古九谷」が多く市場に出回るようになってきたわけだ。どうしてなんだろうね。「古九谷」が否定されるに従い、所蔵者に嫌気がさし、市場に投げ売りされるようになったからだろうか? 「古九谷」の権威も落ちてきて、市場に出回る数も多くなったので値段も随分と安くなったわけだね。
「古九谷」が九谷で作られたものではないとなると、では一体どこで作られたのかとなるわけだ。伊万里焼だとしても、赤絵は柿右衛門が作り出したものだから、柿右衛門様式のものが一番古いことになっているので、伊万里焼にはそれ以上に古い赤絵などはないことになるわけで、それでは一体「古九谷」はどこで作られたものなのかということになるわけだ。その後、伊万里焼の一番古い赤絵は柿右衛門様式のものではなく古九谷様式のものということになってきたので、「古九谷」は伊万里焼の古い赤絵ということになった。「古九谷」もやっと安住の地を得たわけだ。
そんな事情から、古九谷様式のものが当時出回ってきたので、ポツリポツリと手に入れることが出来たわけだよ。
蝶子: ご主人は巡り合わせが良かったんですね。
主人: 「古九谷」にとっては不運の時代だったろうね。でも私にとっては幸運の時代だったわけだ。でもね、「古九谷は古伊万里だ!」という強い信念があったからこそ入手できたんだと思う。
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<追記>(令和3年2月1日)
「この小皿の銘款(?)について」
この小皿の高台内には、上の「高台内銘款(?)の拡大画像」から分かりますように、何やら、文字のようなものが書かれています。
買った当座は、これは「壽」という文字なのだろうか?、或いは「壽」を略した「寿」という文字なのだろうか?と悩んでいました。また、これは、「銘款」なのだろうか?とも悩んでいました。
しかし、それらを調べるだけの資料も持ち合わせてなかったこともあり、何時の間にか、その疑問も、そのままになってしまいました(~_~;)
そして、その後も、その疑問を調べることなく、その疑問はそのままにして、その疑問は伏せたままで、「古伊万里への誘い」の中で、この小皿を紹介したところです。
今回、再度、この小皿を紹介するにあたっては、また、その疑問が頭をよぎりました。しかし、やはり、調べるだけの資料も不足していますし、また、調べるのも面倒になり、今度は、敢えて、「吉村」と書いてあるということにして、問題提起の意味も込めて紹介したところです。
また、それを、このブログだけではなく、インスタグラムでも紹介いたしました。
そうしましたら、インスタグラムでこの小皿を見た方から、「これは、『吉村』ではなく、『寿』ではないでしょうか」とのコメントが寄せられました。
そのコメントに接し、やはり、これは、「吉村」ではなく、「壽」か「寿」の文字で、銘款なのだろうと思うようになりました。
そこで、乏しい手持ちの資料を使って調べてみることにしました。
その資料は、佐賀県立九州陶磁文化館発行の「柴田コレクションⅣ」(平成7年発行)です。
その巻末のほうに、鈴田由紀夫氏(現:佐賀県立九州陶磁文化館館長)が、「17世紀末から19世紀中葉の銘款と見込み文様」という論文を載せています。
そこには、
「 有田の磁器に銘款が入るようになるのは、1630年代からであり、・・・・・
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・・・・・⑥は上絵付の銘款であり、黒の線書きのあと緑色で塗られている。銘款の描き方は、一般的には染付でなされ、このような上絵付による銘款は少なく、文様としての要素が強い。
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」
と書いてありました。
伊万里の銘款には、色絵の「壽」の文字のようなものもあったんですね。そうであれば、「寿」の文字のようなものもあったであろうことは容易に想像できるところです。
以上のことから、この小皿の高台内に描かれた文字のようなものは、やはり、「壽」か「寿」の文字を意識して描いた銘款であったとみてもいいように思うようになりました(^-^*)
また、上の⑥の上絵付の銘款は1700~1730年代に登場するものですが、この小皿は、これよりもず~と早い1650年代前後に作られたものと思われますので、この小皿の銘款は同じく上絵付の銘款でもありますし、⑥の上絵付の銘款の嚆矢となるのではないかと思われます。